第1話:太閤の狂気と、揺れる懐妊
文禄二年(1593年)。
世は、太閤・豊臣秀吉の絶頂期であり、同時に「終わりの始まり」の季節だった。
「産まれたがね! 産まれたて! 拾が、わしの子が産まれたがや!」
大坂城のきらびやかな廊下を、五十代後半に差し掛かった秀吉が、子供のように飛び跳ねながら走っていた。のちの秀頼である。
かつて茶々(淀殿)との間に授かった長男・鶴松を数年前に亡くし、絶望の底にいた秀吉にとって、この第二子誕生はまさに奇跡だった。
「おい、佐吉! まぁいっぺん言うてみよ! わしの子だて! 豊臣の天下は、これで未来永劫安泰だがね!」
しわくちゃの顔をクシャクシャにして、尾張の百姓上がりの剥き出しの言葉でまくし立てる主君。
その歓喜の姿を、五奉行の一人、石田三成は床に平伏しながら、氷のように冷ややかな目で見つめていた。
(……奇跡、などというものが、この世にあるはずがない)
三成は細い目をさらに細め、懐妊前後の大坂城の記録を脳内で引き写していた。
秀吉はすでに高齢。
多くの側室を抱えながら、茶々以外の女性に子供を宿らせたことは一度もない。
医学という言葉がない時代でも、男たちの間では「殿下には種がない」という噂が、命がけの密語として囁かれていたのだ。
「三成、何をもさもさしとる。早う祝宴の支度をせんとか。尾張の身内も、皆集めて大騒ぎせにゃあかんがや!」
秀吉に肩を激しく叩かれ、三成は慌てて笑顔を作った。
「ははっ。豊臣の世はこれで万代に続きますな。すぐに手配いたします」
「おう、頼んだぞ! わしゃあ嬉しくて、胸がいっぱいでかんわ!」
満足そうに、またドタバタと廊下を駆けていく秀吉の背中を見送りながら、三成の背中には冷たい汗が流れていた。
もし、あの子が秀吉の子ではないとしたら。茶々が、豊臣の血筋を残すために、あるいは自身の権力を守るために、別の男を寝所に引き入れていたとしたら――。
その夜、三成は深夜の大坂城を密かに歩き、茶々の居所へと向かった。
すべてを知るべき男として、彼女の側近である「あの男」に会うために。
薄暗い部屋の襖を開けると、そこには一人の大柄な武者が待っていた。大野治長。茶々の乳母の子であり、幼馴染。
そして、秀吉とは似ても似つかぬ、豊満な体躯と整った容姿を持つ男。
「大野殿。おめでとう、と言っておこうか」
三成の低い声に、治長はピクリと肩を揺らした。
「石田殿……何の話だ。拾様の誕生は、豊臣家すべての誉れであろう」
「言葉が軽いな」
三成は治長の目の前に座り、その鋭い眼光で男を射抜いた。
「拾様の産着の仕立てを命じたのは、お前だな。……いや、それだけではない。懐妊の三ヶ月前、殿下が名護屋城に出陣され、この大坂城を長期間留守にされていた折、茶々様の寝所の警護を毎夜務めていたのも、お前だ」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
治長の手が、無意識に刀の柄へと伸びる。
「私を斬るか? 大野殿。だが、私を斬っても噂は止まらん。すでに加藤清正や福島正則ら、尾張以来の武断派の連中も首を傾げている。
『殿下の子にしては、できすぎている』とな」
「黙れ!」治長はついに声を荒らげた。
しかし、その瞳には恐怖が宿っている。
その時、二人の背後の襖が、音もなくすっと開いた。
「騒がしいですね、二人とも」
現れたのは、白き小袖を纏った茶々であった。
産後間もないはずの彼女の肌は透き通るように美しく、その瞳には妖しいまでの覚悟が宿っていた。
「茶々様……!」
治長が狼狽して平伏する。茶々は三成を見下ろし、冷たい微笑を浮かべた。
「治部、そなたは頭が良すぎる。だが、天下の行く末が見えていない。殿下はもう長くはない。豊臣が次の世も天下を治めるには、『秀吉の子』という神輿が絶対に要るのです」
「……それは」
三成は息を呑んだ。茶々は、否定も肯定もしなかった。
ただ、「必要だから存在させた」と言い放ったのだ。
「あの方の尾張訛りの喜びを、偽りにしてはなりません。この子は、殿下の子。そうですね、治長、三成?」
茶々の言葉は、絶対の命令であった。
秀吉の実子か否かなど、豊臣の権力を維持するためには些細な問題に過ぎない。
この歪んだ秘密を共有することこそが、豊臣を生き残らせる唯一の道だと、彼女は告げていた。
三成は深く深く、床に頭をつけた。
「……御意にございます。拾様こそ、正統なる豊臣の世継ぎにございます」
こうして、大坂城の深い闇の中に、一つの巨大な嘘が定着した。
太閤の無邪気な尾張弁の歓喜の裏で、植えられた不信の種。
これがやがて豊臣の家臣団を真っ二つに引き裂き、徳川家康という老獪な怪物に付け入る隙を与えることになる。
それは、秀頼という悲劇のプリンスが背負う、あまりにも重い宿命の始まりであった。




