第4話 杏の花を散らした下女
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「――あの贈り物は、皇后陛下の嫌みだと思う?」
揺玉宮を出る直前、璃月は小声で愚痴を言った。
よそゆきを身にまとい向かうのは、皇后の住まう長楽宮だ。その理由は皇后から下賜された杏の花の枝。
いまだ春は浅く、杏が咲くには早い。わざわざ木をあたためて咲かせた花なのだろう。そんな珍かな枝を賜ったとなれば出向いて返礼するのは当然なのだが、璃月はもやもやしていた。
何故ならば、杏の花は〈高貴な花婿〉の意味を持つから。
「さっさと嫁げとお申しつけかしら」
「滅多なことはおっしゃらないで下さいませ」
後宮で足の引っ張りあいは日常茶飯事。皇后に楯突くような発言を聞きつけられたらどうなることか。宮にひしめく女たちの頂点に立つのが皇后だ。
璃月を諌めたのは乳母の彩天だった。その隣を歩くのは麗珂淑妃の女官頭である碧葉。揺玉宮の主である麗珂妃の名代なのだから、璃月以下これぐらいの面々は揃えなければならない。碧葉が微笑んでとりなした。
「杏の花には〈詩書に通ずる〉の意味もあります。妃嬪や公主ならば教養を身につけよとのお達しでしょう」
官僚登用試験の科挙に受かることを「杏が咲く」と言ったりもする――だがそれも腹の立つ解釈だった。皇后は、璃月のおつむが残念だとでもいうのだろうか。槍にかまけていることは知られていないと思うのに。
後宮の主だった宮の間には回廊がめぐっていた。渡る璃月に気づくと女官や宦官たちはうやうやしく頭を下げる。だが少し先の太い柱の向こうから高飛車な怒声が聞こえた。
「――どうしてくれるの! これは貴重なものなのよ!?」
のぞいた璃月の視線の先にいたのは女官たち――これから訪ねる長楽宮の者と思しき姿だった。
「あらぁ……?」
璃月の視線になど気づかないのか、長楽宮の女官たちは大げさに嘆息し首を振って嘆いてみせる。四人の女官の足もとには折れた枝と散った花――揺玉宮に届いたのと同じ杏のようだ。
花びらの前にはうずくまる下女がいた。その脇に雑巾が落ちている。たまたま勾欄の拭き掃除中のところへ、女官らが曲がりしなにぶつかったのだろう。下女はうつむいたまま震える声で謝罪した。
「も、申し訳ありませ……」
「謝られてもねぇ」
「貴妃さまへのお届け物ですのに」
「せっかくの花が……わたくしたちまで罰せられてしまうかも」
「まあぁ! 悪いのは、この小娘でしょう?」
ひと言謝れば四倍の糾弾が降ってくる。身じろぎもできない下女がかわいそうになり、璃月はそちらに歩み寄った。
「それは、皇后さまからの杏の花ですか?」
「え――あ、公主さま!」
なるべくのほほんと声を掛けてみたら、璃月に気づいた女官たちは顔色を変えた。取りつくろうように姿勢を正し頭を下げる。
うちの一人が捧げ持っていたのはやはり、揺玉宮に届いたのと似た杏の花の枝だった。先のほうが一枝だけ折れている。皇后からの贈り物を損なってしまえば女官が居丈高になるのも当然か。璃月はにっこり微笑んだ。
「早咲きの花は珍かなものですね。私も今、春の息吹を賜ったお礼に長楽宮へ参るところです」
璃月が言うと、女官たちは我が意を得たりと勢いづいた。
「さすが、細やかなお心づかいでございます」
「いいえ。その枝はすこし傷んでしまいましたか。貴妃さまに差し上げるのに失礼になるし、皇后さまのお顔をつぶしかねないと?」
「さようでございます」
この下女のせいで、と憎々しげにする女官たちに璃月はやわらかく笑んでみせる。
「ならばこうしましょう。彩天」
「はい」
後ろに控える乳母に璃月は申しつけた。
「私の部屋に賜った花を、こちらと取り替えてきて。まだ活けたばかりですから見劣りはしないはずです」
彩天はかしこまりましたと頭を下げたが、女官たちはうろたえる。
「そ、そんな! 公主さまのためのお花を」
「まあ。あなたがたが花を散らしたと罰を受けるのですか?」
驚いてみせると女官たちはオドオドと目配せし合う。誰も叱られたくなどないのだ。
だが璃月に尻ぬぐいさせるわけにいかないと思うのか、一人が抗弁した。はいつくばる下女を指さす。
「枝を折ったのは、この下女なのです。この者を罰するべきでは」
「……でもあなたがたの下女ではないでしょう?」
問いかけると女官は黙った。
ここは貴妃の住まう碧梧宮の横。ならば貴妃に仕える者のはず。長楽宮が勝手に処罰はできないし、事情を報せれば贈り物の花を傷めたことは皇后にも貴妃にも知れてしまう。女官らも叱責されることは確実だ。
たかが花、されど面目をかけた贈り物。
台なしにしたとあれば女官など広場に引き出して打ちすえられるだろうし、下女ごときなら死を賜るかもしれない。それは、裁く者の機嫌次第。
「ではもういいですね。何もなかったことにしましょう。私は綺麗な枝を賜ったお礼を申し上げに長楽宮へ参ります。よく似た杏が貴妃さまにも贈られたそうで、皇后さまのお心配りには感服いたします」
苦労知らずをよそおった微笑みで璃月が決めてしまう。彩天は女官から折れた杏を取り上げると揺玉宮に戻っていった。入れ替えを待つ間、この下女にはここを片づけてもらわなくては。璃月はそっと声を掛ける。
「――あなたは碧梧宮の人? 名は?」
おずおずと顔を上げた下女は若く、璃月と変わらないほどだった。
「はい。碧梧宮の下働き、小翠と申します」
碧梧宮の小翠。
――あれ、となった璃月は目をパチパチした。
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碧。翠。どちらも青や緑の色みをあらわす字だ。
だが公主がよその宮の下女と親しくなるなど、普通ならあり得ない。
「黒い蝶が小翠っていうのはないかなぁ」
「下女はさすがに……璃月さまと不釣り合いにもほどがありますよ」
首をかしげる璃月に応じたのは娘子軍の春芳だった。そしてここは揺玉宮の中庭――となると二人の手にあるのは、槍。
璃月は皇后への返礼をつつがなくこなし戻ったのだが、もやもやを払うため少年の姿に着替え槍を手にしていた。でも春芳との打ち合いはしない。母の麗珂妃が頭痛で寝込んでいるのでうるさくしたくないのだ。
ぶん。
素振りすると、わりと鋭い音が出た。腕力は上がっているかもしれない。続いて突きの型を繰り返した。穂槍が冷たくきらめくたび、思考が研ぎ澄まされる気がする。
「お母さまの夢見にもまあまあ当てはまるのよ」
麗珂妃の不調は香を使う〈夢見〉のせいだ。璃月を巻き込む何かが起こるならと倒れる危険をおかして異能を使い、そのせいで長楽宮へは名代を立てざるを得なくなった。
景琛が伝えたのは花園に群れ争う蝶の姿。より深く夢に身をゆだねた麗珂妃は、そのさらに先を見たらしい。
空にいた白と黒の蝶は、眼下で飛び交う群れにそっと近づいたそうだ。しかしすぐに追われて飛び去る。
その行く先には合歓の木が生えており、黒い蝶はその葉が閉じるのに巻き込まれるように消えた――それが麗珂妃が告げたこと。
「……どんな意味なんです?」
春芳は動きをとめ槍をトンと立てた。武術にすぐれる春芳だが夢解きなどさっぱりわからない。
「うーんとね、黒い蝶は後宮の争いに負けるのだと思う。小翠の立場ならそりゃあ負けるでしょう? でも逃げた先が合歓っていうのが謎で」
「合歓の木ってあれですよね。薄紅の糸みたいな花がホワホワと咲いて、夜に葉が閉じる……」
「そう。でね、男女のむつみ事を意味するの」
それは夢解きとしての知識。実感がないので璃月は平然としていた。春芳の方が年甲斐もなくたじろいだが、浮いた話と縁遠いので仕方ない。春芳は武官だった亡き父にあこがれて就いた軍務に打ち込んでいるのだ。
「は、はあ。男女……」
「その葉の中に消えていくってねえ。誰かと通じることで守られるのか、逆に死んでしまうのか……後宮に男なんてほぼいないのに」
璃月は眉を寄せた。
後宮とは皇帝――つまり璃月の父のために存在する女たちの園。璃月と同じ年頃の小翠に父が手を出すとのお告げだとすると微妙な気分になる。現在最年少のお手つきは十七歳だったはずなのであり得る話だが。
「まあ……陛下以外なら出入りする男性は太子さまと景琛さまぐらいですね」
春芳も一緒に考え込む。
現在皇城にいるのは第一公子である太子と、第四公子の景琛だけ。第二、第三の公子はそれぞれ所領を与えられ任地におもむいている。太子にはすでに妻子があり、東宮にて側室らも囲っていた。
対して景琛はいまだ独り身。それは野心などないとの意思表示なのだ。後継ぎのない者に帝位は相応しくないから。
「……お兄さまが、小翠と?」
考えてみて璃月はやはり渋い顔のままだ。誰が相手であろうと、それはちょっと。
兄を取られるような気がしておもしろくなかった。




