第26話 新たな夢見へ
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「ほう……修媛の側に近い宦官とは、そのような出自の者だったのか」
皇后は口の端をゆがめ吐き捨てた。その前で丸い体をますます丸め、深々と頭を下げているのは太監の瑾瑜だ。翠蓮と徒嵐の関係について調べ上げ報告に来たのだった。
南州并県で起きた科挙不正の訴えと決起。州王たる第二公子の母、皇后としては憎らしい事件だった。
それで翠蓮のことが初めから気に食わなかったのだが、側仕えも同じ并県の者とは。そんな宦官をわざわざ宮に抱え込むということは――。
「なんぞ企んでおろうか」
「陛下がお通いでしたら毒でも盛れましょうが……」
「今はそれもない、か。ではもしや不義密通といえる間柄か?」
「そこまではわかりかねます。今も昔もただ心に秘めているだけ、かもしれませんぞ」
「そなたが言うてもあまり情緒を感じぬな」
皇后はつまらなそうに目を細めた。
翠蓮の落水が過失ではなく故意だったらと考えてはいた。皇帝の子を身ごもったのに入水とは何が不満だと問いたかったが、恋しい男――いやもう男ではないが、想う相手がそこにいるのに他の男の種で子を産むことに絶望したのなら理解できる。
理解はするが、皇后はあざけりの笑みを浮かべた。
「おろかなこと……」
「はい」
「となると修媛は子をもてあましておろうか」
「かもしれませぬ」
瑾瑜と二人、とぼけた会話をしてみせた。誰が聞いているわけでもないが、あからさまに示すのは無粋というものだ。
「しかし貴妃がずいぶんと苛立っていると聞き及ぶ。碧梧宮が妙な薬などを差し向けねばよいが」
「なんと、それは危のうございますなあ」
白々しくうなずく瑾瑜にはもちろん、その薬に心あたりがあった。これまでも幾度となく使ってきたからだ。
「碧梧宮の者に限ってそのような真似はいたしますまい。どうぞご安心を」
瑾瑜はうっそりと一礼したが、その目には酷薄な色が宿っている。そして鷹揚にうなずく皇后の目も、それは同じだった。
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苛立っていると皇后にあざけられた貴妃は、実際そのとおりの状態だった。ひっそり碧梧宮を訪れた安福が何を言ってなだめても眼尻が吊り上がったまま。癇癪に女官たちがおびえる始末だ。碧梧宮を仕切る忠全の養父である安福なので、貴妃とて遠慮したかもしれない。だがそれでもいたたまれず安福はさっさと逃げ出した。
しかし渦中にある紫婉の部屋にはちゃんと立ち寄る。この妊婦が倒れでもしたらなんの意味もないのだ。
「……貴妃さまがお心を騒がせるも無理はございませぬなぁ。まさかほぼ同時のご懐妊とは」
「ここは後宮。そういうものです」
静かに言った紫婉に安福はおやと目を見張った。皇帝が寵を向けていたのは自分だけではないと突きつけられればおもしろくないだろうに、表面だけでも冷静をよそおうとは。
「ご立派な心がまえです」
「母となるなら、うろたえてはおられませぬ」
言葉は堂々としていたが痩せ気味の頬が痛々しかった。元来は気弱な女だと聞くし虚勢を張っているのだろう。安福はおだやかな声音でほめたたえてやった。
「さすがでございますな。修容さまには心やすくお過ごし下され。この碧梧宮にあれば御身はひとまず安泰かと」
「忠全もよくやってくれています」
「我が子へのおほめの言葉ありがたく。されど修容さまのみの御ために動くには難しい立場ではありますので」
「仕方がありません。だから安福さまを頼っているのですよ」
言外に互いの結びつきを確認し、安福は紫婉の前を辞した。
別の子が翠蓮の腹にいようが、紫婉の為すべきことは変わらない。無事に赤子を産むだけだ。そうわかっているならばよい。競う相手となる翠蓮がどんな想いを抱えているか――そしてその母子を憎む者が何を企むかなど、紫婉が知る必要はないのだった。
ただ、安福は懸念している。
二人の懐妊を知った皇后がどう仕掛けてくるか。そして荒れている貴妃がその策にしてやられはしないかと。
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懐妊がわかった翠蓮のもとへは皇帝から気づかいの品々が届けられ、定期的に医官も訪問することになった。
そして元が寂しい映月宮のこと、人を増やすという話も出たのだが翠蓮は固辞する。腹の子を害されると警戒したのではなく、徒嵐だけを側に置くのが不自然になるからだ。
皇帝の子を殺す。
そんな大罪を望む翠蓮と徒嵐だったが、後宮に堕胎薬などあるわけがない。城下の様子も知らず宦官の伝手もない徒嵐はいかにして薬を入手すべきか迷った。
元が罪人の徒嵐なのだから露見すれば問答無用で死罪だろう。命を惜しむわけではないが翠蓮を遺していけない。
「――お見舞いの品をお届けに参りました」
不審な宦官の訪問を受けたのはそんな時だった。
内務府の者だと名乗られては追い返すわけにもいかないが、翠蓮に会わせるのもためらわれる。相手もひとりとあって徒嵐のみが応対してみた。
そこで差し出されたのは素っ気ない包みだった。
「見舞い――とは?」
「修媛さまは常ならぬお体ゆえにお苦しみもあるでしょう。こちらはそんな時にお飲みいただける薬でしてな」
「薬――」
「さよう。大黄、酸漿根、合歓皮などを混ぜ――といえばおわかりか」
薄っすら笑う相手の言葉で徒嵐は凍りつく。それらは血をめぐらせ子宮を動かし虫を下すための生薬のはずだ。
「もしやそんな物をお探しなのではないかと気を回したのですよ。修媛さまはずっと医官も呼ばずに過ごし、あげく池に入られた。お悩みは深かろうと」
のっぺりした小声でささやかれる。子ができたと皇帝に知られる前に始末したかったのはわかっていると言わんばかりに。徒嵐は相手をにらみつけた。
これは誰だ。こんなことを言う奴が内務府から来たわけはない。
新しい公子公主が産まれるのをうとむ高位の妃の手の者だろうか。ひそかに毒を盛るよりは本人の意思で堕ろしてくれれば楽だとでも――?
「――あやしげな薬を飲むわけがなかろう」
「いや、こちらは城下の商人が薬師から買った物。内廷の医局では処方してもらえないが、のっぴきならない庶民を助けてきた普通の薬ですぞ」
包みを受け取ろうとしない徒嵐に、宦官は無理やり押しつける。言われたことが本当ならば、それは今の翠蓮がもっとも欲している薬だ。徒嵐は突き返すことができなかった。
「不審に思うなら城下に出て医者に持ち込んでみるがよろしい。ただし薬を使うならお早めに」
徒嵐が身じろぎできずにいる間にスルリと宦官は出ていった。その顔を璃月が見れば、以前道端で小翠といた宦官だと気づいただろう。名を問われ、忠全、と答えたあれだ。
だが徒嵐はそれが誰なのかわからなかった。名乗らない相手を碧梧宮と結びつけることもできない。だからただ手にした包みに目を落とし、これをどうするべきかと迷うばかりだった。
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「――あまり気負わずにね、璃月」
麗珂妃は娘に向かって微笑むと、瞳をいたずらにきらめかせた。
「あなたならどんな夢を見るかしら。勇ましい戦場の夢かもしれないけど」
「お母さま……」
夜。璃月の寝室には小さな水盤が用意されていた。
温めた水に君影草の香油を垂らし、その香りの中で眠ることで夢をうながす朱家の夢見。今夜は璃月がそれを試してみるのだった。
「私、お母さまの夢の続きが見たいんだってば」
「だから、戦に出る蝶の夢でしょう?」
「違うもん、翠蓮の行く末だもん! ついでに後宮の争いの黒幕が知りたいの!」
璃月が言い張ると、麗珂妃は頬に手をやりため息をついた。
「……やっぱり不穏よ、それ」
「う、うん。まあね」
璃月は槍を好むが、別に戦場に突っ込む気はない。暁霄が言うように公主として守られるべき立場なのはわきまえているのだ。これでも。
だが後宮における側室の失脚や流産という闇は、じゅうぶんに戦だ。表にあらわれない陰湿な争いに参戦するのはおそらく暁霄をもってしても二の足を踏む。
そうわかっているが、璃月は後宮の闇夜を見てみたいと思った。自分が夢見を封じてしまったのはたぶんそのせいだから。
母が死産に倒れた姿。その恐怖で幼い璃月はもう夢なんて見ないと決めたらしい。
だけど今、その誓いを破りたいと思う。何もできない子どもでいるのは嫌だ。大切な人たちを助ける手がかりが夢の中にあるならば見たい。
母に言われたじゃないか、「夢を見るか見ないか決めるのは自分自身だ」と。
だから決める。夢を見よう。
香油の小瓶を手にした璃月に麗珂妃はちょっと心配そうなまなざしを寄せた。
「――それじゃあ、おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい、お母さま」
誤って香油を吸わないよう出ていく母を見送って、璃月は蓋を開けた。
ポタリ。湯に垂らす。
立ちのぼる香りは沈丁花より甘かった。
――さあ、良い夢を見られるよう祈ろう。璃月は寝台にもぐりこんだ。




