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第24話 すべてを消したい


 ✻ ✻ ✻



 朝の揺玉宮にひとりの宦官が駆け込んできたのは、翠蓮の訪問があった翌日のことだった。


「こちらに修媛さまはいらしていませんか! いや、女官姿かもしれないのですが」


 荒い息をきらし尋ねたのは徒嵐だ。その訴えの異様さに、門番はいちおう宮の内へ通達し確認させる。見慣れない女官は紛れていないかと捜索が始まり、それは璃月にも伝わった。


「翠蓮がいなくなった?」


 ぽかんと口を開けた璃月だが、報せにきた彩天も首をひねっている。


「あの徒嵐という宦官が血相かえて探しに来たんです。映月宮の内に姿が見えないと思ったら女官の服が足りなくなっていたそうで……」

「え、変装?」

「翠蓮さまがお立ち寄りになりそうなところが他にないと、揺玉宮(ここ)へ」


 昨日も会見の場に同席していた彩天は、徒嵐に良い印象は持っていない。だが主の行方不明に取り乱したさまには同情した。


「朝には宮にいたはずだとか」

「こっそり抜け出したってことね――」


 しかも女官に化け、供も連れずに。そんなこと璃月ですらやらない。よほどの何かがあったのか。


「徒嵐はどこに?」

「あ、璃月さま!」


 璃月は部屋を飛び出した。門まで足早に駆けつけると徒嵐が気もそぞろにきょろきょろしているのを見つけた。道行く女官たちの中に翠蓮の姿を探しているのだ。


「徒嵐!」

「……公主さま」


 ハッとした徒嵐にぎこちなく礼を取られたが、今はそんな場合ではない。


「翠蓮はどうしたの。姿を消すだなんて、何があったのか心当たりは?」


 なるべく静かに尋ねた璃月だったが、徒嵐は唇をかみうつむくばかりだった――昨日、想いに流されて罪を犯したなどと言えるわけがない。

 どうやら重大な事が起きたらしいと理解し、璃月は小さく問い詰めた。


「ただ誰にも会いたくないだけ? それとも……」


 死にたがるほど追い詰められているのかと、言外に訊いた。徒嵐は青ざめつつ唇をふるわせる。


「もしかしたら、そうかもしれません」

「じゃあこんな所で時を無駄にしないで! 翠蓮は私に会いに来たりしていない」

「しかしどこに――」


 璃月は昨日の翠蓮の言葉を思い出した。


「天花苑」


 つぶやいて駆け出す。慌てて彩天と、徒嵐も後を追った。


「何故、あそこだと」

「ふるさとの山みたいって――あそこには池もあるわ」


 入水を図られたら、と思いついて総毛立った。蒼白になった徒嵐は「失礼」と言い置くと全力で走り出す。

 さすが昨年まで男だった身だ。裙をまとった璃月などまったく追いつけない。私室にいる時の簡単な姿ではあるが、それも相まって悪目立ちしている璃月は歩調をゆるめた。でも引き返す気にはなれない。歩き続けながらこそっと謝った。


「ごめんね彩天。また貴妃さまからお嫁にいけないって言われるかも」

「何をおっしゃいます。こんな場合なら仕方がありませんとも!」


 彩天がわざわざ大声で応えたのは、非常事態だと周囲の女官や宦官たちに示すためだった。こんな朝から出歩いている妃嬪はほぼいないだろうから、この場に公主を咎めだてする人間はいない。でも後々噂される時のために主張すべきことは聞かせておかねば。


「人の命がかかっているのです。ご心配は当然でございますよ」


 誰かが危険にさらされていて、それを助けるために心やさしい公主は宮を飛び出した――そんな匂わせを振りまきつつ、二人は天花苑まで急ぎ足でやってきた。

 庭園に人影はない。もうなりふりかまっていられずに走り出した璃月は、奥の池が見えるところまで来て悲鳴を上げた。


「翠蓮!」


 水の中に、黒い着衣のまま必死で泳ぐ徒嵐がいた。その腕に抱えられぐったり動かない女――。


「誰か! 誰ぞある! 池に人が!」


 大きく呼ばわる彩天の鋭い声に、慌てて宦官たちが駆けつけてくる。

 水から引き揚げられる女官。それはやはり翠蓮だった。その顔が真っ白く血の気がないのを見つめ、璃月は立ちすくんだ。



 ✻ ✻ ✻



「懐妊……?」


 医官からの報告に皇后は低くつぶやいた。不愉快な言葉だ。

 池に落ちた翠蓮は一命をとりとめた。だが診察してみたら、なんと妊娠していることがわかったのだそうだ。しかも碧梧宮の紫婉よりも月が進んでいるという。


「溺れかけても流れないとは強い赤子だこと」


 静かな声には隠し切れない苛立ちがあった。紫婉だけでなく、また一人そんな幸運に浴する女が出てくるとは。

 ツイと手を振って医官を下がらせる。それから皇后はじっと動かなかった。

 自分と貴妃とがほぼ同時に子を授かった時のことを思い出し、はらわたが煮えくり返る。あの時は自分が男を、向こうが女を産んだことで胸がすいたが。


「……このことは貴妃の耳にも入れてやろう」


 皇后は思いついて微笑んだ。きっと貴妃は取り乱してくれるに違いない。

 あわよくば紫婉の子を帝位にと望んでいるのだろうから、その少し前に翠蓮の子が産まれるなど許せないだろう。公主しか産めずに負けた昔の記憶と重ねて半狂乱になるに決まっている。


「あの貴妃のこと、何をしてしまうかわからぬな。ああ恐ろしい恐ろしい」


 優雅に笑んで、皇后は冷ややかな視線を横に投げた。いつも忠実な女官、そして宦官。彼らが皇后の意を汲んでうまくやってくれるはず。

 ひっそりうなずいて出ていくのを見送り、皇后は深々と椅子に身を沈めた。


「今さら太子を差し置いてどうもできまいに――」


 皇后の産んだ第一公子はもう三十歳。十分に待ったといえよう。皇帝がさっさと譲位してくれれば騒ぎはおさまるものを。

 そう口には出さない。だがすでに男盛りの太子が帝位につく日を、皇后はずっと心待ちにしているのだ。



 ✻ ✻ ✻



 手ぶらで洗濯場にあらわれた小翠は、やや青ざめていた。あたりを見回し、おしゃべりな友だちを見つけると近寄っていく。


「あれえ、小翠。今日は洗濯の担当だっけ?」


 盥の中の洗濯物をゴシゴシしながら笑って迎えた阿香(あこう)の隣には、揺玉宮の明芝(めいし)もいた。小翠は阿香の質問を無視してぎこちなく口を開く。


「あのね、びっくりしたことがあって。さっき医官の方たちが話してるのが聞こえちゃったのよ。映月宮の御方がご懐妊なんだって」

「あ、あたし懐妊って知ってるぅ。このあいだ公主さまに教わったんだよぉ、赤ちゃんができたってことでしょう?」


 大きな声で明芝が言うのは、璃月にやさしくしてもらっているのを自慢したいからだ。その声であちこちから聞き耳が立てられた。阿香が興味津々で食いつく。


「映月宮ってなんだっけ。池に落ちたっていう方?」

「そう、その修媛さま。それで医官の方がお体を拝見して、ご懐妊がわかったんですって。おめでたいわね」


 棒読みのように小翠は言った。さわさわと噂話が広がっていく。

 それをひっそり見届けている宦官がいて、そちらを小翠はチラリとふり返った。かすかにうなずかれて、小翠はやっと安堵の表情を浮かべた。



 ✻ ✻ ✻



 寝所にこもる翠蓮はろくに食べようともせず誰も寄せつけなかった。それは相手が徒嵐でも同様で、今も(スープ)を持って入ってきたのを見てフイと目をそらす。寝台の脇に皿を置いて徒嵐は懇願した。


「翠蓮、食べてくれ」

「放っておいて」


 返答はそっけなかった。何もかもあきらめたような声に徒嵐の胸はつぶれる。


「――おまえに死なれたくない」


 たまらず口にした。言葉にしたら本当に死なれてしまいそうで言えなかった。でもこのままでは遠からずそうなる。愛しい女に生きてほしくて徒嵐は嫌がる手を握った。


「――ずっと気づいていたのか?」


 確かめたのは、自身の妊娠を知っていたのかどうか。

 身じろぎもしないのはきっと否定できないからだ。やはり、と徒嵐はため息をかみ殺した。

 おかしいとは思っていた。ひと月ほども吐き気を訴え続けた冬。それが治まってからは寒い風に吹かれようとしたり、意味もなく歩き回ったり、きつい香を焚いてみたり。体をいためつけて流産を試みていたのだろう。そのための薬なども市井にはあるはずだが、手に入れる方法が翠蓮にはなかった。


「皇帝の、子――」


 つぶやいてしまったら翠蓮がギクリとした。もちろん種などそれしかありえないのだが、事実を突きつけられ翠蓮は小刻みにふるえた。触れられていることを怖れるように徒嵐の手を振りはらう。


「私――徒嵐の子がほしかった」


 目をそらす翠蓮はとうとう本音をもらした。息がふるえている。


「こんな子いらない。嫌なの。産みたくない。お願い殺して」

「翠蓮」

「徒嵐が抱きしめてくれて嬉しかった。でもこんな腹をあなたに触れられてしまって我慢できなかった。もう無理」


 ぼろぼろと涙があふれ出す。ろくに水も飲まないのに、どこにこんな。


「おまえ、それで水に?」

「私なんかが徒嵐のそばにいてはいけないのよ」


 皇后に対しても毅然としていたのが嘘のように、翠蓮は泣きじゃくった。消えてしまいたい、と。

 徒嵐ならば宦官として頭角をあらわすことができただろう。なのに翠蓮は過去に恋を語らった人、徒嵐を近くに欲してしまった。孤独な後宮でのよりどころとして。もう二人はけして結ばれないのに。


「そんなの、徒嵐がどんなに苦しかったか――ごめんなさい」


 謝罪する翠蓮は目をそらし、体を硬くしていた。徒嵐を宮に迎えてからも皇帝のお渡りはあったのだ。そんな日の絶望は翠蓮も味わってきたけれど、それよりも徒嵐にとってどれほど残酷だったか。先日執拗に求められてわかった。

 骨もくだけるほどに抱かれ耳をかまれ、もうできない交わりの代わりを探したあの時間。幸せだったけど地獄でもあった。


「俺は――翠蓮がいてくれればいい」


 徒嵐は何故かさっぱりと微笑んだ。

 翠蓮の心は変わらず徒嵐の上にあり、他の男に触れられたことを死ぬほど厭わしく思っている。そう知れてなんの不満があろうか。


「生きてくれ」


 あらためて徒嵐は翠蓮の手を握った。両手で包み、祈るように。


「腹のそれをなんとかする手を探そう。だからまだ」


 死ぬのは待て。

 徒嵐はかみしめるように言い含めた。もし堕胎がかなわなければ――翠蓮の腹を刺して殺し、自分も果てよう。そう決意しながら。



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