第23話 罪
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「小翠、このごろ付き合いが悪いんですよぉ。あんまりおしゃべりしてくれなくてぇ」
板の間に座り込んで洗濯物を畳みながらぼやいたのは揺玉宮の下女、明芝だった。仕事を見守りながら璃月は小首をかしげた。
「忙しいの?」
「わかんないですぅ。なんか暗い顔してる……実家の誰かが病気なのかもって阿香は言ってましたぁ」
以前璃月が洗濯場へ出かけた時に案内してくれたのと変わらない、ぽやんとしたしゃべり方。だが畳む手は正確だ。襟をきちんと揃え、袖をピシリと伸ばし、全員分を同じ形に揃えていく。その作業を見ているのも気持ちよくて、璃月はニコニコした。
「阿香は元気なのね……」
「あの子はきっと、病気してもおしゃべりですよぉ」
ふへへ、と笑う明芝は皇城近郊の農家から売られてきた娘だ。でも影ひとつ見せず、いつものんきに笑っている。学はないが開けひろげ。あちこちの宮に友だちがおり、たくさんの話を拾ってきてくれる。聞きたかった碧梧宮の話に璃月は探りを入れた。
「碧梧宮はピリピリしているって娘子軍からも聞いたわ。懐妊した方がいるんじゃないかって」
「かいにんってなんですか?」
きょとんとされて璃月は苦笑いした。
「ええとね、お腹に子どもがいるってこと」
「あー。紫婉さま? でしたっけぇ?」
「え」
あっさり名前を出されて璃月はつんのめりそうになった。当たり前のように、そんなこと。璃月の反応に明芝は目をぱちくりした。
「どうしましたぁ?」
「し、紫婉がそうだって、皆が知っているの?」
「んーと、あれ」
明芝は難しい顔をし、順にたどった。
「誰かに赤ちゃんができたみたいって聞いてぇ、紫婉さまがずっと具合が悪くてぇ、紫婉さまの毒見が厳しくなってぇ……だから紫婉さまなんじゃないかって噂してた子がぁ、宮で折檻されたって言って怪我してたんでぇ、そうなんだろうなって」
「あ、ああ。じゃあたぶん間違いないわね」
折檻。そうまでして秘密にしたがったのに、そのせいで確信されてしまうなんて。璃月は怪我した下女の快癒を願わずにいられなかった。
でも紫婉が、というのはまあ想像したとおりではある。これは景琛に報せておかねばと璃月はにっこりした。
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翠蓮が揺玉宮を訪れてくれたのは、璃月が贈った糸の返礼という名目だった。
先日の天花苑で言われたのだ。宮にこもってばかりで暇なので刺繍でもしようか、と。それで届けた糸だったが――。
「申し訳ありません、私これまで刺繍をしたことはなくて」
「あら、そうだったの?」
硬い顔で謝罪され、璃月は笑いそうになるのを我慢した。
ここは璃月の居間。翠蓮はあいかわらず徒嵐だけを連れている。宦官は控えの間で待ってもらうのが普通だったが、璃月は二人をともに招き入れた。徒嵐のようすも探りたいと思っていたのでちょうどいい。
そっと座った翠蓮は持参した包みを開いて色鮮やかな糸を取り出した。璃月が贈ったそのままで、使われてはいない。
「一から学べば時間がかかるでしょうから、私のような者が時間をつぶすにはちょうどいいのではと……冗談として申し上げたのです。こんなに質の良い糸は素人にはもったいないので。お返しします」
「あら、いいのに……私もやらなくて余らせているんだもの」
璃月が目を泳がせると、翠蓮は小さく笑った。
これでも璃月は育ちがいい。針も楽も詩歌も舞も、女性のたしなみに類することは一通りやらされてきた。その中で続いたものはあまりないが。
「璃月さまは何がお好きですか?」
「……舞、かな」
槍、とは言えなくて声が小さくなる。ごまかして相手の話にすり替えた。
「翠蓮は上手に詩をつくるのね」
「あれですか」
園遊会で皇后に叩きつけた五言絶句。でも女性らしい内容ではないし正式な平仄はととのえられなかったと翠蓮は反省する。
「――街というのは、山を背にすることが多いのだそうです」
「山?」
いきなりそんなことを言われ、璃月はおうむ返しした。
「はい。天花苑は皇城の北の端。北にそびえ街を守る龍山が見えて、ふるさとを思い出しました。それであんな詩を」
「……翠蓮のふるさとは、并県だったわね」
「はい。一年前に騒乱を起こしたところです」
答える翠蓮の声は静かだ。璃月は自分をはかられていると感じた。翠蓮、そして後ろに控える徒嵐。二人の運命を曲げた科挙不正の訴えと、それに対する皇帝の裁きへ璃月はどんな姿勢を示すのか。
逆に裁かれた徒嵐の方はどう感じているのか、璃月だって気になっている。後宮に不穏な動きがあってはならないので注視せよと景琛から言われていた。
「……何があったのか、私は細かく知らないのだけど」
璃月は沈痛な面もちで考えた。徒嵐の出自などには触れない方がいいか。
「正しいというのは大事なことね。でも何が正しいか決めるのは人だから、間違うこともあるのじゃない? 欺こうとする人もいるし」
正義を賭けて戦ったのだろう徒嵐と、それが報われることを祈っていた翠蓮。そんな人たちに何を言えばいいのか璃月にはわからない。
「翠蓮は、認められなかった正しさを取り戻したいと思う?」
わからないから、本人に訊いた。
璃月は世間知らずの小娘だ。ここで生かされているだけで、なんの力もない。
だけど知りたい。だから知りたい。
誰もが何かにがんじがらめにされているこの世界に、意味はあるのか。
「――もう、取り戻せません」
翠蓮の答えは非情に響いた。でもその瞳にあるのは怒りよりも悲しみだ。
「もしも誤りが認められ名誉を回復しても、死んだ者は生き返らない」
「そう、ね」
璃月はうつむいてしまった。
おそらく翠蓮は皇帝の裁きを受け入れていない。故郷の正しさを信じている。ここにいる徒嵐の正しさも。
徒嵐に目をやれば、無表情の奥にたぎる怒りを感じた。だがその気持ちは行き場がないのだと思う。
後宮に来てすぐ翠蓮の元に庇護された徒嵐。宦官たちの派閥に組み込まれておらず、孤立しているようだと志勇から報告があった。組織的な謀反などにはつなげられないはずだ。
どうにもできない想いを抱え後宮で寄りそう二人に璃月などが近づくべきではなかったのかもしれない。憎い皇帝の娘がのうのうと生きているのは暗い情念をかき立てるだろう。
「――ごめんなさい」
つい璃月は謝った。
「お父さまも正しくあろうとしてきたはずなの。でもこの国は広くて人も多くて」
「皇帝に誤りがあってはならない」
低い声がして璃月はそちらに視線をやった。徒嵐だった。まだ男のごとき声。
「徒嵐、控えて」
厳しく翠蓮が制止した。徒嵐は口をつぐむと深く腰を折る。
「申し訳ありません璃月さま。この者は官たらんと学んでおりましたので、つい」
「そう……優秀な人なのね。いえ、私が軽率だった。誤りを認めるようなことを言ってはいけないと知っているわ。指摘してくれてありがたく思います」
璃月は素直に受け入れ、微笑んだ。でも翠蓮との間が遠くなった気がした。
公主という立場で心に従った発言など許されない。でも翠蓮と友人として向き合っていけるならその限りではないと期待したのだが、駄目なのだろうか。
「皆が幸せでいられればいいのに――正しくても、間違っていても」
泣き笑いを隠し、璃月はあどけなさをよそおう。こんな子どものような言い方でしか翠蓮たちのためを祈ることができない自分が嫌だった。
ぎくしゃくした面会を早々に切り上げ、翠蓮は映月宮に戻った。なんともやるせなくて、いたたまれなくて、璃月の顔を見ていたくなかった。
「あの子が悪くないのはわかっているの。だけど」
「翠蓮」
長椅子に座り込んだ翠蓮の横に、徒嵐は寄りそう。肩を抱きよせるのを翠蓮は拒まなかった。
「……どうして、と思ってしまう。徒嵐はこんなところにいるべき人じゃないのに」
絞り出された言葉で、徒嵐は肩に回した腕の力を強める。
翠蓮の抱える未練はみずからの境遇に対してではなかった。徒嵐が将来を断たれたことが呑み込めない。いずれは翰林院にもと期待され国を背負う気概を持つ秀才だったのだから。
さっきの徒嵐は璃月の発言そのものを咎めたのではなかった。誤ってはならないはずの皇帝が何故誤ったのかと糾弾したのだ。だから翠蓮はすぐさえぎった。璃月が告発するとは思わないが、徒嵐を危険にさらしたくない。
「徒嵐、やっぱりあなたはここを出て。外朝での政を目指してよ」
「やめろ」
すがりつく翠蓮に徒嵐は揺れた。
宦官が政務に大きな力を持つことはわかっている。だがそれは目指していた官僚とはしばしば争うこともある立ち位置だ。皇帝の近侍から太監となった瑾瑜がそうであるように、高位の者との個人的つながりで得た地位は国にとって有害であるとすら徒嵐は考えていた。自分がそうなることに恐れすら感じる。
「俺は、もう」
翠蓮が腕の中にいるならばそれ以上は望まない。考えたことを口にはしなかったが翠蓮には伝わった。青ざめながら小さく首を振る。
「そんなのだめ。私のことはいいから」
「よくない。おまえこそ、俺が嫌になったのか」
「そんなわけ――!」
想い合いながら隣にいる二人のまなざしが絡んだ。
互いのためには離れた方がいい。そんなことは知っている。ずっとそう思っていたのにできなくて、それが苦しかった。
もう、駄目だ――。
二人は寄りそう。暖めあうように。
翠蓮の頬に徒嵐の吐息がかかった。その腕が翠蓮をきつく縛る。骨がきしんで翠蓮は我に返った。
抗わなくてはいけない。わかっているのに翠蓮には何もできなかった。つい昨年まで男だった徒嵐の力には抗えない。そして――本当は抗いたくないのだ。
「徒嵐……」
切なくつぶやいた翠蓮の唇をふさぎ、徒嵐は罪をむさぼった。




