第三章 10
中に入ると、個人の控室用に用意されたのだろう、テーブルやソファ、鏡台などが一揃い置かれていた。壁際のテーブルには、パーティーに出されたものとは別の料理が並んでおり、脇にはワインボトル、醸造酒などがグラスと共に置かれている。
アンナはワゴンから、氷と追加の飲み物を移動させる。すると丁度時間が出来たのか、先ほどの大臣が扉を開けて中へ入って来た。
「やあアンナ、すまないね」
「いえ、仕事ですので」
「君も働き通しで疲れただろう、少しここで休んでいくと良い。何か言われたら、私から勧められたといいなさい」
あまりに出来すぎた展開に、若干アンナの心に不安が生じる。だが誘惑すると決めたからには、この流れに逆らわないのが賢明だ。
ありがとうございます、とアンナは微笑むと、ソファに座る大臣の傍に座り、そっと高級酒のボトルを見せる。
「閣下、よろしければいかがですか?」
「おお、気が利くね。いただこうか」
既にかなり出来上がっている大臣に、さらに酔いを追加する。どうやら大分上機嫌らしく、今なら聞けるかも知れない、とアンナは慎重に切り出した。
「あの、閣下……わたし今、各部署の仕事を学んでいるのですが、なかなか難しくて……あの、討伐軍の担当をされているのは、どなたでしたっけ?」
「うん? 討伐軍に興味があるのかね」
「は、はい! やはり、魔族を倒してくださる皆さんを、尊敬しておりまして! 出来ればそちらで働きたいと思っているのですが……」
「はは、それなら感謝するといい。私がその担当だよ」
本当ですか、と口元を綻ばせながら、アンナは別の意味で感謝した。
(まさか、いきなり本命の大臣に当たるなんて……!)
だがそうと分かれば、するべきことはその次だ。アンナはすごいです、と大臣を褒めたたえながら、さらに酌を続ける。
「ああ、でもその、……閣下、ここだけのお話なんですけれども……」
「ふむ? どうした」
「わたし、実は北の生まれでして、そこで……討伐軍の皆さまが、苦しんでいるのを見てしまったのです……」
途端に大臣の顔つきが変わった。
アンナはわずかに怯えたものの、何度も練習していた台詞を気取られないよう演じきる。出来るだけ大臣の心に訴えられるよう、目には涙まで浮かべていた。
「きっと長らくの遠征で、お疲れなのかと……ですので、しばらくの間だけでも、討伐軍を王都に戻していただけたら、と思っておりまして」
「……確かに、奴らからの報告は途中までだったな」
ふうむ、と手を顎に当て、大臣は目を閉じた。アンナはその様子を、息を潜めたままひたすらに見守る。
だが大臣は片方の口角を上げると、隣に座るアンナの腰に腕を回した。
「――⁉」
「なあに、心配するな。彼らは強い。すぐに魔王の首級を上げて戻ってくるだろう」
「で、ですが、勇者さまもさすがに……」
「万一勇者がいなくなっても、また新しい希望の戦士は現れる。何も心配することはない」
大臣の言葉に、アンナは一瞬怒りをのぼらせた。だがここで冷静さを欠いてはだめだ、と抱き寄せられる力に抵抗するアンナの耳に、そっと大臣が囁く。
「それにだ。いっそ戦いが長引いてくれた方が、助かる部分もあるのだよ」
「……それは、どういう意味ですか?」
アンナの問いかけに、大臣はにやりと嘲るように笑った。
「――君は、どうしてこの国が平和にいられるのだと思う?」
「どうして、とは……」
「それはな、敵がいるからだ。人間にとって共通の――魔族、という敵が」
かちり、と全ての繋がった音がアンナの脳裏に響いた。大臣は驚愕するアンナに気分を良くしたのか、さらに得意げに自らの功績を語り始める。
「魔族と戦うには、人同士で争っている場合ではない。魔族を倒すためだと言えば、人も金も腐るほど集まってくる。国を動かす、というのはそういうことだよ」
「つまり魔族は……そのために、利用されて……」
「利用、というのは違うな。この国をまとめるために、有効な手段だったというだけだ。我々の先代がその仕組みを作り出し、ここまで継続させてきたのだよ」
長い時間をかけて捏造された、魔族に対する差別。
すべては国が、市民たちを操るために。
「そんな嘘が、許されるのですか……?」
「嘘も方便というだろう。それに――もう嘘かどうかなど、確かめるすべもない」
その言葉に、アンナは頭の中が真っ白になった。
彼らはもうすべてを作り変えてしまったのだ。
真実の過去も、魔族という存在も。だが書記官見習い一人が訴えたところで、何の痛手も負わないという確かな自信がある。だからこんなにも簡単に、アンナに事実を打ち明けたのだろう。
「私たちは選ばれた存在だ。そして君も――私の元にくれば、いい思いをさせてやろう」
言うなり大臣は、アンナの体を強く引き寄せた。
逃げる間もなくソファに組み敷かれ、襟元に手をかけられる。
「か、閣下! 何を」
「なんだ、狙ってきたわけではないのか? まあいい、どれほどの家柄であろうとも、私に逆らえる奴はいないからな」
押しつぶされそうな重量が、アンナの体にのしかかる。荒々しい息遣いに、アンナは必死に抵抗を続けた。だが魔族といえども女性のアンナでは、男である大臣の力にはかなわない。やがてシャツのボタンが一つ、ぷつりと弾け飛んだ。
「や、やめてください! 話を――」
「無駄だ。会場までは離れているし、廊下には見張りが――」
いる――と大臣が口にしたのと同時に、すさまじい音を立てて入口のドアが吹き飛んだ。
思わず手を止め、アンナの上で背後を振り返った大臣の首根っこを、誰かが掴んで投げ捨てる。巨体が宙を飛ぶ様を目で追いながら、アンナは気が動転していた。
(……い、一体、誰が……?)
乱れた胸元を手繰り寄せながら、アンナはその急な訪問者に視線を向ける。そこにいたのは、怒りの形相を浮かべたイザークだった。
「イザーク、さん……」
「アンナ、無事か」
声をかけられたアンナは、堰を切ったようにぼろぼろと涙を零した。その様子にぎょっとしたイザークは、慌てて自分の上着を脱いで、アンナの肩にかける。
「ど、どうして、ここに……」
「君がこの男と話しているのを見て、……少し気になったから、後を追っていた。そうしたら悲鳴が聞こえて、いてもたってもいられず……」
「す、すみませ……」
必死にこらえようとするのだが、どうしても目から安堵の喜びが溢れてくる。イザークはアンナの前にしゃがみ込み、しばらくどうしようか迷っていたが――やがて、怯えさせないよう、恐る恐るといった風に抱きしめた。
温かい腕に包まれて、アンナは張りつめていた緊張が、ゆっくりと解けていくのが分かる。やがて頭上から、掠れたイザークの声が落ちた。
「アンナ、君は――」
その時、アンナは視界の端で自身の変化に気づいた。
先ほど制服のボタンが外れた個所から、わずかな光がにじみ始めている。
(どうしよう、変装が……解ける!)
みるみるうちに、制服は元の服へと変化し、それと同時にアンナの髪は茶色から白銀、緑色の目は綺麗な赤色へと、本来の姿に戻ってしまった。
「イザークさん、わたし、あの……」
言いわけのきかない場面を見られてしまった、と絶望に瀕したアンナは、必死にイザークに訴える。だが返って来た返事に言葉を失った。
「――やはり、魔族だったのか」
やがてアンナは驚いたように目を見開く。
仰ぎ見たイザークの顔は、怒りどころか――まるで、泣いているようだった。