第四章 一堂に会しまして
ぴちゃん、と雨だれが苔むした石の床を弾く。
水滴の落ちてくる先を探ろうとアンナは顔を上げたが、光の少ない石牢の中では、天井の距離を把握するのがやっとだった。
壁の高い位置に採光用の窓はあるものの、とても手が届くものではない。正面を向くと、無機質な鉄格子がアンナと外界を隔てていた。
(……失敗して、しまった……)
あの騒動の後、駆け付けた他の兵士によってアンナは拘束された。大臣を投げ飛ばしたイザークも最初は非難されていたが、いつの間にか大臣を魔族から守ったという逸話にすり替わっており、数日の謹慎処分だけとなった。
一方でアンナは、日も差さない牢獄に一人きり、というわけだ。
(討伐軍を引き上げてもらって、それから、魔族が本当は怖くないのだと、知ってもらおうと思っていたのに……)
だが大臣たちは、どれだけ被害が出ようとも、最初から討伐軍を止める気はなかったのだ。
被害が出れば、それだけ魔族の暴虐性は裏打ちされ、家族を守ろうと討伐軍に志願するもの、魔族退治のために献金をするものなど、国は一層栄えるようになる。
(わたしが本当に、魅了出来ていたら……)
口先だけではなく、彼らが自身の悪事を懺悔してしまうくらい、夢中にさせることが出来ていたら。もしくはあのまま、大臣を拒絶せずにいたら――
考えれば考えるほど、自らの力不足を痛感してしまい、アンナは深いため息をついた。
すると上から、聞き慣れた声が下りてくる。
『――アンナローザ様』
「……?」
つられるように顔を上げる。
すると遥か上にある小窓から、白い塊がひゅるると落ちてきた。アンナは咄嗟に落下点に駆け寄ると、それを抱きとめる。
『ありがとうございます。私など、地面に叩きつけられても一向に構いませんのに』
「あ、危ないですよ! というか、イアン、さん……ですよね?」
アンナが聞き返すのも無理はなかった。イアン、と思しきその正体は、とても可愛らしいミニブタだったからだ。ぴこぴこと動く耳に寸胴な体。お尻にはくるんと巻いた尻尾がある。
困惑するアンナを前に、ミニブタイアンは得意げに、ふごと鼻を鳴らした。
『はい。アンナローザ様がお好きな豚でございます!』
「……」
あの罵声の数々は、イアンのこの姿に向けて言ったものなのだろう。そうに違いない。
しかし味方のないこの状況、イアンの存在はしっかりとアンナの心を癒した。
「ごめんなさい。わたし、失敗してしまって……」
『申し訳ありません、私の魔法が至らないばかりに』
「いいえ、わたしが悪いんです。……もっと上手く振る舞えたら……」
『とんでもない。アンナローザ様は十分健闘なさいました。また新しい方法を考えればいいのです。とりあえず、ここから出る手はずを整えましょう』
再度ふご、と鼻をならしたイアンに向けて、アンナはそうねと眉を寄せた。
「スプーンか何かで抜け道を掘れるといいのだけど、魔族と警戒されているせいか、食事も出てこないし……」
『何と酷い……すぐに差し入れをお持ちいたしましょう』
「あ、ええと、大丈夫です! それよりも穴を掘る道具か、鍵を壊す何かがあったら、持ってきてもらえないでしょうか?」
『もちろんでございます。ついでに、そうしたことに長けた魔族はいないか、聞いて参ります』
「あ、ありがとうございます! 助かります!」
『いえ、この程度のこと当然です。むしろ"豚! 今すぐここから出しなさい!"くらいの無茶ぶりは覚悟しておりましたので、私は喜びと物足りなさに困惑しているほどでございますよ』
「……そ、そう、ですか……」
するとミニブタイアンは、アンナの腕から飛び降りると、鉄格子に向かって一直線に駆けだした。大丈夫かな、と見守るアンナの目の前で、丸い体を一気に隙間に詰め込むと、やがてすぽんと転がり出るように牢から抜け出す。
『それでは、今しばらくお待ちくださいませ』
軽快に走っていくミニブタを見送りながら、アンナははあと肩を落とした。
恐ろしいとされている魔族を、そう長く王宮に置きはしないだろう。
おそらくアンナが処分されるまであまり時間はない。それまでに何とかして脱出をしなければ……とアンナは覚悟を決める。
本当は魔王や、他の四天王に頼ることも出来たのだろうが、アンナの失敗を拭わせるような真似はしたくない。何より魔族が王宮に姿を見せたとなれば、今よりもさらに関係が悪化する恐れがある。
(何とかして、騒ぎになる前にわたしだけで逃げ出さないと……)
くるる、と寂しく鳴くお腹を励ますように、アンナは両手を握りしめた。
だがその翌日、今度は元の姿で現れたイアンを前に、アンナは茫然としていた。
「申し訳ございません、アンナローザ様。どこかから話が漏れてしまいまして」
「だ、だとしてもこれは……」
イアンはアンナの衣服を直すと、「どうぞ」と前に向かって手を差し伸べた。
おずおずとアンナは足を進める。昨日まで堅牢な檻と化していた鉄格子は、鋭利な刃物で斜めに切られたかのように、ぽっかりと口を開けていた。その向こうでは、立派な爪を伸ばしたトラッドが、無邪気に手を振っている。
「おう! アンナ! 無事かー!」
「と、トラッドさん……ありがとうございます……」
「ああ。このくらい余裕余裕」
確かに鍵を壊す何かが欲しいとは言ったものの、まさかトラッドを連れてくるとは思わなかった。騒ぎに駆け付けた見張り兵たちが現れたものの、一瞬で壁に向かって張り倒されている。うめき声はあげているので、命までは奪われていないようだ。
あわわ、と青ざめるアンナをよそに、トラッドはよいしょ、とアンナを肩に抱き上げた。一気に高くなった視界と不安定さに、思わずトラッドの頭を抱きかかえると、彼は嬉しそうにニカッと笑う。
「よし、じゃあ行くか!」
「い、行くって、どこに」
「みんなのとこ!」
そう言うとトラッドは、正面の壁を片手で打ち砕いた。衝撃の光景に開いた口が塞がらないアンナを抱えたまま、トラッドは走り出し、広い中庭を一直線に走り抜ける。
「トラッドさん、みんなって一体……」
「ん? 陛下とランスロットとドルシュキアと俺と、あとアクセアとかも」
「ほ、ほぼ全員じゃないですか! どうしてそんな大人数で⁉」
「だってよー、アンナが捕まったって聞いて、みんな大騒動でさ。それぞれオレが行く、いや私がってなったんだけど、それならもう全員で行こうって」
(ええー⁉)
植え込みを飛び越えるトラッドの動きに合わせて、アンナの視界はさらに激しく揺れた。落ちないように必死に掴まっていると、王宮の上空に浮かぶ黒い渦を発見する。
「トラッドさん、あれは……」
「ああ、ドルシュキアたちだな」
どうやらあの一つ一つが、空を飛ぶ魔族らしい。それを証明するように、他より大きな一つが群れから離れたかと思うと、アンナの傍にドルシュキアが下りてきた。その背には黒い両翼が伸びており、アンナの無事な姿を見て、髪に隠れていない片目を眇める。
「黒き花嫁。悪かった、俺のせいで……」
「ち、違いますよ! ドルシュキアさんのせいじゃありません! 私が失敗しただけで……」
「だが……」
「ドルシュキアさんこそ、あれから大丈夫でしたか?」
「ああ、あの程度――ッ、『混沌の十字架』!」
突然ドルシュキアが叫んだかと思うと、前方で剣を構えていた兵士たちの頭上に、黒い霧が降り注いだ。彼らは一瞬でとろんとした表情になると、昼間だというのにその場に倒れ込むようにして眠ってしまう。
「ここは俺が防ぐ。トラッド、お前は先に行け」
「りょーかいっ!」
言うが早いか、トラッドは一気に速度を上げて王宮へと飛び込むと、塔の中に作られた螺旋階段を駆け上がった。
四階ほどの高さを一息に移動したかと思うと、最上階にある王族や貴族たち専用の区画へとたどり着く。先日のパーティーが行われたフロアだ。
ここでも多くの魔族と騎士たちが乱戦を繰り返していた。
だがその一方で、傷ついた兵士たちが、次々に議会場へと運び込まれていく。
気づいたアンナがトラッドに「待って」と制止し、負傷者の後を追ってもらうと、そこには人間と魔族入り乱れての治療にあたるアクセアと、医療班の面々がいた。
「アクセアさん!」
「アンナローザ! どこか怪我をしているのか⁉ すぐに見せろ!」
「い、いいえ!」
「――ッ余計な心配をかけさせるな! 俺は忙しい!」
「はいいッ!」
怒鳴られて慌てて逃げだすトラッドに、アンナはこっそりと問いかける。
「もしかして、人間も治療しているんですか?」
「ああ、陛下の指示でな。一人も殺すなって」
アンナの心に、少しだけ温かい光が灯る。こんな状況でも、魔王は自らの誓いを守ってくれているのだ。
(――大丈夫、魔族は人を殺さない。だからわたしは、……)




