前編
靴ひもがほどけた。
「エイちゃん」
ちょうちょ結びができないカナは歩くのをやめ、すぐ前を行く少年を呼んだ。振り向いた彼の姿は、見馴れたカナでさえ時々はっとしてしまうほどかっこいい。
上等な絹のような黒髪に、鼻筋のきれいに通った端麗な顔、琥珀色の目。
エイちゃんに優しく見下ろされることを、カナは結構気に入っていた。
「どうかしたか?」
「靴ひも、結んで」
「ああ、またほどけた?」
左足を差し出すと、エイちゃんは荷物を置いてカナの前にしゃがみこむ。
ざわ、と周りの空気が揺れた気がした。
…なにか事故でもおこったのだろうか。
「気にしなくていいよ、カナ」
道の向こうを見ようと首を伸ばしたカナに、エイちゃんが靴ひもを結んでくれながら言う。
朝のHRまであと十分という時間だからか、通学路は同じ制服の学生であふれていた。
事故や事件が起こった様子はない。
「はい、出来た。今度もほどけたらすぐ俺に言いな」
行こう、と荷物をまた持ってエイちゃんがカナの手を引いた。
大きな手、長い指。
エイちゃんの手の温かい感触はとても好きだ。
ざわ、とまた周囲が動揺する気配がしたが、カナは注意を払わなかった。エイちゃんが気にするなというのだから、それはカナが関わらなくてもいいことなのだ。
◇
「高倉先輩に靴紐結ばせたんだって?」
朝のHRが終わって、一限のある化学教室に向かうところだった。
駆け寄ってカナに腕をからめた親友は、大きなつり目にいたずらっぽい光を湛えて笑いかける。
彼女―――上野優子とは、入学式の席が隣だった縁で仲良くなった。はっきりした性格の美少女で、頭のてっぺんで縛ったポニーテールは揺れるといつもいいにおいがする。
「カナ、噂になってるよ。“高倉先輩と一緒に登校してる一年の女が、今度は道の真ん中で先輩跪かせた”って」
朝から愉しそうに何を言うかと思えば、そんなこと。
カナはあっさりとうなづいた。
「エイちゃん、俺がやるからって」
「言われたの?高倉先輩に?」
へえ、と優子はますます愉しげに口元を緩める。
「人間嫌いで有名な高倉栄志も従妹だけは特別なんだ。入学してからずっと言われてるけど、ほんとにすごいよねえ」
「すごいって?」
「だから、特別扱い。登下校一緒で、名前で呼び合ってて、手つないで、靴ひもまで結んでくれるって。いくら従兄妹でもちょっと異常っていうか、すごく大事にされてるよね、カナ」
「私、ちょうちょ結びできないから」
それでだよ、と教える。
リボン結びも出来ないし、本結びも怪しい。結ぶ、という行為と相性が悪いのだとカナは思っている。
それでも、中学に上がるときの特訓でスカーフだけは何とか結べるようになっていた。
そのまま話すと、優子は驚いたようなあきれたような顔でカナを見た。
「あんたってちょっと不思議っていうか、やっぱり変わってる。だから高倉先輩もかまうのかな」
「さあ。変わってるって、エイちゃんに言われたことはないけど」
エイちゃんはカナに、お前はそのままでいい、とよく言う。考えてみると、あれはカナが変わった人間だという前提で告げられる言葉なのかもしれない。
――――出来ないことは全部俺がやってやるから、周りに何を言われても俺が引き受けるから、お前はお前のままでいろ。
そんな風に言われたのはいつだっただろう。大分昔のことのような気がするのに、なぜかよく覚えていた。
エイちゃんは自分の言葉を決して裏切らない男だ。この時言ったことももちろんそうで、彼はカナの靴ひもを結んでくれるし大嫌いな英語の宿題も代わりに解いてくれる。エイちゃんと一緒にいて、カナが周りから何かを言われたことは一度もなかった。
教室について、カナは優子と別れて席に座った。
有村可奈と上野優子ではじめは隣同士だったのが、化学教師の気まぐれで行われた席替えで、今は教室の端と端の机に離れてしまっている。代わりに一緒になったのは、瀬川という無愛想な少年だ。
エイちゃんに憧れてこの高校に入ったという彼は、エイちゃんに構われるカナのことが嫌いらしい。はっきりと言われたことはないが、時々射すような視線でにらまれる。エイちゃんと同じくらいかそれ以上背の高い彼に見下ろされるのは少し怖かった。
「…高倉先輩、朝練に来なかったんだけど」
カナが席に着くなり、瀬川はこちらを見もせずに言った。
弓道部の朝練はテスト期間でも中止にならない。エイちゃんは弓道部の部長だった。
夏休み、三年生が引退する時押しつけられたと言っていた。口ぶりからして、どうでもいいと思っているのは明らかだった。
エイちゃんは弓さえ引ければ何だっていいのだ。去年出た全国大会で個人戦一位になったときも、別段喜んでいる風ではなかった。
あの時はむしろ、周囲が騒ぐのが鬱陶しいと不機嫌ですらあったと思う。高校生の日本一位になったことでエイちゃんが嬉しそうな顔をみせたのは、カナがおめでとうと告げたときくらいだ。
「今日何かあったわけ?先輩、体調悪いのか?」
つい去年の夏を思い出してぼんやりしたカナに、瀬川が焦れたように言い重ねる。
ようやくこちらを見た彼は相変わらずきつい目をしていて、やはり少し怖かった。
「…私が家に忘れ物をしたから、取りに帰って遅くなったの」
「何だよそれ、最悪」
吐き捨てた瀬川が目をそらしたことにカナはほっとした。
入学式の日から、カナはエイちゃんと一緒に登校している。そうでなければカナは高校になど行かなかったろう。カナが制服を着ることを面倒くさいと思っているのをエイちゃんは見抜いていた。
――――カナ、準備しな。高校の制服はスカーフを結ばなくてもいいから楽だろう?
朝練に間に合う時間に、エイちゃんは毎日カナを迎えに来る。朝起きることは苦痛でないから、カナはエイちゃんが行くぞというのに従った。
朝、学校までの道をエイちゃんと一緒に歩くのは悪くない。エイちゃんの背中を追っているのにはちっとも飽きないし、琥珀色の目で見下ろされるのはとても好きだ。
そう思うから、カナは面倒な制服を身につけ毎日高校に通っていた。
「授業を始める。教科書の三十三ページを開け―――」
先生が入ってきて、生徒たちが一斉に教科書をめくりだす。
カナも周りを真似しながら、エイちゃんは今なんの授業だろう、なんて考えていた。




