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第11話 2人の距離と高鳴る鼓動

 ――眠れない。


 正確に言えば、眠れないわけではない。


 目を閉じれば眠れるはずなのだが、気がつけば余計なことを考えている。


 例えば、先日の街歩き。


 リボンを選んでいたときのリリア嬢の笑顔。


 俺が似合うと言っただけで、迷いなく水色のリボンを選んだ彼女。


 そして、それを贈ったときの嬉しそうな顔。


 ……なぜ、今になって思い出す?


 もう何日も前のことだぞ。


 思い出したところで、何かが変わるわけでもない。


 そう考えて寝返りを打ち、しばらくすると、今度は植物園で花を眺めていた彼女の姿が浮かんでくる。


 楽しそうに笑う顔。

 俺を見上げる瞳。

 何かを見つけるたびに、こちらを振り返る仕草。


 ――いや、待て。


 なぜ、次から次へと思い出すんだ。


 俺は一体、何をしている?


 婚約者のことを考えているだけだ。


 そう。婚約者なのだから、相手について考えるのは当然だろう。


 ……だが、夜中に何度も目が覚めるほど考える必要があるのか?


 結局、その夜も十分な睡眠を取れないまま朝を迎えた。


 それが一度きりなら、まだよかった。


 しかし、翌日も、その翌日も。


 気がつけば俺は、夜ごとリリア嬢のことを思い出しては眠る機会を逃し、少しずつ疲れを蓄積させていた。


 仕事に支障が出るほどではない。


 書類の処理も、部下への指示も、いつも通り完璧だ。


 ただ、以前よりため息が増えた。


 そして、鏡を見るたびに眉間の皺が深くなっている気がする。


 ……不本意だ。


 実に不本意である。


 そんな日々を過ごした俺に、ようやく次の予定が訪れた。


 リリア嬢と婚約者になってから、初めて出席する夜会だ。


 今夜こそは、余計なことを考えずに過ごそう。


 そう決意して、俺は彼女を迎えに行った。


 ◇


「クラウス様、お待たせいたしました」


 玄関ホールに現れたリリア嬢を見て――俺は、言葉を失った。


 紺色から水色へと、裾に向かって柔らかく色が移り変わるドレス。


 落ち着いた色合いに、控えめな装飾。


 いつもの可愛らしい雰囲気とは少し違う、どこか大人びた装いだった。


 そして、チョコレートブラウンの髪は、複雑に編み込まれている。


 その髪に添えられていたのは、見覚えのある水色。


 先日、俺が贈ったリボンだった。


 ……。


 ……可愛い。


 いや。


 ――今、俺は何を考えた!?


 思わず目を見開きかけ、寸前でこらえる。


 何を動揺する必要がある。


 婚約者が着飾って現れた。それだけのことだ。


 似合っていると思うのも、自然な感想にすぎない。


 そう、自然な感想だ。


 俺は一度、静かに息を整えた。


「お待たせいたしました、クラウス様?」


 リリア嬢が小首を傾げる。


 ……いけない。


 いつまでも見つめているわけにはいかない。


「いえ。……とてもよくお似合いですよ、リリア嬢」


 声の調子は、いつも通り。


 表情も、問題ないはずだ。


「ドレスも素敵ですが、そのリボンも髪によく映えていますね」


 そう付け加えると、リリア嬢はぱっと顔を輝かせた。


「本当ですか? ありがとうございます。せっかくクラウス様にいただいたものですから、今日、身につけたかったんです」


 ……。


 ……そうか。


 俺が贈ったものだから、身につけてくれたのか。


 それは、婚約者として贈り物をしたのだから、当然といえば当然で――。


「クラウス様?」


「……何でもありません。参りましょうか」


 俺は彼女に手を差し出した。


 リリア嬢は微笑んで、その手を取る。


 その仕草は、実に自然だった。


 俺のほうはというと。


 ――危なかった。


 何が危なかったのかは、自分でもよく分からない。


 ただ、今夜はいつも以上に気を引き締める必要がありそうだ。


 そう思いながら、俺は彼女を馬車へとエスコートした。


 ◇


 馬車に乗り込み、俺はいつものように向かいの座席へ腰を下ろした。


 リリア嬢も反対側に座る。


 ……はずだった。


 彼女は座席に腰を下ろしたものの、なぜかこちらをじっと見つめている。


「……どうしました、リリア嬢?」


「ええと……」


 リリアは少しだけためらったあと、尋ねた。


「婚約者同士は、馬車の中では隣に座るものではないのでしょうか?」


 ……は?


 隣?


 俺は思わず、彼女が座っている座席と、自分の隣の空間を見比べた。


 いや、待て。


 婚約者同士が馬車に乗る場合、隣に座るのが一般的なのだろうか。


 夜会や茶会であれば、男女の振る舞いについて、それなりに知識がある。


 どの程度の距離で話しかけるのか。

 どのような仕草が相手の気を引くのか。

 誰が誰に好意を持っているのか。


 そうしたことなら、嫌というほど観察してきた。


 だが、馬車の中となると話は別だ。


 そもそも、婚約者同士で馬車に乗る機会など、俺にはなかった。


 ましてや、隣に座るかどうかなど。


 ……知らん。


 まったく分からん。


 だが、ここで「分からない」と答えるのは、年上の男性としてどうなのだろうか。


 俺は二十代半ばの侯爵令息だ。


 それなりの経験も知識もあると思われている。


 そんな俺が、婚約者との馬車内の座り位置ひとつ分からないなど。


 ……恥ずかしいにもほどがある。


 そもそも、婚約者同士とはいえ、男女がみだりに肌を寄せ合うのはよろしくないのではないか。


 いや、待て。


 俺たちは婚約者同士だ。


 婚約者なのだから、ある程度の親密さは自然なことなのかもしれない。


 そう考えれば、隣に座ることもおかしくはない。


 ……いや、だが。


 しかし。


 そもそも、俺たちは――。


 ――婚約者同士、なのだ。


 ……そうだった。


 俺は今さらながら、その事実を再確認した。


 何を当たり前のことを、と言われそうだが、仕方がない。


 ここ数日、彼女のことを考えすぎて寝不足なのだ。


 普段なら数秒で整理できるはずのことに、なぜか時間がかかる。


 いや、今の思考時間は数秒にも満たなかったはずだ。


 とにかく。


 ここは、いかにも最初から分かっていたという顔で対応するべきだろう。


「……そうですね。婚約者同士ですから」


 俺は何事もなかったかのように、隣の座席を手で示した。


「こちらへどうぞ」


「はい!」


 リリア嬢は嬉しそうに頷き、俺の隣へ移動してきた。


 よし。


 実に自然な流れだ。


 ……自然、だっただろうか?


「急に距離を詰めては、リリア嬢も驚かれるかと思いましてね」


 念のため、それらしい言葉を付け加えておく。


 リリア嬢は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく微笑んだ。


「まあ。私のことを考えてくださったのですね」


「……ええ、まあ」


 違う。


 いや、完全に違うとも言い切れないが、少なくとも今の説明は、俺の体面を守るためのものだ。


 そんなことは、彼女に知られなくていい。


 そう思っていたのだが。


「では、こちらのほうがよろしいですね」


 リリア嬢は、当然のように俺の腕へ自分の腕を絡めた。


 ……。


 …………。


 ………………は?


 ちょっと待て。


 何が起きた?


 いや、見れば分かる。


 リリア嬢が、俺の腕に腕を絡めている。


 そして、肩が触れそうなほど近くに座っている。


 ……近い。


 近すぎる。


 先ほどまで向かい合っていた相手が、今はすぐ隣にいる。


 しかも、腕が密着している。


 俺は一瞬にして固まった。


 ……おかしい。


 こんなはずではなかった。


 隣に座ることを許しただけだ。


 腕を絡めるところまで許可した覚えはない。


 いや、許可も何も、彼女は自然な動きでそうしただけなのだが。


 それが余計に問題だった。


 リリア嬢には、何のためらいもない。


 まるで、これが当然だと言わんばかりに、俺の腕に寄り添っている。


 ……なぜだ。


 なぜ、そんなに自然なんだ。


 俺は今、人生で初めて、女性との距離感というものが分からなくなっていた。


 そして。


 ふわり、と香りがした。


 ラベンダーだ。


 甘ったるさのない、柔らかく優しい香り。


 それが、すぐそばから漂ってくる。


 ……近い。


 いや、さっきも思ったが、本当に近い。


 香水の香りがするほど近いということは、つまり、それだけ距離が――。


 やめろ。


 考えるな。


 余計なことを考えるな。


 俺は正面を見据え、必死に平静を保とうとした。


 ……駄目だ。


 腕に触れる柔らかな感触が、どうしても意識に上ってくる。


 これでは、まるで。


 まるで、俺が彼女を意識しているみたいではないか。


 そんなことはない。


 これは単に、予想外の状況に戸惑っているだけだ。


 そうだ。


 戸惑っているだけ。


 ……だが、いくら何でも、少し近すぎるのではないだろうか。


 もう少し距離を空けてもらったほうが、互いに落ち着いて過ごせるのではないか。


 よし。


 それとなく伝えよう。


「……リリア嬢」


 意を決して、俺は彼女のほうを向いた。


 ――近い。


 思っていた以上に、近かった。


 俺を見上げるリリア嬢の顔が、目と鼻の先にある。


「なんでしょうか?」


 きょとんとした瞳。


 柔らかな声。


 そして、すぐそばにある、彼女の顔。


 ……。


 …………。


 ………………。


 俺は、完全に停止した。


 何か言わなければ。


 距離が近い、と。


 もう少し離れてほしい、と。


 そう伝えるだけだ。


 たった、それだけのことなのに。


 口が動かない。


 目を逸らすことすら、なぜかできない。


 数秒。


 ほんの数秒だったはずだ。


 だが、俺にとっては、ひどく長い時間に感じられた。


「……いえ、何でもありません」


 ようやく絞り出した言葉は、それだった。


 何でもないわけがない。


 自分でも分かっている。


 だが、ほかに何を言えばいいのか、まったく思いつかなかった。


「……馬車が揺れますから。気をつけてください」


 …………何を言っているんだ、俺は。


 リリア嬢は一瞬目を丸くしたあと、くすりと笑った。


「はい。ありがとうございます、クラウス様」


 そう言って、再び俺の腕に寄り添う。


 ……だから、近いんだ。


 いや、もういい。


 今さら何を言っても、余計に不自然になるだけだ。


 俺は正面を向き直り、黙り込んだ。


 眉間には、いつも以上に深い皺が刻まれていることだろう。


 だが、今はそんなことを気にしている余裕などなかった。


 どんどこ、どんどこ、どんどこ


 俺の心臓が、盛大に騒いでいる。


 ……うるさい。


 少しは静かにできないのか。


 これから向かうのは夜会だ。


 貴族たちが集い、挨拶を交わし、互いの腹を探り合う、あの夜会である。


 いつもなら、何の問題もない。


 誰がどんな思惑を抱いていようと、冷静に見極め、必要な対応をするだけだ。


 だが、今夜は。


 今夜だけは。


 俺の隣に、リリア嬢がいる。


 腕に触れる温もりと、優しいラベンダーの香りを感じながら、俺はひたすら前を向いていた。


 ……一体、今夜の夜会はどうなってしまうのだろうか。


 俺は、まだ知らない。


 いや、知りたくもない。


 ――頼むから、これ以上、俺の調子を狂わせないでくれ。

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