第25話 買われた王子の忠誠
秋分の月。
一年前のこの月に、護送馬車が東門をくぐった。車輪が泥を跳ね上げて、鎖の音が鳴って、私はそれを窓から見ていた。
今朝、同じ窓から中庭を見た。
セレンがマルテと庭園にいた。マルテが何かを言って、セレンが首を傾げて、マルテが笑った。セレンの口の端が少しだけ上がった。あの微かな笑み。
一年で、この人はこんなに変わった。
いや——変わったのは私のほうかもしれない。
午前中、式典が行われた。
西翼の大広間。一年前に婚姻の宣誓をした同じ場所。今日は、復興事業の功績を称える式典だった。
国王が壇上に立った。
「第三王女アネリーゼの主導により、ヴェルディア=レーヴェン講和条約第八条に基づく復興事業は、予定を上回る成果を上げた。北部三郡への物資支援、旧街道の修繕、戦災孤児の受け入れ、国境防衛の改善。いずれも我が国の国際的信用を高めるものであり、ここに功績を称える」
拍手があった。式典には拍手がある。宣誓式とは違う。
立ち上がって、頭を下げた。
セレンが隣にいた。白い正装ではなく、普段の上着。少しインクがついている。朝まで書類を手伝ってくれていたから。
広間を見渡した。
ルートヴィヒ兄上がいた。腕は組んでいなかった。拍手をしていた。控えめだったが、していた。復興事業の成果を認めた——兄上なりの、不器用な承認。
フリードリヒがいた。笑顔で拍手していた。この子はいつも素直だ。
ヨハンが隣室の入り口に立っていた。拍手はしていなかったが、目が笑っていた。「私は裏方ですから」という顔。
カミラお姉様がいた。
列席していた。正装で。微笑んでいた。いつもの微笑み。
でも誰もお姉様のほうを見ていなかった。
招待客の視線は壇上に向いていた。私とセレンに。復興事業の報告書を読み上げる典礼官に。国王の言葉に。
お姉様は、空気になっていた。
社交界の花と呼ばれた人。茶会の常連客を集めていた人。宮廷の中心にいた人。
今は、誰からも注目されずに、広間の隅で微笑んでいた。
それが一番静かな報いだったのだと、後になって思った。
式典が終わった後、セレンが「少し部屋に戻る」と言った。
珍しいことだった。式典の後は大抵、二人で東翼に戻って書類の残りを片づける。
「先に行っていてくれ」
「うん。待ってるね」
セレンが西翼の方角に歩いていった。。というより、東翼の方角だ。自室に。
何をしに行くのだろう。
気になったが、追わなかった。追う必要がない。セレンには、セレンの時間がある。
セレンの部屋。
引き出しを開けた。
布に包んだ鎖がある。十ヶ月前——いや、もう一年だ。一年間、この引き出しの奥にあった。
手に取った。
重い。金属の冷たさ。
この鎖を最後に触ったのはいつだったか。宣誓の前夜。あの時は「まだ手放す時ではない」と思った。
今は。
手首を見た。鎖の痕はもう完全に消えていた。一年で皮膚が生まれ変わった。代わりに、包帯の跡もない。アネリーゼが巻いた不格好な包帯の下にあった傷も、塞がって、痕も残っていない。
鎖も傷も、全部消えた。
俺の手首には何も残っていない。
それでいい。
「もう要らない」
声に出した。
「俺はもう、鎖で繋がれている人間じゃない」
鎖を布に包み直した。引き出しには戻さなかった。机の上に置いた。後で処分する。
十ヶ月前は「戒め」だと思っていた。俺が何者であるかを忘れないための。
忘れてはいない。買われた人質だった。敗軍の王子だった。それは消えない。
だが、それだけではなくなった。
復興事業の補佐。国境防衛の立案者。密使の捕縛者。騎士たちに認められた剣士。マルテに懐かれた、花の摘み方が下手な男。
そして——。
アネリーゼの夫。
名目ではなく。
部屋を出た。東翼に向かった。
執務室に戻ると、アネリーゼがいた。
机に向かって書類を読んでいた。式典の後だというのに、もう仕事をしている。右の中指にインクがついている。いつもの場所。
「おかえり」
「ただいま」
この短い言葉が、一年前には想像もできなかったものだった。
「アネリーゼ」
「うん?」
「一つ、訂正がある」
アネリーゼがペンを置いた。こちらを向いた。
「訂正?」
「俺はお前に買われた王子だ。それは事実だ」
「……うん」
「鎖を外されて、名目上の夫にされて、復興事業を手伝わされて、密使を捕まえて、騎士と手合わせして、子どもに花を摘まされた」
「手伝わされてって言い方は酷くないですか」
「事実だ」
「……まあ、事実かもしれないけど」
「だが——」
言った。
「忠誠で仕えているのではない」
アネリーゼの目が少し見開かれた。
「お前が好きだから隣にいる。それだけだ」
部屋が静かになった。
蝋燭はついていなかった。昼間だから。窓からの光だけが部屋を照らしていた。机の上の書類。インク壺。午後の光。
その全部の中で、アネリーゼの目だけが光っていた。
灰色がかった緑の目。潤んでいた。
「……知ってました」
声の奥で何かが揺れていた。
「ずっと」
「嘘つけ」
即座に返した。
「お前は鈍い。九ヶ月かかっただろう。ヨハンに言われるまで気づかなかっただろう」
「鈍くても、最後には気づきます」
「最後、な」
「最後でも気づけばいいんです。——私も、言い直します」
アネリーゼが立ち上がった。
「私もセレンが好きです。条約でも義務でも責任でもなく」
「知っている」
「知ってたの?」
「庭園で泣きながら言われた。忘れるわけがない」
アネリーゼが笑った。泣きながら。
またこの顔だ。泣くことと笑うことを同時にやる顔。もう見慣れた。見慣れても、呼吸の底が浅くなる。
「セレン」
「何だ」
「ありがと——」
「また二人だけの世界に入ってる!」
扉が開いた。半分開いていた扉が、全開になった。
マルテが立っていた。両手を腰に当てて。木彫りの馬は——ポケットに入っているらしい。鼻先が少し覗いている。
「ご飯の時間だよ! ヨハン様が呼んでるよ!」
「……マルテ」
「二人とも遅い! パンが冷めるよ!」
アネリーゼが涙を拭いた。手の甲で。インクが目の下に移った。また。
「行こう、セレン」
「……ああ」
マルテが先に走っていった。廊下を。足音がぱたぱたと遠ざかる。
俺はアネリーゼの目の下のインクを指で拭おうとした。拭えなかった。余計に広がった。
「……下手」
「悪い」
「いい。後で洗う」
並んで食堂に向かった。
食卓に四人が揃った。
俺とアネリーゼとヨハンとマルテ。
パンは温かかった。今日は焼きたてだ。昨日の残りではない。厨房がこの人数に慣れたのだろう。
煮込み料理。焼いた魚。チーズ。果物の鉢には梨が三つと林檎が二つ。
俺は梨を一つ取って、皮を剥いた。薄い皮が途切れずに剥ける。切り分けて、アネリーゼの皿に載せた。
黙って。
アネリーゼが「あ」と声を漏らした。
一年前と同じ反応。何度やっても同じ反応をする。
「ありがとう」
「余っていたからだ」
「嘘」
マルテが言った。
「セレン様、いつもアネリーゼ様にあげてるじゃん。余ってるからじゃないでしょ」
「…………」
「好きだからでしょ」
「…………」
ヨハンが茶を飲みながら、窓の外を見ていた。完全に聞こえているくせに、介入しない構えだった。
「……マルテ」
「うん?」
「食べなさい」
「はーい」
マルテがパンをちぎった。木彫りの馬をテーブルの隅に置いた。角がすっかり丸くなっている。
四人の食卓。
家族ではない。名前のない関係。名目上の夫と書記官と戦災孤児の少女。
でも——。
名前がなくてもいい。
温かければ、それでいい。
夕暮れ。
庭園のベンチに座った。
隣にアネリーゼがいた。
特別なことは何もなかった。
空がオレンジ色に染まっていた。秋分の月の夕暮れ。一年前と同じ季節の、同じ時間帯の光。
風が吹いた。湿った低地の風。レーヴェンの山の風とは違う。最初は慣れなかった匂い。今は——。
今は、この風の中にアネリーゼの匂いがある。インクと紙と苦い茶の匂い。
「セレン」
「うん」
「来年の秋分の月には何をしていると思う?」
「……さあ。復興事業の第二期計画があるだろう。旧街道の延伸と、教会区への教師の派遣と」
「仕事の話じゃなくて」
「……じゃあ何の話だ」
「分からない。ただ聞いてみただけ」
アネリーゼが空を見上げた。オレンジ色の光が頬に映っていた。
「来年も、ここにいるかな」
「いる」
「再来年も?」
「いる」
「……ずっと?」
「ずっとだ」
即答した。
迷わなかった。迷う理由がなかった。
アネリーゼが俺の肩に頭を預けた。重さがかかった。軽い。小さい。
何も言わなかった。
ただ隣にいた。
夕暮れの庭園。マルテの笑い声が遠くで聞こえた。他の子どもたちと遊んでいるのだろう。ヨハンが東翼の窓から何か叫んでいる。「殿下、月次報告の最終稿が」。聞こえないふりをした。
風が吹いた。
鎖のない手で、アネリーゼの手を握った。
小さくて、温かくて、右の中指にインクがついた手。
それだけだった。
それだけで、十分だった。




