表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【旧稿】台所シリーズ 第1部 台所で世界をかえる (ただいま編)  作者: 朧月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/40

34 リハーサル前夜

「11:15:27」か。スマホの数字をみて、伸子は、かたをおとす。

15分なんて、ながいとおもっていたけど、こんなに短いなんて。

できかけた、子供たちを前にして、話すの原稿をよんでみた。最初は、幼稚園の先生やっている未希の顔をおもいうかべながら、ゆっくり かたりかけていたが、最後は、猛ダッシュの早口の練習みたいになった。世の中のひとって、しらーっと簡単にやってのけてるようにみえるのに、と、ためいきをはいた。

頑張れ自分 という代わりに、炊飯器の炊き立てのご飯をよそって、「四六時中、、、」と桑田さんの声をおもいうかべて、うたって、納豆をかきまぜた。白いいといとが新たなな世界にひきこんで、つっくった原稿にあらためて目をおとす。




伸子の原稿

本文

日本水道システムの起源


「明治元年(1868年)のイギリス人パーマ氏による、コレラを克服した水道システム」


明治元年(1868年)、パーマ氏は、政府の依頼を受けて、横浜に水道施設をつくりました。


ぽぽぽぽ。


とはいえ、横浜といっても、当時はまだ小さな漁村だったんです。


開港から10年たらず、港町としての機能はあったものの、住民は主に漁業を営み、商業的な発展はまだこれから、という状況でした。


人口も500人規模の、小さな漁村。


今の大都市・横浜を思い浮かべるより、むしろ、北海道の積丹しゃこたんや奥尻の港町をイメージしたほうが、ぐっと近い感じがします。


そんな「横浜村」に、黒船がつき、10年ほど経ったころ――


パーマ氏が、この村に、初めての水道をつくったのです。


横浜には、今も「関内かんない」という地名が残っています。


この頃は、関内、その内側に、外国人たちの居留地がありました。




日本の水道システムの始まり(伸子の原稿・続き)


そこに、黒船がついて、10年ぐらいたったときのことです。


パーマ氏が、この横浜村に水道をつくったのは。


横浜には今も「関内かんない」という場所があります。


このころは、関内の内側に外国人たちの居留区があり、柵で囲われていました。


まるで、宇宙船がやってきて、今まで見たこともないまちをつくる――


そんな感覚だったと思います。外から見ていたら……想像ですけどね。


そのころの「外側」には、もちろん水道管なんてありませんでした。


どんぶらこ、どんぶらこ。


川で洗濯して、桃が流れてくる。


それは、別に「大昔」のことではなく、たった150年前の、ふつうの日常だったのです。


桃に赤ん坊がのっている――


そんな昔話が生まれたのも、きっと自然なことだったのでしょう。


朝起きて、蛇口をひねったら水が出る、なんて当たり前のことではなかった。


だからこそ、川のあるところには、江戸時代から自然にコミュニティが生まれていました。


やっぱり、上流のほうが水がきれいですからね。


でも、もし上流の人たちが川を汚してしまったら、下流の村では魚も食べられなくなる。


そうならないように、水は「みんなのもの」として大切に管理する文化が、すでに江戸時代にはありました。


川と共に、井戸もまた、人々の生活の中心でした。


井戸には、井戸番と呼ばれる人がいて、井戸を守る役目もあったのです。




日本の水道システムの始まり(伸子の原稿・つづき)


昭和10年生まれの母は、よく「おばあちゃんは、井戸端会議ばっかりしていたよ」と話していました。


井戸端会議は、あのころの社会に欠かせない役割を果たしていたような気がします。


それが、父の時代――昭和も進んでいくと、


井戸そのものの役割がだんだん必要なくなるくらい、水道インフラが発達していきました。


どんぶらこ、どんぶらこ。


井戸端会議の時代に、最初の水道システムがつくられたのが、明治元年(1868年)です。


157年前――おばちゃんのおばあちゃんぐらいの、そんな遠くない昔の話です。



ちなみに、長崎にももっと前から水道システムはありましたが、


あちらはオランダ人専用のものでした。


だから、**「日本人の水道の起点」**としては、この横浜をはじめに語るのが自然だと思います。


さて、そのころの横浜のお水、どうだったと思いますか?


……しょっぱかったらしいですよ。


でも、それより、もっと大変なことがありました。


それが、コレラです。


江戸時代にはなかった病気が、コレラとして流行しました。


新しい文化とともに、病気もやってくる――


関内の柵の中と外では、きっと、そんな「境」の思いが強くあったことでしょう。








日本の水道システムの始まり(伸子の原稿・つづき)


このとき、日本に水道システムをつくるときに、


パーマー氏が、水質の管理や安全な水源の確保に関する知識を活かして、


感染症予防のための水道システムを、すでに取り入れてくれていた。


これは、日本にとっても、本当にありがたいことでした。


水道システムが広がっていくと、コレラの心配も減って、


港町・横浜はますます魅力的な町へと育っていきます。


パーマー氏の作った水道マニュアルは、


歴史的にみても、とてもすばらしいものだったと、私は思います。


もちろん、当時はコピー機もなければ、


今でいう「印刷所」も、まだ普及していなかった時代です。


だから、ガリ版で刷られて、


それぞれの地域へと配られたのでしょう。


(ガリ版、プリントゴッコ……


たぶん、今の人は知らないでしょうね。


機会があったら、その話も掘り下げてみたいです。)


そしてもし――


イギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーが、


関内の外にまで水道が必要だと考えなかったら、


横浜村にすら、水道はなかったかもしれません。


また、


彼のマニュアルを「理解しよう」と、


「自分たちのものにしたい」と思った日本人がいなければ、


今の日本の水道システムも、生まれていなかったでしょう。


水道インフラは、その当時、


鉄道インフラと並ぶくらい、大きな国家の事業だったのです。








シュシュポッポと水道インフラ(伸子の原稿・つづき)


しゅしゅうぽっぽ、シュシュポッポ。


その当時は、まずは、蒸気機関車です。


蒸気機関車の時代は、


大量の水の確保ができなければ、計画さえ立てられませんでした。


水道の目的は、


当時、人々がとても恐れていたコレラの脅威から、


解放されたい、ということでした。


横浜は、はじめて見る異国文化の入り口でもありましたが、


同時に、異邦人が持ちこんだコレラの流行も、とても怖いことでした。


「安全に異邦人と暮らすこと」


それが、横浜村が横浜シティへと育っていく、原動力にもなったのです。


江戸時代から、江戸と漁村・横浜をつないでいた綱島街道は、


黒船が来たあとは、黒船と江戸を結ぶ街道へと、役割を変えていきました。


またそのころ、外国から真摯に学び取った日本の文化人たちは、


街道だけでなく、鉄道も必要だと考えました。


イギリスに留学した井上勝氏や、


フランスに視察に行った渋沢栄一氏たちが、


積極的に計画していったことは、今の日本の発展に欠かせないものでした。


そして――


水道インフラのことなど、何も知らなかった日本人たちに、


イギリス人技師パーマー氏が、


指揮を執って教えてくれたことも、また大きな貢献でした。


とくに大切なことは、


「鶴屋橋」(つるやはし)のあたりで、


その水道工事を、宿屋に泊まりながら、


ささやかなごはんと賃金だけで、


晴れの日は朝から晩まで働いた日本人たちが、たくさんいたことです。


もともと、農家や、下級武士、丁稚奉公たちは、


それほど楽な暮らしではなかったので、


そんな労働環境も、**「そんなものだろう」**と受け入れていたのでしょう。


夜には、ほんの少しのお酒を飲みながら、


一日を過ごしていた人も、多かったと思います。






水道と鉄道、そして横浜のモデル化(伸子の原稿・つづき)


私たちが、


毎日、勉強するのを当たり前、


朝から晩まで働くのを当たり前、


――そう思うくらい、


当時の人たちも、「働く」ということが自然なことだったかもしれません。


ここは、想像になりますが、


自分たちの仕事によって、水道や鉄道ができあがり、


「みんなが幸せになる」ことを、


少しずつ、肌で実感できたのだと思います。


横浜は、港町でした。


まだ陸運よりも、海運のほうが主流だった日本で、


横浜村の成功は、大きな意味を持ちました。


横浜の町を訪れた人々は、


その発展した姿を見て、


地元へ戻り、**「あの町のようにしよう」**と、


横浜のシステムをまねたことでしょう。


おそらく、


横浜で作られた日本語のインフラ・マニュアルが、


とても優れていたのだと思います。


そして、


横浜の町の仕組みや、インフラ技術は、


日本の他の地域へと広がっていきました。


このことからも、


横浜が日本全体にとって「モデル」となった


――その様子が、ありありと伺えます。







広がる横浜システム(伸子の原稿・つづき)


この「横浜システム」は、


やがて東京、名古屋へと波及していきます。


東京に近代水道ができたのは、1898年。


ですが、その7年前、


1891年に、すでに導入された場所がありました。


それが――札幌です。


それより前にも、


函館や神戸といった外国人居住区のある町には水道が整備されていましたが、


日本人自身が、横浜モデルをなぞって作り上げた町は、札幌が初めてでした。


東京には、もともと江戸時代から


「神田上水」や「玉川上水」といった水道システムがありました。


そのため、


新しい仕組みを一から作り変えるのには時間がかかりました。


しかも、東京は人口もとても多かったため、


すべての家々に新しい水道を引くのは、大仕事でした。


ざっくり言うと――


「何もないところに作るほうが早かった」というわけです。


札幌は、もともとゼロから作り始めた町だったので、


横浜の成功例をいち早く取り入れることができたのでしょう。


さて、


水道システムの要となる「浄水場」についても、


このころから本格的に整備されていきます。


浄水場の仕組みは、


水道水を安全で清潔な状態にするために、


いくつかの段階を経て水をきれいにするプロセスです。


大まかに言うと、こんな流れになります:


1.取水(川や井戸から水を集める)


2.沈殿(砂や泥などの重い汚れを沈める)


3.ろ過(細かい汚れを砂や炭の層でこす)


4.消毒(微生物を殺菌して安全にする)


5.配水(きれいになった水を家庭や施設に届ける)


この一連の流れがあることで、


私たちは蛇口をひねれば、すぐにきれいな水が飲めるようになったのです。




浄水場と水道のはじまり(伸子の原稿・つづき)


浄水場の仕組みを理解すると、


私たちが毎日あたりまえのように使っている水が、


どれほど慎重に、ていねいに処理されているかが、よくわかります。


さて、


浄水場できれいになった水は、今度は水道管を通って、私たちのもとへ流れていきます。


水道管の中は、いつも水がいっぱいになっている状態です。


だから、水道の蛇口の最後が下向きになっていれば、


ひねったとたんに、水が勢いよく出てくるのです。


──さて、ここで想像してみてください。


いまから100年以上前。


パソコンも、電卓もない時代。


そろばんで計算しながら、水道管の長さを割り出し、


重たい鉄の水道管を人力で運び、


つるはしで土地を削り、穴を掘っていく。


そんな大変な仕事をするために、


たくさんの人たちが札幌へやってきました。


船に乗って函館へ渡り、


そこから馬車に揺られて、札幌へ向かいました。


札幌の水道工事は、単なる工事ではありませんでした。


それは、横浜システムが「日本中に広がるかどうか」を占う、大きな挑戦でもあったのです。


なにしろ、まだそのころ、


日本人のほとんどは近代水道というものを使ったことがありませんでした。


たとえば、


函館で初めて水道を見た──という人が、大半だったはずです。


最初、イギリス人のパーマーさんが作ったマニュアルは、当然、英語でした。


ですが、水道のしくみ、水を大切にする心、勤勉に働く精神。


そうしたものは、実は江戸時代から日本人の中に、しっかりと根付いていました。


学問を大事にし、


寺子屋で男女問わず読み書きそろばんを学び、


そろばんの名人もたくさん育っていた時代です。


だからこそ、日本人たちは、パーマーさんの英語マニュアルを理解し、


自分たちの言葉に直し、さらに土地にあわせて工夫しながら、


水道づくりを着実に進めることができたのです。


函館は、昆布の交易で栄えた町でした。


幅広いビジネスを行い、財力もあった。


そして、五稜郭を築くころには、算数の力を磨きあげていました。


こうして、


「横浜システム」が極寒の地・札幌で成功をおさめたことによって、


日本全国に近代水道が広がっていく道筋ができたのです。


ホップ、ステップ、ジャンプ。


日本の水道は、ここから一気に飛び立っていきます。




さまざまな困難を乗り越えて、日本人たちはそのマニュアルを理解し、自分たちの言葉に直し、さらに土地にあわせて工夫しながら水道づくりを進めていきました。



横浜でのシステムが「ホップ」、札幌での挑戦が「ステップ」、そして日本全体への広がりが「ジャンプ」と言えるかもしれません。だからこそ、今私たちが蛇口をひねるたびに、その背後にある多くの人々の努力と苦労を思い出すべきです。


(スライド上映 未希の キュンちゃん しまえなが君の開拓シーン)つるはしをもつきゅんちゃんと、そろばんで計算するしまえなが君


100年以上前、パソコンも電卓もない時代に、そろばんで計算し、水道管の長さを割り出し、重たい鉄の水道管を人力で運んで、つるはしで土地を削り、穴を掘っていく。そんな大変な仕事をするために、多くの人々が札幌に集まりました。寒くて凍土のあるこの場所で、わざわざ挑戦をしてくれた先人たちには、今の私たちが蛇口をひねるたびに感謝の気持ちを持ちたいものです。

さまざまな困難を乗り越えて、日本人たちはそのマニュアルを理解し、自分たちの言葉に直し、さらに土地にあわせて工夫しながら水道づくりを進めていきました。



横浜でのシステムが「ホップ」、札幌での挑戦が「ステップ」、そして日本全体への広がりが「ジャンプ」と言えるかもしれません。だからこそ、今私たちが蛇口をひねるたびに、その背後にある多くの人々の努力と苦労を思い出したいですね。あら、みんなのおなじみのきゅんちゃんとしまえながちゃんががんばってつくっていますね。


(スライド上映 未希の キュンちゃん しまえなが君の開拓シーン)つるはしをもつきゅんちゃんと、そろばんで計算するしまえなが君

「ぶるぶる、寒いよ。」「鼻水 じるじる」「おみず」「おみず」

「シマエナガちゃん 語る」


横浜のシステムが全国に広がることを決定づけた札幌での挑戦。これがなければ、日本のインフラは今の形ではなかったかもしれません。そして、その成果を私たちが正しく理解し、責任を持って使い続けることが大切だと思います。


最後は、シマエナガちゃんの「エッヘン」ときゅんちゃんの「はーくしょん」

「あ、おちがないよ。おちがないよ。」

「おちはおちてる」

下に落ちてる水道管をもちあげて、つなげる。

「おちも、つながった。」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ