31 妙蓮寺の傘と風
人込みの邪魔にならぬように、2たりならんで、改札の上の時刻表をみあげる。
「北広島がさきね。」
「またね。」「電話するわ。」
列の波にのりながら、ぴつ、ぴつと改札を通る。
新幹線の工事のはじまっている、札幌駅。
ぱっと見回しても、駅員は見当たらない。
改札に駅員さんがいて、きっぷを受け取ったり、鋏をぱちんと入れたりしてくれた
そんな昭和の改札がよみがえる。
妙蓮寺駅で、十円玉を公衆電話に入れ、三回鳴らして切ったあの日。小走りに妙蓮寺の横を通る。境内には、いつもと同じくひとはいない。井戸も、だれも、くみあげたりしてない一日を当然のこととして、いつもの場所にある。前に背伸びして一人で試した、井戸の取っ手の動作。戻ってきた10円玉を握った手に、井戸を動かしたときの重みと、水がぐいっと出た感触を思い出す。
三度目の呼び鈴を聞いて、母が迎えに来てくれた、夕暮れ。和五〇年頃の話だ。妙蓮寺駅には、まだ伝言板があった。
スマホも携帯もない時代。
大人たちは駅の伝言板にチョークで書き置きを残し、連絡を取り合っていた。
【伝言板】
てんちゃんへ 明日 10時 いつものところで かおり
お花の会 しぶやさんちに変更しました
よろしくおねがいします 佐藤美代子
さきいくぞ 9時40分 こうへい
よくわからない似顔絵 と またね
長崎君 ピザ はじめて食べた ありがとう こう
私は鍵っ子だった。
だから、母が忘れた傘を駅まで届けるのは、ちょっとした冒険だった。
誇らしい気持ちで、妙蓮寺駅の踏み切りをわたる。
でも母は、いつも「あら、きょうか、ありがとう」とだけ言って、
それほど嬉しそうな顔はしなかった。
それが、少しだけ心に引っかかるのだ。
駅の帰り道も、いくつかの通りがあった。
妙蓮寺の井戸を眺め、おでん屋を横目に通り過ぎ、文房具屋や傘屋を覗く。
私にとって、傘屋は特別だった。
あの頃はまだビニール傘がなく、小学生の私は「どんな傘を買ってもらおう?」と胸を躍らせたものだ。
傘屋では修繕もしていて、大事に長く使うのが当たり前だった。
でも、父だけは傘をしょっちゅう忘れていた。
「また、あそこのバス停に傘があったわよ」と、近所にある母の実家で話が出るたび、
それはたいてい父のものだったりして、母方の親類で笑いものになった。
妙蓮寺の井戸は、私にとって「原風景」というほどの存在ではなく、
ただ日常の景色だった。
石組みの縁は、長い時を経て角が丸くなり、手のひらにひんやりとした冷たさが広がる。
井戸は境内の木々から吹く風を受けていたが、誰にも気にとめられていないようだった。
はじめて試したとき、水がぐいっと押し上がってくる感触と、その驚きは今も覚えている。
今になって振り返ると、
戦前から変わらぬこの井戸は、どれほど多くの人々の喉を潤してきたのだろう。
祖母もここで水を汲み、日々の暮らしの中に自然に溶け込ませていたに違いない。
戦火を生き延び、変わらずそこにある井戸。
その前に立つたびに、私は妙蓮寺の歴史と、自分のルーツを確かめたいような気持ちになる。
響香の父が中東でアルミサッシを売り歩いていた頃の話を、
伸子に聞かれたのは、2か月前のことだった。
「中東って、どんなところだったの?」と。
妙蓮寺コーポラスのバス停に、いつも傘を忘れる父。
伸子の語りを聞いた帰り道、響香は、
ぽつりぽつりと記憶の中の妙蓮寺を、電車の中でたどっていた。
家に帰って地図を開くと、
妙蓮寺コーポラスのバス停を出たバスは、綱島街道を進んでいく。
綱島街道といえば、横浜港から川崎を経て東京へとつながる道。
江戸時代には、商人や旅人にとって重要な移動ルートで、後の明治時代にも交通の要所として機能していた。
黒船が横浜港に着いた際、その荷物も馬に引かれ、まさにこの道を通ったという。
響香にとって、
小6まで過ごした妙蓮寺は、ますます特別な場所になっていった。
響香の記憶の中に、静かに佇む妙蓮寺の井戸がある。
それを、関東大震災で焼け野原になった風景の中に、そっと置いてみた。
見たことのない昔の水道の話を聞き、その夢を追った人々の姿を想像する。
今、目の前にある現代の水道の一滴も、あの妙蓮寺の境内に続いているような気がした。
画期的だった横浜水道。
宗派を越えて渋沢栄一が手掛けた妙蓮寺駅。
どちらも、戦争で大きな被害を受けたはずなのに、
あれよあれよという間に、まるで魔法のように復旧し、
やがて日本各地へと水道インフラを広げていった歴史がある。
小学校3年生の頃。
妙蓮寺駅で、10円玉を入れ、人差し指でくるくると自宅の7桁の番号をダイヤルしてかけたことを、ふと思い出す。
響香の記憶の中に、静かに佇む妙蓮寺の井戸がある。
それを、関東大震災で焼け野原になった風景の中に、そっと置いてみた。
見たことのない水道の話を聞き、その夢を追った人々を想像する。
現代の水道の一滴が、妙蓮寺の境内の中に息づいているような気がした。
画期的だった横浜水道も、宗派を越えて渋沢栄一が手掛けた妙蓮寺駅も、
戦争で大きな被害を受けたはずなのに、
あれよあれよという間に、まるで魔法のように復旧し、
やがて日本各地に水道インフラを広げていった。
小学校3年生の頃。
妙蓮寺駅で10円玉を入れ、人差し指でくるくると自宅の7桁の番号をダイヤルしてかけた記憶がある。
響香の脳裏に、源流からぽつり、ぽつりと落ちる水滴が、
やがて蛇口をひねるように流れ出し、
さらに回していくうちに大河になるような、壮大な物語が生まれてしまった。
母や祖母からは、満足に食べられなかった時代の話を聞かされていた。
けれど響香自身は、贅沢こそしないものの、
給食は当然あり、揚げパンに心を躍らせた。
水道水を好きなだけ飲むことも、あたりまえだった。
母は鍋でだしをとり、朝には味噌汁を作った。
まな板をリズムよく叩く音で、幼い響香は目を覚ました。
卵は半熟で、湯気のたつ味噌汁に添えられていた。
そんな朝が、何百年前から続いてきた当たり前だと、信じて疑わなかった。
ぽつり、ぽつりと、朝の一滴が、過去へとつながっていく。
駅を降りると、ちょうど哲郎の運転する車のライトが、前の車をやわらかく照らすのが見えた。
手袋をかばんの中から探すこともせず、
「ありがとう」という前に、妙蓮寺への「ありがとう」も、心の中でそっとつぶやいた。




