恋知る悪魔
翌朝、学校に笙子は来なかった。笙子からのメールで起こされた俺は、理由を知らないまま登校すると教室にはすでに人がいた。
「笙……」
「残念」
「ため息?」
ユズリは俺を指さして笑った。昨晩、二人の女性に弄ばれて心が萎えているのに、教室にいたのはユズリだけ。俺がいて、笙子がいて、ついでにユズリがいる。そんな日常が少し乱れるだけで、どうして胸がざわつくのだろう。
「悪かったわね、笙子じゃなくて」
「え?」
「ま、いつも一緒にいたらさ、いないと凹むよね」
ユズリに、いつもの天真爛漫さはなかった。教室には俺とユズリの二人きり。何だか居心地が悪い。ユズリが言うとおり、隣にいて当たり前、笙子はそういう存在だ。
「なあ、ユズリ。お前と笙子って仲良いよな」
「まあね。双子並に意思疎通してるぐらいだよ」
「笙子の弱点って、なんだか知ってるか」
「……弱点?何、笙子の……そう。でも、それを人に聞くなんて、最低じゃないの」
俺の言う弱点をどう解釈したのかは分からないが、どうやらユズリを怒らせてしまったらしい。きつい口調で俺に言葉をぶつけると、ユズリは窓側に行ってしまった。何かあると外を見ながらいちごミルクを飲む、これはユズリの精神安定法らしい。笙子で言うロングトーンと同じなのだろう。
――人間の心って複雑ね、って話よ
本当だね、マドカ先生。基本的に善か悪かしか気にしない俺たち悪魔には、わかりっこないのかもしれない。
人間界に来て三週間になるが、俺は人間の色々な面を見てきた。怒ったと思ったら三分後には笑っているし、悪だと思っていた嘘が善の裏返しで合ったりと、こんなに色々抱えていたら疲れるだろうと思う。携帯で調べてみたら、それは人間だけがもつ“感情”と言われるものだと知った。
今だってそうだ。気に入らないことを言われたんだから、教室を出るとか俺を追い出すという強硬手段ではなく、心の安定化に努めている。つまりは、俺を許そうとしている。難しい。
きっと、苦手な歴史のテストを解くより難しい。
「笙子、何で休んだのか知ってる?」
「風邪とかじゃないのか」
「そうね。ま、熱よ。多分、当分下がらない」
「重病なのか?」
「あんた馬鹿ね。毎日、屋根で語り合ってる仲なのに」
「知ってたのか。昨日、別れた時は元気だったからさ、どうしてかと思って」
ユズリは、いちごミルクの紙パックをグシャッと潰すとゴミ箱に放った。ジャストヒット。しかし本人はしかめ面だ。
「うちらさぁ……気が合うよね」
「俺とユズリ?」
「うん」
「そうだな、結構な確率で合うよな」
「私、あんたのこと結構好きだよ」
「俺もだって。どうした、卒業を迎えて寂しくなったか?」
「半分正解」
じゃあ残りの半分は?なんて、聞ける空気ではなかった。ユズリとは毎日近くで楽しく過ごしてきたが、こんな表情は初めてである。
「笙子が心配?」
「そりゃ……な」
ターゲットなんだからな、とは言えない。そういえば、卒業実習は“ターゲットを不幸にすること”だ。
「心配で、早く顔を見たい感じ?」
「うん」
「ソワソワする?」
「そう……だな」
「私には?」
「何が言いたいんだ?」
笙子の弱点の話から、だいぶ的がずれている気がする。留年の通知書がどんどん俺との距離を縮めていっている。今、必要なのは、俺の感情ではなく笙子に関する情報だ。会話のベクトルをもとに戻そうとしたとき、ユズリが大きなため息を吐き、小さな声で言葉を発した。
「分かった、今すぐ帰れ馬鹿」
「なんでだよ、来たばっかりだろ」
「あんたは私と違って、日数足りてるんだからいいでしょ。早く帰って、笙子のところに行きなさい。そうすりゃ分かるわよ、私の言っていることも、あんたの言う笙子の弱点も」
「俺がいないと、お前、一日中一人じゃ……」
「行けよ深月七斗!早くしろ!」
ユズリの大声に驚いたのか、パタパタと廊下を走る音がした。どんどん近づいてくる。ユズリは荒い呼吸をしてうつむいていた。その鋭いまなざしは、俺を切り裂くような狂気を含んでいる。とにかく、今はユズリの言うとおりにした方がよさそうだ。
「わ、わかったってユズリ。行くからさ、ありがとう」
「心配なんかされたかないのよ……こっちだって本気で、ダメでも本気にならずにはいられないんだから……」
「え?」
そんなユズリの絞るような最後の声を、俺は知らない。




