悩める悪魔
「七斗!朝だよ」
一週間が経ち、人間界の暮らしにも慣れてきた。毎朝、笙子が起こしに来て、リビングに行って朝食を摂る(作ってくれる母親も人間である)。そして部屋に戻り、勝手にベッドメイクをしてのんびり座っている笙子と共に登校し、授業が終わると部活の練習に励み、終わると一緒に帰る。七日間、変わらない日常を送っていると、嫌でも慣れるものだ。
俺と笙子は吹奏楽部に在籍している。勿論三年生は引退しているのだが、進学先が決まった生徒は放課後の教室でなら参加しても可、というのが全国大会で金賞常連校の吹奏楽部の伝統らしい。
笙子はトランぺッターだ。顧問の許可を取って教室に戻ると、直ぐ楽器ケースの蓋を開ける。中に入っている笙子のマイトランペットは、普段写真などで見るようなゴールドではなく、扱いが難しいとされるシルバーだ。口につけるマウスピースも一流品。手早く組み立てると、小さい音量で音を一つずつ伸ばし始めた(ロングトーンという)。魔界で吹奏楽部に所属していた俺も、担当のサックスのケースを開ける。リードを加えて湿させながら、ネックを本体に着け、程よく湿ったリードをマウスピースにつけ、ネックの位置を調整する。BGMは笙子の音だ。
笙子の音は繊細だ。それでいて力があり、人を引き付ける何かがある。だから、聴いていて飽きないのだ。楽器というものは小さい音量で音程を保って吹くのは相当の技量がいるため、大体が恐る恐る吹くものだけれど、笙子の音は力強い。そして、その横顔は、綺麗、だと思う。
「ヘーンターイ」
「は?」
「人が集中してる時に、横顔見ちゃってさ」
「別にいいだろ。減るもんでもなし」
「私の集中力とテンションが減る」
中にたまった唾液を出し、トランペットを膝に置いた。ふいに静寂がおとずれる。聞こえるのは、カチカチと機械的にリズムを刻むメトロノームの音だけだ。
「笙子はさ、なんでロングトーンばっかやってんだ?基礎練習も大切だけど、曲練習も大事だろ」
「だって、先生に頂いた課題曲、アンサンブルだしつまらないんだもの。それにね……」
「ん?」
笙子は自分のトランペットを撫でながら、柔らかい笑みを浮かべた。母親が子供にするような笑顔だ。
「落ち着くんだ、ロングトーンやってると。心が静まるっていうか」
「笙子の進学先、K大だよな。笙子なら音大進めると思うけど」
「別にトランペットで食べていく気はないのよ。競うんじゃなくて、楽しく吹いていきたいの」
笙子の信念は揺るぎない。しっかり前を見据えて歩いている。半歩先の未来でも、地に足を付けて確実に進んでいるのだ。そして、再び楽器を持って、ロングトーンを始めた笙子は、やはり綺麗だ。
人間界の高校生は、大学に進学するために学術試験をクリアしなければならないらしく、大半の生徒は塾やら予備校やらに通っていて、学校に来るのは指定校推薦で早くに進路が決まった笙子、教師の薦めで受けた大学の推薦入試が受かった俺。あとは日向高校の直属・日向大学への入試をパスした神崎ユズリの三人だ。ユズリは笙子と共に初めて通学した時に、生活指導に捕まっていた女で、不思議なことに真面目一貫な笙子の親友らしい。茶髪にピアス、着崩した制服。いずれも、校風が自由と言われている日向高校でも退学レベルのものだが、成績の助けを得て高校生活を送ってきたらしい。そして名門の日向大学政治経済学部への進学を勝ち取った。その彼女が、何故登校しているのかは知らない。直球で聞いてみたら、見事はぐらかされてしまって以来、気にしないようにしている。
俺が人間界に来て二週間目の金曜日、誰もが早く帰宅してグータラしたい日にも登校していた。自由登校の前は休みがちだったのに、時が進むにつれてユズリの出席率は右肩上がりだ。
「暇だねぇ……」
「そうだな」
「二人とも、そんなに暇なら掃除手伝ってくれない?」
笙子は固く絞った雑巾を手に机の上に突っ伏している俺たちに援護を頼むが、そんなものは元来が怠け者の俺や、二週間前に出会ったばかり(むこうはそうではないのだが)のユズリには通らない。
「どうせ汚くなるんだからさー、それにもうすぐ卒業だし。掃除なんてやっても無駄よ、春になれば新三年生が掃除するし」
「人間は綺麗好きだな」
「なによ、私は人間に入らないの?」
「聞かなかったことにしろ」
「了解」
笙子とは別のところで、俺とユズリは何故か気が合う。それは人間・深月七斗ではなく、基盤であるナナトとだろう。笙子と仲が良かった彼女は、初めて見る人間界に右往左往する俺を見て面白がり、ツッコミを入れる。それを、俺が返す。まるで夫婦漫才みたいだね、と笑顔で言われたが、夫婦漫才の意味が分からず尋ねたところ、また腹を抱えて笑われた。それ以来、笙子と俺とユズリの三人は、残り短い学校生活を楽しもうと学校に来ているのだ。意外に鋭い面もあり、別の世界から来たみたい、と言われて冷や汗をかいた時もあったが、冗談だよ、と言って笑っていた。
「ねぇ、笙子。今日も部活あるの?」
「あるわよ。ねぇ、七斗」
笙子の顔には不敵な笑みが張り付いている。“絶対に来い”、との指令だ。
「ほら、もう時間よ。この教室は吹奏楽部が使います」
「聴かせてよ、私にも」眉間にしわを寄せてユズリが渋る。
「どうせ寝るんでしょ、私たちは、あんたの子守唄を演奏しているんじゃないの」
「もう……帰りますよぉ。じゃぁねん、笙子、深月君」
これはいつも見る光景だが、この時のユズリは意外と粘らない。すぐに身支度を済ませて帰っていく背中を見て、これだから、と笙子がつぶやいた。
「飽きないよな。毎日毎日ロングトーン」
ためしに話しかけてみるが、返答はない。一週間前は無視されているのかと心配になったが、集中していて耳に入っていないというのは、時の流れで何となくわかった。
「ねえ」
楽器を守るために首から下げるストラップを楽器に繋げようとしていたときに、笙子に声をかけられた。不意打ちで落としそうになった楽器を、素早く掴んで笙子を見る。その顔は、やはり綺麗だ。
「七斗ってさ」
「何だよ」
「ユズリのこと、スキなの?」
スキ?
すき……?
「まあ、いい奴だよな。いい友達だ」
「それって、どういうこと?」
「スキってこと」
そっか、と言って、笙子はまた楽器を構えた。口を付ける前に、小さな声で言う。
「ユズリさ、マイペースだけど、いい子だから」
「知ってる」
「仲良くしてやってね」
消え入りそうな声で笑う笙子に、俺の胸がざわつく。何故?何故そんなに、悲しい顔をするんだ?
「ロングトーンの競争しよう。買った方が、いちごミルクをゴチ」
「わ、待てよ!フライングせこいぞ!」
笙子は楽器を構えた。俺も一呼吸して楽器を構える。笙子の音と和音ができるような音を出して勝負したが、俺はあっさり負けてしまった。
夜は屋根に上って月を見るのは、俺の日課になっている。やはり生まれ育った故郷の環境はとても居心地がよい。欲を言えば、もう少し月に陰っていてほしい。魔界の月は、魔物の瘴気で輪郭ぼやけているのだ。
「七斗」
声の主は笙子だった。慣れたように屋根を上り、俺の隣に腰を下ろすと伸びをする。
「慣れてるんだな、屋根上り」
「何言ってるの?子供の頃よくやってたじゃない」
「そうでした」
「うーん、いい気持ち」
再び伸びをして、月を見上げる笙子の横顔は、いつもより数倍綺麗だった。魔界から送られた顔写真を見た時も綺麗な人間だと思ったが、今日はより一層である。何故、屋根に来たのかは、尋ねても教えてくれなかった。
「綺麗な月」
「そうだな」
「狼にならないでよ?男の子!」
「なるかよ」
近所迷惑にならないように、お互いを見てクスクスと笑った。学校で見る笙子とは違う笙子。俺はこの綺麗な女を不幸にしなければならないと思うと、やる気以上に罪悪感が湧き上がる。だが、成功しなければ留年確実だ。それも嫌だ。
「あと数か月で、私たち離れちゃうね。私の通う大学は、ここからだと遠いから、寮に入るの。七斗は地元だもんね」
「そうだな」
それしか言えない。
「ユズリは日向大学。すごいよね、うちのクラスの星だよ」
「星っつっても、茶髪が光るだけだったりして」
「ピアスとか?」
「そうそう……って、居ない人の悪口は言っちゃだめだよ」
「笙子がきっかけだろう」
「えー、責任転嫁だよ」
そして、また笑った。
「楽しかったよ、七斗と一緒にいて。なんかこの二週間は変だけど」
「う、うるさい。いたって普通だ」
「大学卒業したら、戻ってくるから。待っててよ」
「そりゃ、待ってるさ……」
心が痛んだ。大学卒業は早くて四年、俺が人間界にいられるのは残り二週間だ。すぎたらもう二度と、会えない。
「だから……うん。ね」
「何だよ、どもっちゃって」
「乙女心が分からんねぇ、七斗君は」
「は?」
「じゃ、私もう寝るわ。おやすみ」
「おやすみ……」
屋根を降りる笙子の背中を見ながら、俺は考えていた。最終的に、“深月七斗”の記憶は消される。“深月七斗”が起こした幸も不幸も消されてしまう。そう思うと、俺の心のなかに虚無感が広がる気がした。
『ナナト君、接近し過ぎ』
「うわぁ、ビックリした」
携帯電話から大きな声が響いた。マドカ先生のいつもの小鳥のような声も、今日ばかりは教師のそれになっていた。
『二週目の連絡を聞こうかと思って電話したのに、何回電話しても出ないんだもの。しょうがないから、校長の水晶玉を拝借して、そちらの様子を見させてもらいました』
「え、水晶玉って、天界も魔界も人間界も見ることができるやつですよね。なんだ、先生盗聴してたんだ」
『おちょくらないの。校長も心配なのよ。実際、見てみたらナナト君、しどろもどろだし。ねぇ、本当に大丈夫なの?先週は彼女を不幸にしますって、言ったわよね』
「言いました。大丈夫ですよ。何がそんなに心配なんですか?」
『……人間の心って複雑ね、って話よ』
「はぁ」
笙子にしてもマドカ先生にしても、オンナの心と言うものは分からない。マドカ先生は年上だし先生であるから、自分の生徒を無事卒業させるために尽くしてくれるのは分かるが、笙子は何故屋根に上ったんだろう。そして自分ではなく、ユズリの話をしたのだろう。保護者でもあるまいし、“仲良くしてやって”。親友と言うものは、そういうものなのか?
「先生の専攻は人間学じゃないでしたっけ」
『そうよ。だから、文月笙子の気持ちがわかるのよ。言葉が文字みたいに、目に見えればいいのにね』
「何ですか、教えてくださいよ」
『簡単に答えを教えられるわけないじゃない』
「じゃあ、ヒント!」
『そうねぇ……あなたが言う、文月笙子の弱点。それは具体的になんだと思う?じゃあ、また一週間後』
「先生っ……切れてやがる」
プーッ、プーッ、プーッ……電話が切れた。次の電話は一週間後。宿題を出されてしまった。人間界でも山のように出ているのに……
「具体的か……考えたことなかったな」
この場所が、温かくて居心地がよすぎるから。
「不幸……」
呟いても答えなどでないのは分かっているけれど。
笙子の不幸とは、何なのだろう――




