戯れ
フロースは、にっこりすると、右手をフィニアスの前に出した。
「では、わたしにも、ノイと同じような挨拶をしていただけますか?」
フィニアスは、思わず笑った。
自分の夫を裏切る気配など、微塵も見せない。
その上品で洒落のある答えは、彼女の価値を高め、魅力的にする。
フィニアスは、彼女の手を取りキスをした。
彼女は少し身を低くしてそれに答えると、眩しいくらいに爽やかな笑みを見せる。
「あなたに初めて会った時のことを思い出すわ。
あの時も、あなたはわたしの手にキスをしたのよ」
「では、紳士的な挨拶ということだな」
フィニアスが冗談めいて言った。
フロースは笑い出す。
「いいえ。覚えてないの?
とても無礼だったわ。
なのに魅力的で・・・
悔しいけれど、ノイの反応を見て、昔の自分を思い出してしまったわね」
フィニアスは驚いて言った。
「無礼なのに魅力的とはどういくことだ?」
「まあ、あなたは、わざとそうしたのよ。
わたしは、とても忌々しい思いをしたのに・・・
あなたに恋してるって知りながら、意地悪して小娘扱いするし、
そうそう、料理が出来ないと言ってわたしを馬鹿にしたのもあなただわ。
それなのに、熱烈なラブレターを送ってくるんですもの」
「ラブレター? わたしが書いたのか?」
「本当に覚えてないのね。
わたしは、感激して泣いたのに。
そうね、その方がいいのかもしれない。
昔のことですもの」
フロースは、ふふふと笑い、再びフィニアスの腕を取り、屋敷の方へ歩き出す。
フィニアスは、ラーウスから直接スパイスを購入しようとして彼女を送り、
交渉は成立したのに、彼女は消えてしまい、
やっと居場所を突き止めたと思ったら、結婚したと聞かされたことしか覚えていなかった。
「一体、わたしは何をしたんだ?
自分がしたことを覚えてないのに、あんたが覚えているのは気に入らないな」
フロースは目を大きく開いたかと思うと細め、満足そうにふふんと鼻を鳴らす。
「いやよ。教えないわ。
あなたは、わたしをとんでもない目に遭わせたんですもの。
これから一生、そのことを気にするといいんだわ」
「あんたの方こそ意地悪じゃないか。
まあいい、この会話も忘れてしまえばいいことだ」
フロースは、声をあげて笑った。
「あなたらしいわね。
そう、それがいいわ。
忘れましょう。
どっちにしても、あなたにとって、わたしは叔母上なのよ。
年下の叔母も乙なものでしょう?」
そうして彼女は、フィニアスの腕にぶら下がるようにすがる。
フィニアスも、そのふざけに付き合って彼女を支えた。
フロースにとって、自分は兄、もしくは従兄の様なものだ。
この会話も、ただの戯れでしかない。
彼には、そのことは良く分かっていた。
フィニアスは、フロースが、娘の一人を連れて里帰りすると聞いた時、違和感を感じた。
そして彼女が戻る前に、急な出張で出かけなければならず、それが手間取ったので、
このまま、会わずにすむかもしれないと思ったりした。
ところが今、フロースの腕を取り、森の中を歩いている。
彼は、こうしてフロースといる時間を、心地よく感じていた。
ニノンが、屋敷のテラスにいるアデールを見つけ、
「母さま!」と叫んで駆け出す。
アデールは、ずっと、彼らの様子を見ていたのだ。