笑顔
「フィニアス!」
森の中に響く忘れもしない女性の声。
フィニアスは、ゆっくりと、弧を描くように振り向く。
木々の間から降り注ぐ光、
淡く優しい色の空気、
下草の緑、倒れた大木を覆っているコケ、柔らかな茶色の土で覆われた地面。
その声の主は、うねりながら続く獣道に立っていた。
風が木々の枝を揺らし、光の塊が辺りを照らす。
彼は目を細める。
「父さま!」
突然、小さな女の子の声がした。
フィニアスは、駆けてきたその子を抱き上げる。
自分と同じ黒髪の巻き毛、五歳のニノン。
「フィニアス、あなたに会えないのかと心配していたのよ」
その女性は、笑顔で近付いて来た。
やはりそうだ。
変わらない笑顔。
彼女を何と呼ぼうか。
「フロース・・・そう呼んでもいいのかな?」
彼の戸惑いに、彼女は悪戯っぽい表情をした。
「いいわよ。
みんなもそう呼んでいるし」
彼女は別の名で呼ばれるようになり、長い間、音信不通だった。
そして、久しぶりに生家へ戻ったのだ。
突然、茂みが揺れ、十六歳くらいの少女が飛び出した。
そして、知らない男性が立っているのを見て驚く。
娘の目は、緑がかった銀色。
なんて美しい色だ。
フロースは、少女の髪についた木の葉を払い、服装を整え、フィニアスの方へ向ける。
「娘のノイよ」
フィニアスはニノンを降ろし、ノイの手を取る。
そしてキスをした。
「わたしは、プリオベール男爵フィニアスだ」
ノイはこの突然の挨拶に驚き、顔を赤らめながら挨拶する。
フィニアスは五十歳を過ぎている。
それなのに、
少年のような屈託の無い笑顔と、洗練された品格で、
少女の心を捉えてしまったらしい。
フロースは、女性の心をつかむのが上手いのは相変わらずだと思った。
はにかむ娘に、自分が若かった頃を思い出し、ふっと笑う。
彼に恋をし、失恋していた。
ところがニノンは、ノイを取られると思ったらしく、父親に真剣な顔を向ける。
「ノイはわたしのお姉さんよ」
フィニアスは方膝を付き、ニノンと同じ高さになって微笑む。
「それは良かった。
だが、ニノンは、父さまが好きだったんじゃなかったのかな。
会うのも久しぶりなのに」
ニンンは、にっこりすると両手を父親に伸ばし、その首を抱き、頬にキスをする。
「もちろん、父さまが一番よ」
走り出したノイとニノンを目で追いながら、
フィニアスは、フロースに腕を出してエスコートしようとする。
彼女は呆れるように言った。
ここはフロースの実家だ。
「わたしはこの森で育ったのよ」
「いいじゃないか。あんたを貴婦人として扱ってるんだ」
彼女は彼を見、仕方が無いという表情をして、自分の手をその腕に通す。
そうして二人は、ゆっくりと歩き出した。
木々の、衣擦れの音だけが聞こえる静けさの中、時折、ノイとニノンの声がする。
「ノイは、この森が好きみたい」
沈黙を破るようにフロースが言った。
「そうか、だからニノンはノイを気に入ったんだ。
ディフォーレスト家の血だな。
プリオベール家の領地は草原が多いんだ。
美しい土地だけれど、ニノンはこの森の方が好きらしい」
「まあ、ニノンは、あなたに似ているのに?」
その時フィニアスは、
「ニノンの笑顔は、あんたにそっくりだ」と言おうとして止める。
この笑顔が好きだったのに、彼女を手放したのは自分だった。
そして彼女が遠くの地で結婚したと聞き、諦めたはずだったのに、
彼女の面影がある姪のアデールと結婚してしまった。
フロースとニノンは血で繋がっている。
ノイとニノンの声が遠ざかり、
フィニアスは、
自分とフロースの足音、
そして、時々、彼女の長いスカートが下草に触れる音を聞いていた。
こうして二人で歩いていると、
全てのことは遠くへ行ってしまい、自分たちだけが存在しているかのように思える。
彼は、フロースの横顔を見下ろす。
分かれた時、彼女はまだ二十一歳だった。
あれから、二十年以上の月日が経っているのに、
目の前の彼女は、なんと生き生きして美しいのだろう。
そして、この香り。
「ああ、スパイスだ」とフィニアスは思った。
ラーウスのスパイスが、彼女を遠くへ追いやってしまった。
フロースはフィニアスを振り向くと、「何?」とでも言うように無邪気な顔を見せる。
そう、その笑顔。
「フロース、キスしてもいいかな?」
フィニアスは、彼女の耳にそっとささやいた。




