第四話① 心配の速度が速すぎる
一月半ばの雪は、音を連れて行く。
朝、雨戸を開けると、庭が白く沈んでいた。数年に一度積もるか積もらないかの、珍しい量の積雪。世界の物音が全部、雪の下に仕舞われたみたいに遠い。垣根の上を近所の三毛猫が器用に歩いていた。この家の縁側の陽だまりを勝手に別荘にしている猫で、なぜか千にだけ懐いている。千が煮干しをやっているのを律は知っているが、黙っている。
静かな朝だった。静かなのは雪のせいだけではない。
あの正月から、セオリア荘の会話は少しずつ不自然に丁寧になっていた。誰も「だめ」と言わない。言いかけては呑み込む。呑み込んだ数だけ、口数そのものが減っていく。善意の検閲は、続けるほど会話を細らせる。
「みんな、最近ボクに敬語みたいな喋り方する」
朝食の席で、望がぽつりと言った。責める調子ではなかった。ただの観測報告だった。それでも食卓は一瞬しんとして、結が慌てて三倍の声量で今日の天気の話を始めた。
結はついに「言い換え帳」なるノートを作った。だめ、は、ナイスチャレンジ。走らないで、は、歩くと得するよ。触っちゃだめ、は、それ実は冷たいほうが美味しいやつ。無理筋の翻訳が半分だったが、結は大真面目だった。大真面目に、大好きな子の地雷を踏まない言葉を夜なべで発明していた。
律の「あかん貯金」は通算二十六回になっていた。呑み込むこつも覚えた。あかんの「あ」の口の形から、「あー、なるほどな」へ着地させる技である。なるほどではない場面で使うと、千に「……嘘の顔」と査定される欠点があった。
律の視界の端で、輪郭だけの引き波はもう岸のすぐそばまで来ていた。潮位は下がらない。下げる方法を、この家はまだ誰も知らない。
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事故は昼前に起きた。
最初に気づいたのは現だった。台所の窓から外を見て、「あ」と言った。
物置の屋根の上に、望がいた。
昨夜の雪が屋根に厚く積もって庇が嫌な音を立てていたのを、望は聞いていたらしい。誰かに頼まれる前に、梯子を立てて、シャベルを持って、上っていた。この家の力仕事へ真っ先に動く子。動きが早いから、発見も、悲鳴も、早かった。
「のんちゃん!? あぶないよぉ、降りて——」
「のんちゃん!! だめ! 動いちゃだめ!」
「望ちゃん、降りなさい!」
現、結、好。三つの制止が、五秒のあいだに積み重なった。
まずい、と思ったときには、律は縁側から裸足で庭に飛び出していた。岸まで来ていた引き波が、ゆっくりと立ち上がるのが見えたからだ。押さえられた声の数だけ壁になる。一声ごとに目に見えて高くなる。
屋根の上で望の顔から表情が消えた。
「あー……」
のんきな声だけが白い庭に落ちてくる。動かないで、と言われた足が、動く。それも、屋根の雪の緩んだ側へ。庇の際へ。冗談みたいに真っ直ぐ、一番危ない場所へ。
雪ごと足が滑った。
考えるより先に律の身体が動いた。梯子に取りついて、駆け上がる。段をいくつ踏んだのか、あとから数えても記憶になかった。気づけば屋根の縁で、望の手首を掴んでいた。
逆だった。わかっていたのに、逆だった。
掴んだ瞬間、立ち上がっていた波が律の握力を呑んで倍になった。防波堤を越える高さになった。そして今度は、家の中に納まらなかった。
波が垣根を越えた。
音のない圧力が通りへ抜けていくのがわかった。数秒遅れて、通りのあちこちから音が返ってきた。がらり、と向かいの家の雨戸が開いて、住人が寝間着のまま深呼吸をしている。角で立ち止まっていた通行人が、何かを思い出したようにふいに駆け出す。母親に手を引かれていた子供が、その手を振りほどいて雪だまりへ頭から突っ込んでいく。
開く人。走る人。飛び込む人。ばらばらだった。ばらばらであることが、正体だった。波は号令を運んでいるのではない。通りにいた一人一人の、それぞれが押さえていたものの栓を片っ端から抜いて回っている。
押さえつけられた子の波は、世界中の我慢を外して回るのだった。
「離して」
頭上から短く言われて、律は我に返って手を放した。放してから、振り向いて叫んだ。
「全員、望から離れて! 声もかけんといて——止めるな! 誰も、何も、止めるな!」
結が口を両手で塞ぐ。現がしゃがみ込む。好が一歩下がる。一が玄関先で静かに頷く。
押さえる手が消えた波は行き場を失って、ほどけた。防波堤の高さまで立ち上がっていた壁が音もなく崩れて、引いて、引いて——望の足元まで戻って、消えた。
望は屋根の棟に腰を下ろして、二回、三回、深く息をした。それから、誰の手も借りずに梯子を降りてきた。雪の上に降り立って、シャベルを律に手渡して、ひとこと。
「……暴れないって言ったのにな」
誰に向けた言葉でもなかった。強いて言えば、自分に向いていた。
家の中では千が階段の五段目に立っていた。二階の突き当たりへ、身体ごと向いたまま。波が消えて、自分の足を見下ろして、千は小さく言った。
「……私、また開けに行ってた」
貼り紙は無事だった。通りでは、狐につままれた顔の人たちが、雨戸を閉め直したり、駆け出した足を止めて元の角へ戻ったりしていた。雪だまりの子供だけが、栓が抜けたままの顔で笑っていた。九十秒。好が後で計った数字だ。九十秒で引いた。引いたが——
「……いまの、垣根の外まで行ってたわね」
好の声は講義のときよりずっと低かった。誰も続きを言わなかった。言えない代わりに、一が手を叩いた。
「おしるこにしましょうか」
この家の応急処置は、いつだって食卓から始まる。
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おしるこの椀が半分になった頃、結が箸を置いて頭を下げた。
「ごめん。あたしが『だめ』って言ったから」
「うつつもぉ……。言っちゃったぁ……」
「私もよ」と好。
三人分の謝罪を、望は餅を呑み込んでからゆっくり見回した。
「誰も悪くないよ。あれ、心配の速度が速い人から順番に言っちゃうやつだから。……この家、心配の速度が速すぎるんだよ」
笑わせようとした言い方だったが、誰も笑えなかった。心配するな、とも言えない。心配は勝手に出る。出た心配は、口に出れば燃料になり、呑み込めば会話が痩せる。どちらへ転んでも行き止まりだ。善意が全部裏目に出る詰み筋を、この家は今日、全員で一周した。
「はい、お餅のお代わり」と一が椀を積んで、話はそこで一度、湯気の中に沈められた。お代わりの椀が空になる頃には、居間には人心地が戻っていた。戻らないのは望の口数くらいだったが、それもおしるこが減っていくうちに少しずつほぐれていった。
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夕方だった。雪の庭が青く沈んで、縁側の向こうで猫が鳴いた。
なあん。
なあん。
二回鳴いた。
律は湯呑みを持ったまま動きを止めた。二回鳴いたことが問題なのではない。猫は何回でも鳴く。問題は、二回目が一回目と同じだったことだ。長さも、高さも、掠れる場所も、鳴き終わりの尻すぼみも。録音を二度再生したみたいに、寸分違わず同じだった。
「律」
隣でななせが湯呑みを置いた。
「いまの、二回鳴いた」
「……鳴いたな。猫やし、鳴くやろ」
「同じ鳴き方で」
その声から抑揚が消えていた。
結と現はまだ餅の追加を巡って騒いでいて、千は猫のほうへ煮干しを持って行こうとしていて、誰も気づいていない。律は口の中で、反響、と言ってみた。雪の日は音が変に響く。壁に当たって返ってきただけ。そういう説明は、いくらでも組み立てられた。
「……そうだね。猫だし、鳴くよね」
ななせはそう言って笑った。笑った形にはなっていたが、そこにも抑揚はなかった。前にもこの声を聞いたことがある。忘れられるはずがなかった。




