第五話② ここにいなさい。いつか来るから
最初に逆さになったのは、結の歌だった。
終わりから始まりへ向かって歌が歌われていく。ほどけた音が高く細くなって消える。次に現の呪文が逆さに解けた。だいじょうぶ、が、意味の粒に戻って散った。
街の生活が逆さに流れていく。夕餉の湯気が換気扇に吸い込まれて鍋に戻り、店のシャッターが閉まった順に開き直し、下校の列が後ろ向きに校門へ吸われていく。世界は巻き戻るときも、生活の順番を律儀に守るのだった。
「(——世界の音量が、下がっていく)」
落ちながら、律は気づいてしまった。
この感覚を知っている。縁側で手を叩いた時のあの薄さの、これは完成形だ。そしてもっと前から知っている。誰かを鎮めた後に世界が薄紙一枚向こうに遠のく、あの利子。素潜りの後の減圧。俺だけの症状だと思っていた、あの——
「(……同じや。あの利子と同じ感覚や)」
巻き戻る世界の側と、鎮めた後の俺の側で、同じ音がする。それが何を意味するのかを考える資格は、たぶん今の俺にはない。ただ、一度気づいた符合はもう消えなかった。
周りを月日が逆さに流れていく。
雪が地面から空へ帰っていく。おしるこの湯気が椀に戻り、蜜柑の皮が果実を包み直し、絵馬の裏の文字が筆先に吸い上げられる。がらり。三倍の音量が逆さに鳴って、ボストンバッグの女の子が敷居の外へ後ろ向きに遠ざかっていく。貼り紙が戸から浮いて、引っ越し屋の指に戻る。
十二月がほどけた。
病室の白が消え、紅葉が散り方を巻き取って枝に戻り、わたあめが祭りの屋台で砂糖に戻る。十一月が、十月が、ほどけていく。ゆっくり喋る女の子が敷居の外へ遠ざかり、飴色の簾が外される。
「律にぃ」
声がした気がした。薄れていく像の中で、現がこちらを見ていた。見て、笑っていた。消える側の人間が、落ちていく側の人間を心配する顔だった。
言うなら今しかなかった。いつか俺が言うたときは、と予約したのは、秋の深夜の台所だ。満期がこんな形で来るとは思わなかった。
「だいじょうぶや。——言うたやろ、全部ほんまや」
現は頷いた。頷いて、砂糖が水に触れるみたいに、消えた。
夏がほどけ、アンコールが逆さに鳴り、炭酸の泡が水に潜り直す。青い簾が外れる。そして——玄関で頭を下げる、見覚えのある猫背が遠ざかっていく。俺だ。俺の「はじめまして」がほどけていく。
俺のいないセオリア荘が、そこから先に広がっていた。
同じ月日が束になって流れていた。同じ四十四ヶ月。少しずつ違う四十四ヶ月。二十二本の月日が一つに編まれて、一本の太い綱になっている。この綱を、この人は一人で、端から端まで何度も何度も歩いてきたのだ。
綱の中が見えてしまう。
同じ朝が二十二通りの顔で流れていく。同じ縁側で少しずつ違う湯呑みの持ち方をする、同じ十六歳。ある一本の中で、彼女は鏡の前にいた。口角を上げて、下げて、また上げて。ケロッとした顔、というものを練習していた。悲しい顔は誰かに気づかれる。気づかれたら説明できない。だから練習する。二十二本の月日のどこかで完成したその顔を、俺は今年、ずっと本物だと思って見ていた。
見てはいけないものだった。たぶん、彼女が誰にも見せずに済ませた唯一のものだった。それが流れ去っていくのを、律は目を逸らさずに見送った。忘れないためだ。この落下が終わったら、あの顔の値段を知っている人間が、世界に一人だけいることになる。
「律っ——」
声が細い。袖の二本指が流れに引かれて、滑る。
綱の側が、ななせを呼んでいた。呼び戻そうとしていた。四十二年の反復の中へ、元いた場所へ、装置を、部品を、返却させようとする流れだった。指が袖の布を滑って——離れた。
白い激流の中で、律は目を閉じた。見えるもので探すな。この流れの中で確かなものは、視覚じゃない。
香りがした。
太陽の香りだった。干した布団の、夏の庭の、あの香り。四十二年分の朝を束ねた一本の光が、流れの中でそこだけ揺れずに立っていた。
手を伸ばす。
袖ではなかった。手だった。掴んだ。掴み返された。二本の指の日課が、五本の指になった。
「——離さへんで」
「離さない」
そのまま、二人は落ちていった。落ちて、落ちて——ある一点を通過しようとした。
夜だった。
流れの中に、そこだけ静止した一枚の絵みたいに夜の街があった。灯りの少ない通りを、行くあてのない足取りで一人の少女が歩いている。着ているものが違う。髪の長さが違う。それでも、間違えようがなかった。
「……あの日だ」
隣でななせが言った。抑揚のない声で。
「あの日が剥がれる。私、導かれなくなる。この家に来なくなる——」
律の胸の奥で何かが持ち上がった。
考えて、選んで、言ったのではなかった。湯たんぽを抱えた夜に、大事に包んで取り出されたあの一行が、預かったままの形で、口から出た。映画のセリフみたいに、一字も変えずに。
「ここにいなさい。いつか来るから」
声は落下の中で不思議な伝わり方をした。音として飛ぶのではなく、波の面に染みて、広がって、あの静止した夜へ滲んでいった。
絵の中の少女が足を止めた。
顔を上げた。
誰もいない夜空を見上げて、それから——歩く向きを変えた。
「……いまの」
ななせが律を見ていた。四十二年分の目で見ていた。
「俺や」
自分の声が他人のもののように聞こえた。
「……俺、やったんや」
四十二年の始まりが、四十二年の終わりと同じ声だった。彼女が話してくれたから、俺は言えた。俺が言ったから、彼女は導かれた。導かれたからこの家があって、この家があったから、俺は今ここで落ちながらこの声を出している。どちらが先か、と問うことに意味はなかった。環は最初から閉じていた。
そして、もう一つ。
波に声を乗せて時間の向こうへ届ける。こんな芸当は人間の技ではない。免疫でも、抑制でもない。これは——あの声の側の技術だ。定理過剰と告げる、あの。
「(俺は……あの声と、同じ側の技術で出来てるんか)」
問いの形になった瞬間、綺麗に腑に落ちる音がした。落ちた先が深すぎて、底の音はまだ返ってこない。今はそれでいい。今やるべきことは、それじゃない。
四十ヶ月の夜が頭上へ遠ざかっていく。落下は続いている。この先には、ななせのいない月日しかない。掴んだ手が少しずつ冷えていく。現在から遠ざかるほど、現在が薄れていく。彼女の指からこたつの温度が抜けていく。
「ななせ!」
律は叫んだ。音のない世界で、声だけが届く。
「今日のやつ、言え! なくしたら困るもん、全部!」
一瞬の空白のあと、ななせは息を吸った。
「こたつ!」
暗い流れの中に、ぽ、と灯りがともった。
「ツケ! あだ名! おしるこ! 蜜柑!」
一語ごとに灯りが増える。湯呑みの湯気。畳の目。煮干しをやる千の指。ルーズリーフの升目。ばらばらの灯りが線で結ばれて、形になっていく。星座になっていく。四十二年の海図の上に、たった一点、「今日」の座標が像を結ぶ。
「日課! ……律!」
最後の灯りがともった瞬間、ななせは、誰でもない方へ——世界そのものへ向かって言った。
「——ここ、現実だよ!」
毎日、袖をつまんで言い続けた言葉が、今日は世界の襟首を掴んで言われた。
あとは、俺の仕事だった。
波消しは水面の波を掴む技だった。素潜りは水面の下へ潜る技だった。なら、この巻き戻りの流れにも、どこかに水面がある。時間の水面。世界がいまどこにいるかを決めている、その一枚の面。
律は空いているほうの手を、流れの芯へ差し込んだ。
指先が面に触れた。世界一枚分の重さが腕に来た。冗談みたいな重さだった。持てるわけがない。一人なら。だが座標はもう、隣で星座になって光っている。海図があるなら、錨は打てる。
リセットはもう一度発動した。ただし今回は落ちるためではなく、引き返すために手を繋いでいる。
「——戻るで」
掴んで、止めた。
落下が、止まった。
一拍の静止のあと、世界が逆さの逆さに流れ始めた。桜が咲き直し、猫背の「はじめまして」が編み直される。青い簾が掛かり、炭酸が弾け直し、アンコールが鳴り直す。飴色の簾が掛かり、わたあめが溶け直し、紅葉が散り直す。雪が降り直し、貼り紙が戸に貼り直されて、がらり、と三倍の音量で戸が開き直す。ほどかれた月日が、順番に、一つも欠けずに編み戻されていく。
夕方の色が頭上に近づいてくる。水面みたいに光っている。
二人は浮上した。
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音は歌の途中から戻ってきた。
結の歌が切れた音節の続きから鳴っている。自転車のブレーキ。クラクションの尻尾。飛ばされたチラシが地面に着く。通りの人たちがきょとんと立ち止まって、自分の手や、足や、開けかけた鞄を見下ろしている。世界の時計の上では数秒だった。数秒だけ、夕方が白くほどけかけて、編み直された。それだけのことになっていた。
律は大学通りの真ん中に立っていた。ななせと手を繋いだまま。
膝が笑っていた。世界は戻ったのに、音はまだ薄紙の向こうで鳴っていた。一枚どころではない気がした。夕方の色も、人の声も、遠い。ひどく遠い。それでも、繋いだ手の温度だけは、紙の枚数に関係なくこちら側にあった。
定理過剰の声はもう何も言わなかった。中断を告げる声も、続きを告げる声も聞こえなかった。
返し波は、通りの先でまだ立っていた。
供給源が止まっていないからだ。人混みの割れた中心で、口を両手で塞いだまま望が泣いていた。
律はななせの手を握り直して、一歩踏み出した。




