第一話 秘密の絵師
(はあ……。疲れた……)
なんとか今日も一日を乗り越えられた。
その実感を、一つのため息に込めて、深く息を吐きだす。
窓から差し込む日差しは強いけれど、真夏の暴力的なそれとは違っている。
キラキラと太陽を跳ね返す新緑が、外の世界の鮮やかさをくっきりと写し出していた。
ふと思いついて、窓から見える景色を、指で作った小窓で切り取ってみる。
もし私がこの景色を描くなら、どんなふうになるだろう。
思ったよりも、小窓から見えた景色が綺麗で、描き留めておきたくなった。
(あ、そうだタブレット)
放課後のこの時間、教室には誰もいない。
少しくらいの作業なら出来ると踏んで、鞄に手を突っ込んで、気づく。
……ない。
いつも欠かさず持ってきているはずのタブレットが、鞄の定位置に入っていなかった。
(え……!?)
慌てて、机の中と、鞄の中身をひっくり返す。
けれど、殆ど肌身離さず持っているはずのタブレットは影も形もなかった。
何度机を覗き込んでも、鞄何度ひっくり返しても、ない。
無意味にタブレットが入るはずのない小さなポケットまでひっくり返してみたところで、当然出てくるわけもなく。
それが分かっているのに、何度もその無意味な行動を、私は繰り返してしまう。
だって、……だって!!
あの中には、私の全部が入っている。
今まで描いたもの。
これから描こうとしているもの。
形になったもの、なっていないもの、全部まとめてあの中に入っているのだ。
そしてそれは、私がこの学校という場で隠し続けている、大きな秘密でもあった。
「あ、いた、あおい!!これ、君のじゃない?」
突然後ろからかかった知った声に、反射的に肩が跳ねる。
その声の主を、私は知っていた。
「高瀬、くん……?」
恐る恐る振り返ると、そこには当然、私の知っている、……それも、正直に言って苦手な人物が立っていた。
隣の席だというのにほとんど話すことのないクラスメイト。
ただそれだけのはずの高瀬くんの印象が、私の中で他の人と違う理由。
そのうちの一つは、高瀬くんが、私達とは“年齢の違う同級生”、だから。
本人曰く、『色々あって2度目の高校生活』。
私なら絶対に学校に来なくなるとわかるそんな状況なのに、高瀬くんは間違いなくクラスの中心人物だった。
物腰の柔らかい喋り方。
人懐こい笑顔。
誰にでも好かれる明るい性格。
休み時間の度に色んな人に囲まれている高瀬くんは、まるで、……人間の成功例、みたい。
……私とは、全く別の世界にいる人。
年齢よりも何よりも、その感覚が、私にとって本当に高瀬くんが特別な理由で、同時に苦手な理由でもあるのだった。
普段ほとんど話もしないのに、高瀬くんは私が目を合わせると、ほっとしたような表情を見せる。
「よかった。ねえ、これ、違う?」
そう言って、高瀬くんが差し出したタブレットの一点に、私の目は釘付けになった。
角に貼られた、月と黒い猫をモチーフにデザインされたシール。
SNSで有名なイラストレーター、『月夜猫』のロゴマーク。
「あ……、うん、そう、私の。ありがとう、高瀬くん」
声が震えそうになるのを必死にこらえて言葉を押し出した。
大丈夫。
……大丈夫。
これだけじゃ、何もわからない。
高瀬くんが差し出したタブレットに手を伸ばす。
指先がかすかに震えているのは、私が一番わかっていた。
「……これさ、月夜猫のロゴだよね」
私がタブレットを掴もうとした瞬間、高瀬くんがぽつりとそう言った。
心臓が、変な音を立てて跳ねる。
「うん、そうだよ」
必死で動揺を押さえつけながら、私はそう答えた。
だって、何も問題はない。
有名なイラストレーターのロゴマーク。
それを知っているのは、持っているのは、私だけじゃない。
「ねえ、あおい」
「何?」
私の声に答えずに、高瀬くんはごく自然にタブレットの画面をオンにした。
明るくなった画面に映るのは、星の瞬く夜空を背景にした少女の横顔。
その絵柄が月夜猫の物であることは、月夜猫を知っている人間から見れば明らかだった。
けれど、問題はそこじゃない。
問題は、その絵が、“完成品ではない”こと。
まだ、どこにも出ていない、月夜猫のイラスト。
「どうして、この絵を、あおいが持ってるの?」
「……」
「……あおいが、月夜猫、なの?」
高瀬くんの言葉は、質問の形だったけれど、低く落ち着いたその声音から、彼の中で、それはもう確信になっていることが、否応なしにわかった。
否定すればいい。
そうじゃないとひとこと言う、それだけでいい。
けれど、否定の言葉は出てこなかった。
喉が詰まって、私は口を開くことすらできず、唇を噛んだ。
「“あの”月夜猫が、……あおい?」
もう一度、高瀬くんは小さくそう口にした。
“あの”。
そう言った高瀬くんの言葉が、どんな意味を持つのか、私にはわからない。
「……タブレット、返して」
低く響いた私の声にはっとしたように、高瀬くんはタブレットを私に差し出した。
私はそのタブレットを高瀬くんの手から半ば奪うように掴んで、鞄に放り込む。
「っ、あおい」
今は、何も答えられない。
……答えたくない。
「ねえ、あおい、俺に」
何かを言いかけた高瀬くんの言葉を最後まで聞かず、私は教室を飛び出した。
恐らく、この行動一つで、高瀬くんの中で“雪村あおい”と“月夜猫”は、完璧にイコールになっただろう。
それでも、私は高瀬くんの言葉を何も聞きたくなかった。
何も答えたくなかった。
……私の秘密の中身を、今の私は誰にも話す覚悟が出来ずにいた。




