新しい気持ち
私は逃げた。
当然、学校の寄宿舎に、である。
ヤバイ! ヤバイッ! ヤバイ! ヤバイッ! ヤバイ! ヤバイッ! ヤバイ! ヤバイッ! ヤバイ! ヤバイッ! ヤバイ! ――――ッ。
帰路を走る間、私は声にならない悲鳴を上げ続けた。悪い意味の悲鳴ではなく、嬉しさ半分と言ったところ。もう半分は恥ずかしさだ。
後の半分は、頭が真っ白になっていてほとんどわからない。宿舎へたどり着くまでのことなど、特に覚えていなかった。
良くもまぁ、ちゃんと帰ってくることができたものだ。
力の制御は不安定だったろうし、今の状態ならほぼ全力の3割ばかしだろう。
いずれにせよ、事件や事故を起こすようなこともなくてよかった。
ちなみに、私が全力だと成人女性の5倍くらいの力を発揮できる。パワーなのか、耐久性能なのか、走力なのかによってバラバラだから、幅が広すぎるのが問題だ。
「ハァ……ハァ……」
本当に息が切れかかるほどの力加減で走ってきたのは確かだろう。
10000メートル10分フラットで走破しても息切れ一つしない私が……。
ふらつきながらも宿舎の横手へと回り込み、自室の窓の真下へとやってきた。
自分の顔が、とても酷い状態なのがわかっていたから。
誰かに見つからないようにしたくても、正面から行けば一人ぐらいには遭遇してしまう。どこかに隠れてやり過ごそうにも、門限まで時間はない。
「ふぅ。よし、これなら登れるくらいにはなったろ」
気持ちが落ち着いたのを確認して、私は窓へと向かって跳び上がった。
私だって女の子なのだ。顔を赤くして、取り乱した顔など見られたくはない。
え? 女の子は垂直跳びで三メートルも跳ばない?
窓の外に出っ張ったカウンター部分へ掴まり、ぶら下がって片手で戸を開く。
ヒョイッヒョイッと部屋へと侵入して、窓際にズルズル腰を落すとしばらく体を固めていた。
状況が落ち着いたら、今度はさっきのことを思い出して心が踊り始めた。ジャズのどんなスイングなんかよりも激しく、感情豊かに跳ね回る。
「慣れたと思ってたのに……クソッ」
男に惚れられ、愛され、愛し合うことはちゃんと通過できたはずだった。以前の記憶では、確かに恋をしていた。
新しい男性に出会い、迫られるのは違うことだ。ラブソングが全部、同じではないのと同じように。
匂いも違う。
ささやく声も全く別物。
撫でていく手の感触だってそれぞれだ。
「う、うぅ……」
それでも、後になって襲ってくる感情は変わらなかった。
罪悪感も自己嫌悪も、嬉しさも幸福感も、全部が後になってまとめてのしかかってくる。整理できない気持ちが、涙になって溢れる。
私は、お姫様を助け出すナイト様ではない。お姫様に憧れる町娘ぐらいであればよかったのに。
化物に惚れられた怪物(私)だ。
一本目のルートで、私の殺された理由はたぶん嫉妬だ。
彼の気持ちを、ハピナと自分を助けるために利用する。そのことが如何に残酷なことか。
それでも私はジョセフのことが嫌いじゃなくて。
「いっそ、どうしようもないくらいの、敵だったら良かったのに……」
あ、でも、それじゃあ打つ手がないや。
自問自答して、声を殺しながら泣いた。
ハピナを助けると、嬉し涙以外は流させないと、誓ったあの日。私が犯罪者になれば、それを破ってしまう。
ジョセフの申し出を受けるのが、正しいルートかどうかもわからないのだ。
別の方法を見つけるべきじゃないか?
しかし、こんな怪物めいた私を好きだと言ってくれた。
これじゃあ、マリオに惚れられた時と何も変わらない。一度通った轍をまた通るハメになるんじゃないか。
ひたすら、女々しく悩みながら泣いた。
それに終止符が告げられたのは、部屋の扉がノックされた時だった。
「アルシャ? 帰って来てるのですか?」
ハピナの声がする。
「私が門限ギリギリだったですぅ。いるはずですぅ?」
ジュペッテもいる。
鼻を啜り、答える私。
「……ズッ。あ、あぁ、帰ってきてるよ」
「そろそろ夕食なので、誘いに。あの、その……」
何かを案じているようで、扉を開けるわけでもなく二の足を踏んでいる。
まさか、泣いていたのが聞こえていたのだろうか。
直ぐ隣はジュペッテの部屋で、その向こうがハピナだ。つい少し前の門限に帰ってきたという証言がある以上、一つ向こうの部屋に聞こえるとは思えない。
部屋の前で聞き耳を立てていた? あのハピナが?
「無事、なのですよね?」
疑ったことを密かに謝った。
私が、帰って来ておきながら姿を見せなかったことが心配で、気が気でなかったのだ。
怪我をしていて出ていけないとか、倒れていたとか。
「ご、ごめんッ。帰ってきてから、疲れて寝てたんだ」
扉を開いて、精一杯の笑顔を浮かべて誤魔化した。
「そ、そうなのですか……! 汗も酷いみたいですし、先に流してからの方が良いですねッ」
きっと私の顔も大変なことになっていたのだろうけど、ハピナの笑顔がぎこちない。
「あ~……。一体どこへ寄り道してきたんでしょうねぇ」
「ジュペッテさんッ。ハハハッ、ごゆっくりどうぞです」
ニヤァッて笑みを浮かべるジュペッテを、ハピナが無理やり引きずって部屋に戻ってしまう。
残された私は、頭の上にクエッションマークを浮かべて立ち尽くす。
とりあえず、シャワーを浴びて夕食へと向かった。その間の妙な沈黙や、不自然な笑顔などもあったと思うが、直ぐに解消していった。
そして、翌朝へと移る。
学校での生活など、以前とほぼ変わらない。
放課後まで、二人の親友を除いたクラスメイトのくだらない陰口をひたすらに聞き、つまらない授業に耳を傾けるだけの生活。
その日、きっと私は心がどこかに飛んでいってしまったように呆けていたのではないだろうか。
何せ、気づいたら放課後になっていたぐらいだ。
「あの、深くは聞きませんが……。今日は本当に、アルシャがアルシャではないような感じでしたよ」
「何を言っても聞いてなかったみたいですぅ。昼食は何だったか覚えているですかぁ?」
親友達にそう言われたのが理解できたのは、今しがたである。
カタカタカタッ、カラカラカラカラ――。
流れていったフィルムが途切れ、漸く私に現実が戻ってきた。
断片的にシーンを覚えているだけで、食べたものの味さえ思い出せない。
「えッ……なん、だっけ?」
自分の喋った言葉が、それが今日初めてのような錯覚を覚える。
二人共、「これは重症です」と言わんばかりに溜め息を吐く。
「もしかして原因は、宿舎の前に立っている人ですかぁ?」
言って、ジュペッテが指差す。
その方向にはジョセフが立っていた。彼の持っているアタッシュケースを見て、いろいろと悟った様子だった。
「な、なんでここに!?」
私は駆けて行った。
詰め寄り、その真意を聞こうとする。
慌てていて、嬉しくて、もしかしたら嫌われているかもと不安になった。
「なぜって、忘れ物を届けに来たのだよ」
変わらない様子で、ジョセフは答える。
その時の私は頭が回っておらず、ジョセフが僅かに立ち位置を変えて居たこのを知らなかった。
寄宿舎入り口の塀に、ちょうど姿が隠れるところまで誘導されたのである。
「感謝して欲しいな。大事な物なのだろ?」
「そうだよッ。何が言いたいッ?」
何故か自身の体の横に掲げられたケースへ、私は疑いもせず手を伸ばす。
取手を掴んだ瞬間、スッと耳元にサラサラの長髪が触れた。
「安心しろ、俺はいつでも待っている。返事を急かすつもりはない」
それを聞いて、もうダメだった。
伝えたいこと言いたいこと、全てが熱となって喉にこもってしまう。
顔がカッと熱くなって、気がついけば背中をハピナ達に支えて貰っていた。
颯爽と立ち去るジョセフの背中を、ただただ見送るしかできなかった。