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これからのこと。

 季節が巡り、再び夏がきた。


 ハスキーたちの散歩は、主に我が家の男性陣たちの仕事である。その時、手が開いていた者が誰とも無く連れ立って出かけていく。


 ちなみに、僕が散歩に行くときには、小百合と子供も付いてくることが多かった。


 その日は、次男が熱を出していたため、僕ひとりで散歩に出かけようとしていた。すると、ついでに煙草を買うと言ってロッキーも付いて来た。


 僕がメープルを、ロッキーがチェリーをそれぞれ連れて、僕らは家を後にした。


 影が長くなる時刻だった。田んぼに伸びる我が家の影は、やたらアンテナがたくさん立っているせいで、まるで針山のように見える。


「だいぶ、陽が長くなってきたなあ」


 ロッキーが、のんびりと言った。


「せやねえー」


 僕も適当に返す。


「夏休み、どっか行くか? そろそろ子供も大きくなってきたし、遊園地くらい連れて行ってもええやろ」


「考えてないね。たぶん、小百合の方から何か言ってくるんじゃないかな」


「ああ、なるほどなあ。女って、そういう情報は早いもんなあ」


「そうそう」


 チェリーが排泄を始めたので、僕らは田んぼの畦道の真ん中で足を止めた。冬の間、土の中でスタンバイしていたらしい雑草が、猛烈な勢いで生長を始めていた。


 無意識に、クローバーの株に目を落として四葉を探してしまう自分がいる。


 反対側から、セダンが一台、畦道をヨタヨタしながら進んできた。影さんの車だ。


 助手席にはジュリアナが見える。影さんの車は、危なっかしい運転ながらも、我が家の駐車場に滑り込んでいった。


「こないだな、職場の若いヤツに言われたんやけど」


「なんて?」


 ロッキーは苦笑いしながら、我が家の方を見て口を開いた。


「十四人で同じ家に住んでるって言ったら、なんでそんなことできるんスかー、だってよ。そいつの家っていうか、まあ、アパート暮らしなんじゃけど、嫁と子供ひとりで、もう狭くてうるさくて堪らんって言いよったわ」


「普通はそんなモンだよ。うちの家が特別なんだ。きっと」


 笑いながらコメントした瞬間、メープルが歩き出したので僕は思い切り引っ張られてしまった。


「俺からしてみりゃあ、その普通ってのが分からんわー。お前は知らんかもしれんけどな、祖父ちゃんと祖母ちゃんが生きとったころは、親父の兄弟が三人と、姉貴が三人。家族連れで同居しよったんぞ。昔はまだ改築も増築もしとらんかったから、寝るときなんぞ、もう、自分のスペースを確保するのに、必死やった」


「初耳だな、その話」


「そうか? まあ、ええけど。祖母ちゃんが死んで、祖父ちゃんが死んだら、なんか知らんけどそれぞれ出て行ったな。で、親父は長男やったから、家に残った。俺も残るやろうな」


 自分はどうするだろう。


 今更のように、ふと考えた。今は同居でうまくいっているからいいが、この先ずっと状況が変わらないとは限らないのだ。


 それこそ、僕たちが暮らしている我が家は、いずれ必ずロッキーのものになる。ロッキーに出て行けと言われれば、僕らも影さんも、出て行かなければならないのが筋だろう。


「考えてはいるんだ」


 メープルに引っ張られながら、僕は軽い口調で言った。


「もともと、小百合の家で同居っていうのは、新築の資金が貯まるまでって思ってたんだけど」


「居心地が良すぎて長居しすぎたか?」


「そうそう」


 僕は笑って答えた。実際、その通りだった。


 しかし、この先僕はいったいどうするのだろう。目の前の畦道は、どこまでも真っ直ぐ伸びていた。


 そして私道に合流し、その私道は県道へ、県道は国道へと続いている。僕はここから、どこへでも行ける。当たり前のことを、改めて認識すると不思議な気分だった。


「俺としては、別にどっちでもええわ」


 何気ない口調で、ロッキーが言った。


「ほんと?」


「ああ、ほんとや。いずれ親父が死んだとしてもな、俺はもともと家族が多い方が落ち着く性分やし、お前らがこのままあの家に住みたいっていうなら、俺は別にええぞーと言うやろうし、嫁も反対はせんやろう」


 そしてロッキーは、わざとらしく田んぼの方に視線を向けた。


「それになあ、うちはもともと土地だけは広いわけやし。兼業でこんだけの農地を耕していこうとなると、とんでもなく大変じゃけんなあ。男手があるんは、助かるわ」


「ああ、なるほどね」


 その意見だけは、僕としても賛成だった。小百合と結婚するまで農業など風景としてしか知らなかった僕だが、実際にやってみるとかなりの重労働だと気付いた。


 今時はトラクターもある。田植え機もある。何がそんなに大変なんだと言われる農家であるが、実際は、とにかく重いものを持つ機会が多いのだ。


 分かりやすい例で言うなら、できあがった米を米袋に詰めるとして、一袋につき三十キロが百袋など、我が家にとっては普通なのだ。


 出荷する分はともかく、自宅の保冷機に並べておくのに、機械の力は借りられない。


 野菜作りにしても同じだ。野菜のための土、一袋が十キロとしても、本格的な出荷を目的にするなら十袋以上は確実に必要だ。


 政府は農業従事者をなるべく手放したくないせいか、遊ばせている土地には大きく課税される。


 だからこそ、農家は米や野菜を作らざるを得ない状況にある。無論、それなりに保障もあるが。


 ロッキーの本業は、土木関係だ。見た目に似合わず真面目で、実は頭がいい(ように思えないことも無いことも無い)彼は、すでに責任者として勤務している。


 よって、農業にばかり時間を割いてはいられない。


 だが、野菜にしても米にしても、放っておけば育つという考えは、正解であって、間違いでもある。


 確かに放っておいても、水さえやってれば育つには育つのだが、売り物として合格点がいくレベルの作物になることはまず有り得ない。


 トマトひとつ例にとっても、水やりの仕方を間違えば、皮がやけに硬く、酸っぱいトマトができあがったりするし、水遣りを忘れていて突然、たくさん水をやると、実割れを起こす。


 そして、当然ながら野菜には虫がやってくる。虫を一斉に殺す農薬を大量投入すれば問題は解決するのだが、それは新たな問題を引き起こす。


 当たり年など、害虫が大量発生してどうしようもない時は薬品に頼るが、我が家ではなるべく農薬に頼らない野菜作りにこだわっていた。


 昔から「野菜は人の足音を聞いて育つ」などと言われているように、おいしい野菜、そして安全な野菜を育てるためには、きめ細かい世話が欠かせないのだ。


 ところで、野菜がいっぱいに詰まった段ボールは、意外なほど重いものだ。当たり前と言えば当たり前なのだが、収穫量が多ければ多いほど、段ボールの数は増える。


 農業をやるなら、男手はあるに越したことはない。ましてや、土地が広いならなおさらだ。


 今現在は義父、ロッキー、影さん、そして僕の四人がいるが、農繁期は四人でも足りず、それぞれの嫁の力を借りて、何とか仕事を終わらせている按配だ。


 それにしても、ビーチパラソルをさしてトラクターを運転しているジュリアナは、なかなか強烈な光景だった。


「それにしても、ホント変わってるよね」


 僕は改めて思ったことを、そのままロッキーに伝えた。ロッキーは意外そうな顔で僕を見返してきた。


「変わってる? 俺がか? 変わってるっていうなら、お前の方が変わっとるやないか。うちに来たばっかりのころは、手袋せんとドアも開けられんような始末やったやないか」


 僕は笑って誤魔化した。


「潔癖症って言うんか? それでよぉうちみたいな大家族と同居する気になったもんやの。おまけに農業やし。でっかいハスキーは二頭もおるし」


「おかげで、気絶する回数が減ったよ」


 ロッキーは声を上げて笑った。


 実際、小百合の両親やロッキー家族、ジュリアナ家族、二頭の大型犬とヨボヨボのプードルと一緒に暮らしているうちに、僕は随分と逞しくなってきたと実感していた。


 かつての僕からしてみれば、自分の子供とはいえオムツを替えることさえできなかったはずだ。


 今では子供のトイレに付き合って、ウンチの後の尻を拭いてやることも余裕でできる。


 土いじりも平気だ。自分が育てたダイコンが立派に収穫できたときは、純粋に嬉しかった。


 土の中にはどんな細菌がいるか分からない。コンポストで腐らせた生ゴミを肥料に使っているのだから、当然、土の中には僕が嫌いなものがたくさん潜んでいるはずだ。


 けれど、今ではほとんど気にならない。むしろ、畑を荒らすイノシシやタヌキの糞が落ちているという、そのことに苛立ちを覚える。


「それを言うなら、うちの家族はみんな変わり者やの」


 ロッキーが笑いながら言ってきた。


「まあ、確かにね」


 ロッキーはこんな感じだし、ロッキー嫁の二次元さんは二次元におけるボーイズ・ラブに夢中だ。


「親父はトラックが趣味やし、おふくろはエステの傍ら、悪口言われたい放題のブリーダーなんぞやっとるし。姉貴は時代遅れのバブルやし」


「まともなのは……」


 つい「影さん」と言いかけて、僕は慌ててジュリアナの夫の名をきちんと口にした。


 彼くらいなものではないか、と言うと、ロッキーは、信じられないものを見るような顔を僕に向けた。


「お前、うちの家にどんだけアンテナが立ってると思うとんのやっ」


 反射的に振り返る。見慣れた我が家の中で、やたら飛び出たアンテナが目についた。


「あいつは、アマチュア無線の専門家やぞ!」


 知らなかった。まさしく初耳だった。確かに、影さんとアンテナは、しっくりくるイメージではあるが。それにしても。


「アマチュアなのに専門家なんか?」


 ロッキーも答えられないらしい。一瞬、言葉に詰まった彼を見て、僕はもうそれ以上、追及するのをやめようと思った。


 だが、ロッキーは影さんとアンテナについて、まだまだ話のストックが残っているようだった。


「ほら、国道沿いに、お化け屋敷みたいな看板が立ってるワークショップがあるやろ。その隣にな、アンテナショップがあるんや。分かるか?」


「ああ、知ってるよ。入ったことはないけど、名前だけは」


「あいつ、あそこの常連や。俺にはよぉ分からんのやけど、姉貴から聞いた話によれば、あそこに入ったら三時間は出てこんらしいぞ」


「三時間っ?」


 僕は度肝を抜かれる思いだった。


「そんでなあ、アンテナをニヤニヤ、ニヤニヤ眺めながらよ、このアンテナは、いいアンテナだ……とか何とか、ひとりでブツクサ言ってるんやって」


「へえー」


 まさしく「へえ」だ。それ以外、言葉が出て来ない。アマチュア無線の専門家にしか分からない世界だ。僕には、アンテナなどどれも一緒に見える。


「まあ、変わったヤツじゃけんの。それで姉貴と結婚したんとちがうか。弟の俺が言うのもどうかと思うけんど、普通の男ならまず姉貴は選ばんわ」


 美人嫁を貰ったロッキーは、しみじみと語っていた。


「いっそのこと、全員で専業農家にでもなってみるか」


 ロッキーの思いつきに、僕は笑って返した。


「いいかもね」


 今の家族なら、なんとなくやっていけそうな気がするから不思議だった。


 受け継ぐ人間がいなければ、ただ持っているだけで負の遺産になりかねない「土地」という財産であるが、それをうまく活用していける人間の力があるのなら、土地は我々にとって何にも代えがたい財産となり得る。


「小百合に言ったら、絶対にイチゴ農園がやりたいって言い出しそうじゃない?」


「ああ、イチゴかあ。なるほどなあ。イチゴはストロベリー……。いっそ、ブルーベリーとかブラックベリー、ラズベリーを栽培して、ベリーズ工房としゃれ込むんはどうやろな」


「それは止めた方がいいと思う」


 僕が真顔で言うと、ロッキーは少々傷付いた顔をした。誰でも考えつくような冗談だと僕は思ったのだが、どうやら彼は少なからず本気であったようだ。


「イチゴ農園と言えば」


 僕は、ロッキーを励ますつもりで、イチゴの話を続けた。


「隣町に、イチゴ狩りをしてるところがあるだろ?」


 僕は、そのイチゴ農園のだいたいの場所を語った。ロッキーはすぐにピンときたようだった。


「あそこ、一時間あたり千円かそこらで、食べ放題にしてるよね。収穫の手間も馬鹿にならないんだし、いい考えだと思うんだ。経営側はイチゴの世話をして、客は収穫を楽しめる上に好きなだけ食べれる。効率がいい方法じゃないかな」


「それを言うなら」


 ロッキーは、かつて小百合が長男を妊娠中に破水したアイスクリーム屋の話を持ち出してきた。


「あそこのアイスはかなり美味いぞ。新鮮なフルーツが盛りだくさんで、いくら食べても飽きが来ないし、いっそのことアイスクリーム屋でもやってみるか? 何かしらなあ、農業だけじゃあこの先、一生食っていけるんか分からんし。何かこう、商売になることをやってみるべきやないか」


 農業だけで食べていけるかどうかは分からないという意見は現実味があるが、何か商売をと言いながらアイスクリーム屋を思いつくあたりは、あまり現実的であるとは思えなかった。


「本格的に商売を始めるには、ちょっと地の利が悪いかもね」


「血糊? なんでわざわざお化け屋敷みたいにする必要あるんや」


 真顔で聞かれて、僕は笑うに笑えなかった。


「いや、交通の便が悪いっていう意味だよ。国道沿いなら分かりやすいし、お客さんも来やすいけど、うちの農場は国道から私道に入って、かなりあちこちを曲がらないといけないだろ。初めて来るお客さんには、あまり親切じゃあないからさ」


「ああ、まあ、確かになあ」


 ロッキーは考え込むように腕を組んだ。


 家族で農場を経営する。専業農家に転身する。という考えは、あまり現実味はないものの、なかなか魅力的な考えに思えた。なんだかんだで僕たち家族は仲がいいし、農業そのものも嫌いではない。


 しかし、仲がいいからこそ、今現在がうまくいっているからこそ、一緒に仕事を始めるべきではないという思いもあった。


 プライベートではなぁなぁで済ませられることも、仕事となるとそうはいっていられない。その結果、意見が合わずに対立してしまう可能性も無きにしもあらずだ。


 特に、ロッキーはあまり他人の意見を聞くタイプではないので、僕と影さんの立場が気まずくなる可能性が高い。


「まあ、子供が成人したら考えるよ。農業は絶対に無くならないんだし、焦る必要はないんじゃないかな」


 僕が言えば、ロッキーは笑って頷いた。おそらく、彼も同じようなことを考えていると分かった。彼自身、自分の性格をよく知っているはずだ。


 ついでに、僕は未だ新築一戸建ての夢を諦めてはいなかった。会社員として勤続十数年の実績がある今ならばまだその夢が叶う可能性は残されているが、専業農家に転身してしまえば、まず間違いなくその夢は諦めざるを得ないだろう。


 さすがに、十四人をそれなりのレベルで養うには、専業農家はリスクが大きすぎる。


「そういえば、お前、実家の方はどうするつもりじゃ」


 いきなりロッキーが聞いてきた。


「実家? ああ、親の面倒はいずれみないといけないだろうね。もしかしたら、俺の母親を含めて十五人家族になるかも」


 僕が言うと、ロッキーは声をあげて笑った。おそらく、将来はそうなる可能性の方が高いと思っていた。予想通り、ロッキーは特に反対しなかったので、僕は正直ほっとしていた。


「土地屋敷の方は、売る方向で考えているよ。田舎にありがちな、面倒臭い本家ってわけではないし、まだまだ建物も綺麗だから、売ろうと思えば売れると思ってるんだ。まあ、売れればいいなあというのが本音だけど」


「そうかー」


 ロッキーは、僕の実家の売却に伴う金銭的な問題にはあまり興味がなさそうに思えた。


 正直、僕の希望としては近所付き合いがややこしい実家には戻りたくない。できれば新築をとも思っているが、今の家でも充分に満足できている。


 それにしても、三十代になると、二十代のころには見えていなかった様々な問題が見えてくるものだし、その問題に対し、現実的な対応をしなければならない年齢でもある。


 それこそ、二十代前半のころであれば「将来、実家をどうするつもりだ」と聞かれても、「さあ、どうにかなるんじゃない?」程度の回答しかできなかったはずだ。


 もしくは、何も考えずに「妹に譲る」などと答えてしまっていたかもしれない。


 しかし、不動産というものはきっちりと回していなければ、本当に負の財産に成り果てる。


 今現在、結婚して市街のアパートに住んでいる妹もまた、将来は新築を建てたいと思っているはずだ。


 そんな妹に実家の建物を押し付けたらどうなるか。妹は、誰も住まない家のために毎年、固定資産税を支払わなければならない羽目になる。


 売却するにしても、実際に買い手がつくその時まで家の管理のために多大な時間と労力を求められる。誰が好き好んでそんな状況を求めるというのか。それは遺産トラブルの始まりだ。


 正直、妹とそんなトラブルになることを、僕は決して望んではいなかった。子供時代からいろいろと思うことはあるが、妹のことを心底、嫌いだと思ったことは一度もない。


 今現在の僕と妹は、三十代の「よくある」兄妹の姿そのものだ。できれば、今のこの状況を壊したくはなかった。


 ついでに言うと、家の管理というのは、意外と大変だ。毎日きっちりと掃除をしていても、家は必ず傷んでいく。


 そして痛めば痛んだ分だけ、買い手はつかなくなるし、不動産価値は下落していく。


 だからこそ、住んで「回す」しかない。誰に回すのか、と言われればやはり「子供」になるのだろうが、子供がそれを拒否すれば、住み手が無くなるわけなので、売却か、あるいは撤去という手段も考えなければならなくなってくる。


 売れればいいが、情報が氾濫しているこのご時勢、不動産の購入には多くの人が慎重になっている。


 取り壊すとなると、その費用はかなりの出費になるだろう。そんなことを考えると、気が重くなってくる。


 僕が小百合と子供を連れて実家に帰るという選択は、本当に最終手段であった。


 今現在の自分の状況を思えば、他人からどう見られているかは別として、かなり優遇されている状況にあると思う。生活費は当然、支払っているが、アパートで生活するよりは何倍も安く上がっている。


 子育ての際に、どうしても不可欠な人手もある。何より、家族は皆、気の合う連中ばかりだ。


 人の力は、何にも代えがたい財産だ。


 それに、近所の住人が気のいい人であるということは、どんなにお金を出しても買おうと思って買えるようなものではない。


 どちらも揃っている今の生活を手放すには、この土地はあまりにも魅力的すぎた。


 メープルがこちらを振り返った。つぶらな黒い瞳が僕を見上げている。普段は僕の存在など忘れたように振舞っているメープルだが、散歩の時だけはこうして気遣うように振りかえることが多かった。


 その結果、溝に落ちる。


「前を見て歩けよっ!」


 僕は慌てて言ったものの、すでに後の祭り、後悔先に立たずである。ロッキーと二人がかりで、四苦八苦しながらメープルを溝から助け出してやったのはいいのだが、その隙にチェリーがチャンス! とばかりにリードを振り切り、猛然と駆け出してしまった。


「チェリー! 待て! こらっ! チェリー!」


 僕らは血相を変えて追いかけた。畦道に危険はないが、すぐ傍の県道にはそれなりの交通量がある。


 僕らは、真っ青になってチェリーを追った。田んぼの畦道を、いい年した大人が全力疾走しているのを目撃した学校帰りの小学生男子が、なぜか一緒に走り出した。


 一瞬、名前が出て来ない。少年が住んでいる家、両親の顔、職業、祖父母の顔、職業まで分かるのに、肝心の名前が出て来ない。


「こらっ! チェリー! 待て! 危ないぞ!」


 しかし、その時は少年の名前を思い出すよりチェリーを追いかける方が先だった。


 少年に笑われながら、僕らは走った。ちなみに、メープルの方が速い。よって、僕はほとんど引きずられているような状態だった。


 走り出したら止まらないのがハスキーの特徴だ……と思っていたのだが、三百メートルほど爆走したところで、我が家のハスキーはへばった。


 大人もへばった。


 小学生男子だけが、元気にはしゃぎ回っていた。


 畦道で伸びているハスキーを無事にお縄にしたのはいいが、僕らはしばらく口が利けないほど疲れていた。


「さすが……さすがシベリアン・ハスキー……」


 切れ切れに、僕は言った。


「やっぱ、暑さに弱い……?」


 汗だくの顔で、ロッキーが頷いた。


「おかげで……助かったわ。道路まで逃げられたら……どうなってたか……」


 ロッキーもまた、ゼーゼー言いながら喋っていた。


 僕らはしばらくその場に留まって息を整えていた。これ以上は特にイベントなし、と判断したらしい。名前が思い出せない小学生男子は早々に引き返していった。


 しかしながら、全力疾走して疲れたし、さあ帰ろう……といかないのがハスキーという犬なのだ。僕らは再びリードを持って畦道を歩き始めた。


「ハスキーにとって、日本の気候は辛いって言うよね。やっぱ、もともとシベリアとかアラスカの犬だから、暑いより寒い方がいいのかな」


 僕はチェリーとメープルを見ながら言った。


「まあ、一応はそういうことになっとるわ。せやけど、熱中症に気をつけてやってさえいたら、飼えないことはないわな。チェリーもメープルも日本生まれやし」


 そして、ロッキーは思わせぶりに僕を見てきた。


「こいつら、たぶんシベリアに行っても生きていけんぞ」


「なんで? 雪で大騒ぎするんじゃないの? 前に雪が積もったときなんか、心電図みたいに飛んだり跳ねたりひっくり返ったり、大変だったじゃないか」


「いやあ……俺には、アスファルトに薄ーく張った氷で、すっ転ぶような犬が、シベリアの氷の上で走り回れるとは思えん」


 僕は笑って返した。


「しかしまあ、こんだけ分厚い毛皮を着てるんだから、確かに夏はつらいだろうね」


 真夏に毛皮。考えただけで汗が滲んでくる。毎日ブラッシングしてやっても、彼らの抜け毛はドッジボール単位で家の床を転がっていく。


 かつてはその毛玉が妖怪のように思えていた僕だが、今では素手で掴んでゴミ箱へ持っていける。


「ハスキーの毛並みは綺麗やけどなあ。まあ、着とく分には暑いやろうなあ」


 ロッキーはのんびりと言っていた。途中、田んぼの傍の井戸でハスキーたちに水を飲ませてやる。


 ちなみに、田んぼと井戸の持ち主も「ええよ、ええよ。好きなだけ飲んで行かせんさい」と言ってくれている。


 おかげで、この給水スポットは我が家の散歩コースになっていた。


 その日は、そこから県道を横切って山に向かい、誰もいない山の中で思い切り二頭を走らせてやった。


 木の葉にたかった毛虫にぞっとしつつ、飛び出してきた蛇で遊ぶ二頭から蛇を救出し、チェリーが倒した祠の前の石を慌てふためいて直し、ロッキーが吸っている煙草の煙を掴まえようとするメープルを微笑ましく思いながら、木に激突したチェリーを心配する。


 そして、人間がそろそろ家に帰ろうと言い出すころにはたいてい日が暮れていて、腹が減ったと訴えるハスキーたちは、ひたすら家路を急ぐのであった。


 僕は、チェリーとメープルの姿を見ているうちに、仮にもし自分の家を持てることになり、今の家を出ることになったとしても、絶対に犬を飼おうと決めていた。


 そして、飼うならば絶対にハスキーだ。彼らといると、かなり大変だが、いろいろ楽しいということを知ってしまっている以上、もうハスキーがいない生活は考えられなかった。


「この先もずっと、犬を飼っていく?」


 僕はロッキーに聞いてみた。


「無理やな」


 あっさりと、ロッキーは答えた。


「ハスキーがいない生活はもう、無理やと思う。物心つくころからうちにはハスキーがおったから」


 僕は笑った。ロッキーも笑った。ハスキーたちは、ひたすら飯を目指して突っ走っていた。談笑しながら帰宅した僕とロッキーを見て、二次元さんが二ヤリとしていた。


 勘弁して欲しい。

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