うちの嫁は、デリカシーが無い
ブリーダーという職業のことを、僕は小百合と結婚するまで、ほとんど何も知らなかった。せいぜい犬のエサのコマーシャルで流されている「トップ・ブリーダーも推薦する」などという謳い文句を聞く程度のことだ。
ブリーダーの意味も知らないのだから、トップ・ブリーダーが推薦することが、犬のエサに、いったいどれほどの付加価値を与えるのか、見当も付かなかった。正直、僕には、犬のエサは缶詰タイプと乾燥タイプの違いくらいしか分からなかった。
「安いエサをあげるとね、ウンチの量がハンパないのよお」
僕が、ちょうど低価格を売りにしているチェーン店の牛丼を食べていた時、妻が答えをくれた。深く考えると牛丼が喉に詰まりそうだったので、無心を貫いた。
「いいエサをあげるとね、その分だけ栄養になるんだと思うんだけど、ウンチの量が少ないんだよねー」
言いながら、妻は缶詰のフタを開け、犬用のガラス食器に入れ始めた。飯の気配を察したらしい。二頭のシベリアン・ハスキーたちが、猛スピードでキッチンに向かって駆けて行く。
おかげで、リビングのコーヒーテーブルで食事をしていた僕の牛丼が、尻尾で払い落とされて床に転がる破目になった。幸い、食べた後だったので、被害は最小限で済んだ。
ハスキーたちは、それぞれが競い合うようにして小百合の前に飛び出くのだが、勢いを付けすぎたせいで雄の方が床の上で滑り、無理やり体勢を整えようとしたせいで、死んだカエルのような姿勢でフローリングに傷を付けまくっていた。
しかし、それでも気持ちが先走るせいか、床が滑るせいか、うまく立ち上がれない。結果的に、テーブルに頭をぶつけ、再び転び、その際に雌を巻き込み、二頭揃ってもんどり打って転んだ挙句、それでもまだ気持ちが先走り、二頭がもつれ合いながら床の上を滑るように進んでいく。
しかしながら、小百合の前に到着した時には見事な「お座り」をキメていた。
「いい子だねえ。はい、ごはんだよお」
一通り、日本全国の犬たちが食事の前にさせられるであろう儀式を終えた後、小百合はハスキーたちに食事を食べさせてやっていた。まるで部活帰りの男子高校生のような旺盛な食欲で、あっという間に缶詰を平らげるハスキーたちを、小百合はまるで自分の子供でも眺めるように、優しく見守っていた。
そんな彼女を、食事の間、一度も省みてもらえることがなかった僕は、ぼんやりと眺めていた。
雄のハスキーは、白と茶色の毛並みで、名をチェリーと言う。一方、雌のハスキーは白と黒の典型的な毛並みで、名をメープル。
チェリーとメープル。桜と楓……。妻の本棚に九十年代に爆発的ヒットを記録したバスケ漫画が、まるで聖書のように飾ってあることとは、きっと関係ない。少なくとも、僕はそう信じている。
チェリーとメープルは、食事を終えると、小百合に礼を言うように彼女の脚に尾を絡ませ、そして僕がいるリビングの方へと戻って来た。そしておもむろに、二頭は毛足の長いカーペットの上で横になると、面倒臭そうな顔をしながらテレビ画面を眺め始めた。ちょうど、ドッグ・フードのコマーシャルを流していた。
やけに真剣な顔でコマーシャルを眺めている二頭の後ろで、サークルに入れられているトイ・プードルのアレクサンドロス、略してレックスが、のろのろと水を飲み始めていた。
元気いっぱいのハスキーたちとは違い、かなりのご高齢であらせられるレックスは、今年で何と十三歳とのこと。人間で言うなら、百歳近い。
よって、レックスは一日の大半をクッションの上で寝て過ごす。そして小百合たちも、レックスをサークルからあまり出さないように気をつけていた。
サークルから出して放し飼いにすれば、家の中とは言え、いつ転んで怪我をするともしれないからだ。
もちろん、ハスキーたちもいる。レックスは、クッションの上から水場まで歩くのにも苦労しているし、食事と排泄の時しか起きてこないため、それは妥当な措置であるように思えた。
水を飲み終えたレックスが、ヨタヨタしながらクッションに戻っていく。そして再び、眠り始めた。微かなイビキが聞こえる。犬もイビキをかくのだと、僕はレックスから教えられた。
「レックス、寝ちゃったのお? どうしよう、せっかくご飯を用意したのにー」
小百合は、高齢のレックスのために特別に用意したと思われる食事を手に、困った顔でサークルを眺めていた。スプーンを添えているのは、自分ではうまく食事ができないレックスのために、手を貸してやるためだ。
なぜだが、コーヒーテーブルの上に置いたままの牛丼のカップが、やけに白々しく見える。
「ねえ、食べた後はちゃんと流しに持って行っておいてねー。牛丼って、たまねぎ入ってるし、チェリーたちが食べたらマズイからー」
僕は大人しく従った。従うしかないのだった。
「レックス、ごはんだよー。おいしいよー。起きよう、レックスー」
サークルを開けて、小百合が辛抱強く声をかけていたが、レックスは面倒臭そうに欠伸をするだけで、起き上がる素振りも見せなかった。
高齢になると、犬も食欲が無くなるらしい。僕は晩年の自分の祖父を思い出した。
しかし、それまで鼻先にエサを翳されても、突かれても、くすぐられても起きなかったレックスが、ふいに顔を上げた。
「あ、おとんが帰ってくる」
小百合が、心底楽しそうに窓の向こうに視線を向けた。僕には何も聞こえなかったが、レックスには分かるらしい。ハスキー二頭は無反応でつまらなそうにニュースを眺めていたが、レックスは老いた足に力を入れて立ち上がると、嬉しくて堪らないといった様子でそわそわと動き回り始めた。
待つほども無く、独特のエンジン音が聞こえ始めた。ほらね、と言わんばかりに得意げな顔をした小百合に釣られて、僕もつい笑ってしまう。
義理の父は、いわゆるトラック野郎である。僕にはトラックの何がそんなに魅力なのかよく分からないが、義父は、毎日のように「海の男」だか「西南の風」だか、よく分からない語句が盛大に並べ立てられたトラックをいとおしげに拭いている。
慣れたハンドル捌きで、義理の父が庭にトラックを回し始めると、レックスは待ちきれないとばかりにクンクン鼻を鳴らし始めた。
そしてエンジン音が止まる。庭を歩いていく足音がする。玄関の戸が開く。小百合が出迎えに走っていく。ハスキー二頭が盛大に尻尾を振りながら、付いていく。
リビングのドアが開く。義理の父が顔を見せるころ、高齢のレックスは力尽きていた。
せめて義理の父が顔を見せるまで頑張れよ、と思うのは僕だけだろうか。
一方、ハスキーたちはちゃっかりしたものだ。耳が遠いレックスにさえ聞こえるエンジン音が、歳若い二匹に聞こえていないはずはないというのに、彼らはタイミングを実に良く心得ている。
「おう、帰ったぞお。元気にしとるか? 待ってたか。そうか、そうか、寂しかったか。さあ、来い。さあ、来い。よぉし、よぉし。いい子だ、いい子だ!」
そして義理の父もまた、小百合と同じように、もしかしたら小百合以上に、犬たちを可愛がっていた。仕事から帰るなり、義理の父は全身全霊で喜びを表すちゃっかり者のハスキー二頭を撫でてやり、抱いてやり、構ってやり、労ってやり、ハスキーたちが満足したところで、ようやく僕の方に視線を向けた。
「おう」
以上、お終いである。
「お疲れっす」
僕も、それ以上は言わない。
そして義理の父は、疲れて寝ているレックスのサークルの方に歩み寄っていく。何やら優しげな声をかけながら、壊れ物を扱うような慎重さで撫でてやっていた。
レックスも、小百合が何を言っても起きなかったのに、義父が声をかけると目を覚まして尻尾を振り始める。その時、義父は僕が何も言わなくとも、すべて分かっているのだと、そう思ったのだった。
一通り、帰宅の挨拶が済むと、義理の父はサークル内の掃除を始めた。一方、レックスは満足したように寝息を立て始めていた。
「おとーん、今日はご飯ないよお。大丈夫よねえ?」
キッチンで、レックスの食事にラップをかけながら、小百合が聞いていた。レックスの排泄物を片付けていた、義父が顔をあげる。
「はあ? 聞いとらんぞお」
小百合が困った顔になった。
「ええっ? 何でよお! 今日はさあ、おかんが子供ら連れて友達とファミレス行くけん、おらんって言ったやーんっ! 兄ちゃんのところは泊りがけで遊園地やしぃ、姉ちゃんのところは、やっちゃんの家で法事があるけん、夕方から出るんやってえ。じゃけん、今日はもう人数少ないけん、ごはんは作らんよって言うたやーんっ!」
「そうやったか?」
「そうやったってぇ! もうっ、聞いときぃやぁ!」
義父は笑いながら娘を見ている。小百合はああだこうだと文句を言いながらも、冷蔵庫を開け始めていた。
「今から作るけん、時間かかるよお。先にお風呂入って来ぃやあ」
「おう、分かった、分かった」
そして義父は、悠々とした足取りでリビングを出て行ったのだった。我が家では、こんな光景が毎日のように繰り返されている。
「俺も聞いてなかったって言ったらよかったかな」
小百合が作る焼きうどんの香ばしい匂いを嗅ぎながら、僕はこっそりトラ七世に愚痴を零すのであった。