犬のフンから始まるバイオハザード
例えば、犬のフン。
道端に落ちている犬のフンを見て「汚くない」もしくは一足飛びに「美しい」と絶賛する人は稀であろう。この意見に反対する人は、かなりの変人である可能性が高い。おそらく、そういう人は僕以上に友達がいないはずだ。
それはともかく、道路に犬のフンが落ちていることはそう珍しいことではないが、そのフンの行方を気にしたことがある人は、どのくらいいるだろうか。
道路に落ちている犬のフン。もちろん、飼い主が責任を持って処理しなければならないのは言うまでもないが、世の中には飼い主を持たない犬も多く存在する。野良犬に向かって公衆トイレの必要性を説いても無駄だということは明白であり、結果的に野良犬たちは自分がトイレだと決めたまさにその場所にフンを落としていくものだ。
そこが公園であろうと、学校であろうと、個人宅であろうと関係ない。ついでに言うなら、犬にとっては、どれほど立派な門構えであるかどうかということも関係ない。そこがトイレだと決めれば、犬にとっては、そこがトイレなのである。
当然、大多数の人間にとって犬のフンは汚いと思える分類に入るため、まず最初に触りたくないという感情が沸き起こるのではないだろうか。
しかし、その「汚い」ものをいつまでも残しておくわけにもいかない。よって、フンの主が野良犬であろうが、飼い犬であろうが、無造作に横たわる犬のフンは、いずれ誰かが処理しなければならない運命にある。
世間一般的な意見としては、貧乏くじを引かされた「誰か」が転がっている犬のフンを処理すれば、晴れて道路は再びいつも通りの美しさと秩序を取り戻すということになっている。しかし、僕のような人間にとって、話はそれで終わりではない。
フンが触れていた、その道路。その面積。その時間。僕にとって……あるいは、数少ないであろう僕の同志たちにとっては、それらが問題になってくる。むしろ、フンそのものよりもその後の方が重要であるとさえ言える。
犬だろうが猫だろうが人だろうが、一本のバナナ・タイプ、もしくは一個のボール・タイプ排泄物の中には、それこそ天文学的な数値の細菌が潜んでいる。汚いと思うものには、汚いと思うだけの理由があるのだ。細菌やウィルスは、種類と場合によって、それに触れた生命体に深刻なダメージをもたらすからだ。
それは、誰が何と言おうと科学的な事実だ。
要は、汚いものには触らない方がいいということである。
ここで再び、道路に落ちている犬のフンの話である。道路に落ちている犬のフンは、確実にアスファルトに触れている。大多数の人にはあまり重要視されないが、この「触れている」という事実が、大事なのだ。
たとえ誰かの善意にしろ、義務感にしろ、そこに落ちている犬のフンが処理されて見えなくなったとしても、そのフンが落ちていた道路には、まず間違いなく細菌、ウィルスなどの病原体が確実に残っている。
そこに落ちていた犬のフンが消えてなくなったからと言って、フンが内包していた病原体などは決して消えて無くなったわけではない。人間の目には、何も問題ないように見えるアスファルトだが、実際はフン由来の細菌、ウィルスなどが、べったりと付着している。
もちろん、道路に落ちているのは、犬のフンだけではない。およそ人間が汚いと思う、あらゆるものが落ちている。鳥肌を堪えて具体的な例をあげると、フンを落とすのは犬だけではない。カラス、スズメ、ツバメなどの鳥類もそうだ。
こういった話を友人知人にする度に、たいていの人は欠伸を堪えながら「もっと他に考えることはないのか」などと言ってくる。そして僕は一人、また一人と友人を失っていくわけだが、大半の人にとってどうでもいい事実も、僕にとっては重要な事実なのである。
なぜなら、僕たちは、そんな汚染された道路をほぼ毎日、必ずと言っていいほど使用するからだ。何が落ちていたか分からないし、どんな汚いバイキンが広がっているかも分からない道路を、大勢の人間が使っている。
「カエルの死骸とか、犬のフンが落ちていた道路を歩くことが、そんなに危ないことだとは思わないんだけど」
かつて母からは真顔でそう返されたが、僕は未だにそう思ってはいない。
当然、病原体が広がっている道路の上を人が歩けば、その靴底に付着した菌が、次から次へと拡散されていく。拡散された菌を、また違う人間の靴底が踏み、更に新たな拡散を招く。僕には、それが犬のフンから始まる恐ろしいバイオハザードに思えるのだ。
しかし、母もそうだが、たいていの人は気にしないらしい。犬のフンが落ちていた、まさにその現場を指し示しても、普通の人は指摘されたその瞬間だけ嫌そうな顔をするものの、翌日にはすっかり忘れてしまっている。
地べたに腰を下ろした知人に、半年前、そこで酔っ払いが吐いていたという事実を教えてやっても、軽く眉をしかめてそれで終わりだった。未だに信じられない。
それどころか、僕のことを軟弱者のように言ってくる人もいる。
「そんな小さいことをいちいち気にしていたら、生きていけない」
これは父の意見である。僕の父は、いわゆる昔気質の人というわけでもなく、亭主関白というわけでもなく、一家の家長風を吹かせるというタイプでもなかったのだが、その時ばかりは心底ウンザリしたように頭ごなしにそう言ったものだった。
父に理解されない自分という存在を、中学生時代の僕は心の底から哀れんだ。
しかし、だからと言って不良にはならなかった。なぜなら、僕の時代の不良は、必ず地べたに座って煙草をふかしているイメージだったからだ。不良になると地べたに座らなければならないと思い込んでいた僕は、真面目に中学校を卒業した。
この世に生を受けてから三十二年。トイレに行った後、必ず三回は手洗いしてしまう僕に向かって、いろいろな人がいろいろなことを言ってくるものだ。しかし、僕の考えは変わらなかった。汚いと思ってしまうものは、どうしようもないのだ。
トイレの話をするならば、僕はトイレのドアノブ等に触ることができないタイプだ。もちろん、手を洗う蛇口も、完全オートでなければ辛い。しかしながら僕は立派な社会人であることを誇りに思っているため、トイレのドアが自動ドアでないという理由で、トイレを我慢するほど子供ではない。
ではどうするかと言うと、会社、あるいは出先では、右ポケットに常備している使い捨てタイプのウェット・ティッシュを活躍させるのだ。
トイレ由来の汚れを細かく気にしない人には分かってもらえないことが多いのだが、用を足せば、必ず手にトイレ由来の汚れが付着する。我々は、僕のようなタイプの人間に限らず、社会のマナーとして、その汚れを洗い流すために手を洗うのだが、完全オートでない蛇口の場合、その蛇口を捻った際に、汚れが蛇口に付着する。
そして、どんなに丁寧に手を洗ったとしても、水を止めようとして蛇口に触れれば、トイレ由来の汚れが再び手に戻ってくるということになる。これは、我慢できない事実なのだ。
トイレのドアも同様だ。トイレ由来の汚れが付着した手でドアに触れれば、必然的にドアも汚染される。それも大勢が同じことをすれば、汚染は最早、食い止められないほどに拡散していく。そうやって人間の手を使ってトイレから逃走した病原菌は、家のあちこちで増殖を始めていくのだ。
「だから何だ」
友人からはよく言われる。よく言われるが、僕は続ける。トイレ由来の病原菌は、トイレ由来らしく、おとなしく便器の中でじっとしていて欲しいのだと。
しかし、どんなに真剣な顔で、どんなに切実に訴えても、なかなか理解してくれる人は少ない。そして僕はまた一人、友人を失った。
日々、友人が少なくなっていく僕だが、友人の代わりをペットに求めるということはしなかった。世の中のペットを愛する人々には非常に言い出しにくいのだが、僕のような人間にとって、ペットは脅威であった。
例えば、ペットの犬を散歩に連れて行くとする。最近では、お洋服を着用なさっているオシャレなワンちゃんも多いが、さすがに靴を履いている犬はいない。道路のあちこちを歩いて汚れた足で、家の中を歩き回られると思うと、それだけで我慢ができない。
猫ならば、なおさらだ。好き勝手に外を放浪し、どこで何を触ったか分からない足で家に入られると思うと、頭痛さえしてくる。
おまけに、ペットシーツだか、猫砂だか知らないが、室内にペット用のトイレを置いておくということが、僕には無理だった。ペットはスリッパを履いてはくれないのだ。トイレに裸足で入り、そのまま出てくる。
トイレ由来の病原菌を、きちんとスリッパを履いてトイレに入り、手を洗って出てくる人間でさえ、あれほど気にしてしまう僕だ。ペットのトイレは、完全に理解不能であった。
しかしながら、一切ペットを飼っていなかったと言うと、実はそんなことはなかった。僕は密かにアクアリストを自称している。
アクアリストとは何か。よく聞かれるのだが、要は熱帯魚を飼育しているオーナーのことだ。水槽内のディスプレイ、魚の選択など、拘ればきりが無いほど、アクアリウムの世界は奥深い。
しかし、僕は経済的な事情と、水槽の水替えという現実的な問題に対処するため、高さ、奥行き、幅がそれぞれ二十センチほどの小さな水槽で、トラディショナル・ベタという熱帯魚を一匹だけ飼育していた。
トラディショナル・ベタ。略してトラベタは、美しい姿とは対照的に闘魚としても有名だ。よって、同種の雄もしくは雌とさえも、まず同居できないという孤高の魚である。そういうトラベタの性質と、単純に見た目の美しさ、そして何より飼育しやすいという好条件が重なり、僕はトラベタの飼育を始めた。十年前のことだった。
僕の飼っているベタは、フルムーンと呼ばれる、長い尾鰭が魅力的な種だ。色はサファイアのような青で、水槽内のディスプレイも、青いトラベタに合わせて、ブルー系統の底砂やビー玉などを配置している。
水草、流木など、それなりに拘った。名前は、トラディショナル・ベタなので、そのまま「トラ」にした。
僕のような人間がオーナーであるにも関わらず、トラは日々文句も言わず、与えられた餌を美味そうに食べ、新しく入れてやった水草で休憩し、水替えと水槽の掃除で綺麗になったガラスを嬉しそうに眺めながら毎日を過ごしていた。
結果的に、トラは僕の唯一の親友に認定された。トラは何も言わないが、僕は満足だった。
ところで、犬や猫は駄目なのに、どうして魚は大丈夫なのか。
その理由は簡単である。トラは生きているので、当然、食べたら出す。しかし、トラがいかに排泄物を出そうと、それは水槽の中から決して出て来ない。僕にとっては、ここが何より重要なポイントだった。
排泄物は大人しく水槽の底に沈み、よほどのことが無い限り、浮上してくることはない。すべてが、水槽の中で完結している。僕の世界と、トラのいる水槽の世界は、いい意味でも悪い意味でも、決して交わることはない。病原菌を交換しない。だから、僕はトラを飼うことができた。
もちろん、水替えの時にはそれなりに覚悟して事に当たる。水槽を綺麗に洗った後、その三倍の回数、自分の手も洗うが、綺麗にしてしまえば、それで終わりだ。トラは水槽の中から出て来て部屋を汚すことはないし、僕は僕で、自由気ままなトラを眺めて日々の疲れが癒される。
最高の共生関係だった。
そんな事情があったからこそ、いざ結婚が決まった女性の実家が犬のブリーダーをしていると聞いた時、引きつった顔で、
「金魚にしませんか?」
などと口走ってしまったのだ。弁解のつもりはないが、悪気は無かった。ついでに言うと、なぜ熱帯魚ではなく、金魚を勧めたのかも分からない。
だが、小百合……僕の嫁さんは、砂漠で金魚を見つけたような顔で、しばらく僕が言った言葉の意味を考えていたのだった。
「金魚のブリーダーをやりたいってこと? 相談してみる」
真面目な顔でそう返され、僕はもう、立ち尽くすしかなかった。




