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【パンドラの箱】

任務終了後の足取りは軽い。

人が行き交う都会の街を私は歩いている。


街はいつも通り動いている。

誰も、何も知らない。

私はその流れに紛れるように歩いていた。

仕事が終わったあとの、いつもの感覚。


(任務完了)


頭の中はスッキリしていた。

そんな私の背後から声がした。


「先輩」


振り返るとそこには見知った顔。

後輩スパイのサラだった。


「お疲れ様です」


彼女は軽く手を上げながら近づいてくる。


「今回も早かったですね。もう終わりですか?」


「うん。終わり」


私が短く答えるとサラは少し笑う。


「やっぱりアイリス先輩って別格ですよね」


「別格って何?」


私も少し笑いながら返す。


「だって、周りのスパイだけじゃなくて上層部の人たちも言ってましたよ。

“あの年齢でここまでできるのは異常”って」


「褒めてるのそれ?」


「もちろん褒めてます」


彼女の屈託のない笑顔に私の口元も緩む。


「普通だよ」


私は素っ気なく返すがサラはすぐに首を振る。


「普通の人は、1人で高難易度の任務を達成したり、敵組織を壊滅にまで追い込むなんてできませんよ」


(そんな大したものじゃない)


そう思いながらも、口には出さない。


「先輩は、部隊を率いたりもしてますし、そのうち本当にすごいところまで行くんじゃないですか?」


「どこに?」


「官僚とか政府の中心ですよ」


私は少しだけ笑う。


「向いてないと思うけど」


サラも笑う。


「絶対なれますって」

「私は先輩みたいな下を思いやれる人にトップに立って欲しいですし」


冗談に近い会話だが、ほんの少し本音であることも窺える。

彼女が私を慕ってくれているのも関係しているのだろう。


(期待されている)


(それが当たり前になっている)


しかし、それをネガティブに感じたことはない。

むしろ、嬉しいと思っている。


「じゃあ、もしそうなったらサラには手伝ってもらおうかな」


「もちろんです。一生ついて行きます」


サラは少しだけ目を瞬かせる。


「でもそうなるには、もう少しスパイとして腕を磨かないとね」


「う……。それは反論できない」


いつも通り、冗談混じりのかけ合い。


「そういえば、サラが今やってる任務は順調そう?」


「まぁ……。今のところ問題はありません」


少し歯切れの悪い返答だった。

しかし、私はそれ以上の追求はしなかった。


「何か困ったことがあったらいつでも言ってね。

相談くらいは乗るし」


「わかりました」


同じスパイの仲間とはいえ、別の任務に携わっている以上、話せないことも多いだろうし、あえて触れないのがマナーだ。

それに彼女は優秀なスパイだ。何かあったとしても問題なく対処できるだろう。


これが今の私の日常。

普通ではないかもしれないが、仕事も人間関係も充実しているし、何より誰かの役に立てていることが嬉しかった。

そんな他愛もない会話をしながら私達は帰路に着いた。



部屋の鍵を開け中に入る。

靴を脱いで、部屋に上がるとそこには簡素な空間が広がっていた。


(出世には興味がない)


そう思いながら、上着を椅子にかけて腰を下ろす。

評価されることも、地位も、あまり意味を感じない。

私が必要としているものは、そういうものじゃない。


シャワーを浴びる準備をしながら、今日の任務を思い返す。


(悪いことをしている人間がいて)


(それを止める人間がいて)


それだけでいいはずだ。


水が身体を伝い流れる。

温度が肌に触れて、ようやく呼吸が少し緩む。


つい複雑に考えてしまいがちだが、私は国のために働く。

そこにいる人たちが、安心して過ごせるように。

難しいことじゃない。

正しいことを、正しくやるだけ。


タオルで髪を拭きながら、窓の外を見るとそこにはいつもと変わらない夜があった。

まだ灯りがポツポツとついている。

人々が生活していることを感じる。


(それで十分だと思う)


服を着替えるといつもの自分になれる。

そして、ほんの少しだけ思う。


(今日も、問題はなかった)


明日も早い。

私はそのまま電気を落とし、眠りについた。



朝はいつも通り決まった時間に目が覚める。


カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいた。

布団から出て、軽く伸びをする。

昨日の疲れは残っていない。


顔を洗いながら、鏡を見る。

特に変わったところはない。


(いつも通り)


窓を開けると、朝の空気が入ってくる。

悪くない朝だと思う。

私はいつも通りの手順で支度を済ます。


「今日も一日平和でありますように」


そして私のスパイとしての一日が今日も始まる。



今日は任務も入っていなかったので、スパイ養成学校へ赴いた。

ここは、国が運営するスパイを育成するための学校であり、選ばれた子供達がスパイ訓練生として日々多くのことを学んでいる。

私もこの学校の卒業生だ。

スパイの休日は基本的には自由だが、私はここで在学中のスパイの卵たちと一緒に訓練をしていることが多い。

いつも通り訓練施設に行く途中、廊下を歩いていると何人かの訓練生に声をかけられる。


「アイリスさん、おはようございます」


「アイリスさん、このあと射撃の訓練なんですけど、また見ていただいてもいいですか?」


後輩達も気さくに話しかけてくれる。


「今日は一日オフだから、大丈夫だよ」


ここでの時間は、私にとってもとても居心地の良いものだった。

サラはああ言ってくれたが、将来的には現場を離れて後進の育成をするのも悪くないなと思っていた。



訓練生達との時間を過ごした私は施設を後にした。

帰り道、いつもの道を歩いているとそこにはサラの姿があった。

まるで、誰かを待っているかのようだ。

私はいつものように話しかける。


「お疲れ。サラも仕事終わり?」


「先輩…。今少しお時間いいですか?」


(どうしたんだろう)


サラの表情は、いつもと違い少し浮かない顔をしていた。

その違和感は無視できるものではなかった。

おそらく、彼女も心配をかけまいと取り繕っている部分もあったのだろうが、長い時間を共に過ごした私にはすぐにわかった。

そして、昨日感じた違和感と結びついた。



私達は、いつも仕事で使っているカフェに入り、席に着いた。

なんとも言えない独特な空気が私達の間に流れる中、サラが口を開く、


「本来なら、先輩に相談するようなことじゃないんですが……。」


「別にいいよ。昨日も言ったけど、何でも相談してくれていいから」


「ありがとうございます。まずは、今私が担当してる任務について見てもらいたいものがあるんです」


そう言って、サラは任務で使用するタブレットを差し出した。

私は、そこに表示された資料に目を通す。

そこに記載されていたのは、ある男に関するデータだった。

彼女の任務は、この男の身辺調査だ。

見たところ普通の小さな町工場の社長であり、国家を脅かすような危険性はないと思う。

資料には、ターゲットの事が隅々まで調べられており、彼女の仕事ぶりが見てとれる。


「見た感じ、特に問題ないと思うけどどうしたの?」


「実は……。今日の朝、この男を抹殺しろと本部から指令がありました」


私は驚いた。


「もちろん、スパイである以上命令は絶対です。

ただ、私の調べた限りでは今回の指令に対して少し思うところがあり……」


「……すみません。こんなこと本当は先輩に言うべきではないと分かってはいるのですが…」


彼女の身体は震えていた。

当然のことだろう。

我々は、国家に対して絶対の忠誠を誓っており、国民の生活を影から守る存在だ。

私達が揺らげば、それは国民の平和を脅かすことに繋がる。

それを彼女は十分理解しているからこそ、この発言の意味は大きい。

彼女は人一倍真面目な性格だからこそ、揺れているのだろう。

その眼には、覚悟とほんの少しの動揺が映る。

しかし、スパイにとってそれは命取りだ。


「本来なら、こんなことはあってはならない」


私は重い口を開く。

サラの身体にも緊張が走る。


「ただ……、あなたは真面目で優しいから色々と考えてしまうところがあるのはわかってる」


「それに、国を裏切るような事をするわけがない」


私の発言に少し安心をしたのか、張り詰めた空気が少し和んだ。

彼女の目には少し涙が滲んでいたが、それをぐっと堪えて真っ直ぐ私の顔を見ていた。

正直、疑うことすら許されないと思う反面、大切な後輩を苦しませたくなかった。

私は続けざまに口を開く


「ただ、上がそう判断した以上、何か理由があるのかもしれない」


「サラさえよければ今回の件、私にも少し協力させてくれない?」


私の発言を聞いたサラは慌てて口を開く。


「そんな……先輩に迷惑をかけるわけにはいかないですし、」


「何より勝手な行動をすれば、処罰されるのは先輩ですよ」


彼女が心配する気持ちもわかる。

スパイにとってあり得ないことだし、私は今まで一度も規則を破ったことはないのだから。

しかし、私は国家を信じていた。

必ず納得のいく理由があると思っているし、それが分かればサラも安心して任務を遂行できるだろうと考えていた。


「大丈夫。少し確認するだけだから」


そう言い残し、私は席を立った。


「先輩」


サラは不安そうな表情で見つめていた。

何かを言おうとしているが、言葉が出ない。


「私に任せて」


私はそれだけ言い残し、その場を後にした。

サラを安心させたい。何より国の判断が間違っているはずがない。

その時の私の頭の中にはそれしかなかった。



しかし、後になって気付いた。

その気持ちとは裏腹にこれまでも同じような違和感があったこと。

そのことからは目を逸らしていたこと。

サラのためだと言いながら、その実、自分でも確かめたかったんだと思う。



それは今まで触れてこなかった〝パンドラの箱”。

私は、それに手を伸ばす。


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