第九話:歌う鳥と空躍る音(後)
「そろそろ休憩にしよう」
あれから一時間ほど歩いた後、
透真のそんなひと声で、私たちは近くの岩陰に腰を下ろした。
「ごはんっ♪ごはんっ♪」
透真がお昼の準備をしている様子を、フィンが楽しそうに眺めている。
その姿をくすくす笑いながら見ていると、ふとあることに気がついた。
「……フィン、かゆいの?」
フィンは透真の様子を眺めながら、時折首元を引っ掻いていた。
マフラーからチラッと覗く肌は赤くなっており、そのままにしておくのはあまり良くなさそうだった。
「ん〜」
フィンは曖昧な返事で誤魔化す。
あまり触れてほしくないみたいで、私と目も合わせようとしない。
普段のフィンらしくはないけど、どうしてそういう態度を取るのかは察しがついている。
「フィン。おくすりぬろ…」
「やだあ!」
タタタッ!
大きい声で拒絶したフィンは一目散に透真の後ろに行き、私から身を隠した。
「くさいのでしょっ!やだ!」
「塗ったら痒いのなくなるよ?この間だって…」
「くさかった!!」
そう、ほんの数日前にも同じようなことがあった。
その時は、フィンも気にせず薬を塗らせてくれたけど、塗った直後に「くさいっ!」と言い出して、しばらく拗ねてしまったのだ。
"イヤイヤ"と透真に抱きついて顔を擦り付けるフィンに、三人分のサンドウィッチを作り終えた透真が困ったように笑っている。
「フィン、音凪に塗ってもらいな」
透真はそう諭しながら手を拭いて、フィンの頭を撫でる。
フィンはすっと透真の顔を見上げて、
"裏切るの?"と言わんばかりの絶望を顔に滲ませていた。
そんなフィンの顔を見て、透真が一瞬吹き出しそうになっていたのを私は見逃さなかった。
(確かに、つい笑っちゃうくらいかわいいけど……)
なんとか堪えた透真は、表情を引き締め直して続けた。
「あのな、今は痒いだけかもしれない。けど放っておけば痛くなって、その内とんでもない病気になったりするかもしれないぞ?」
「……とんでもない病気って?」
フィンは興味を持ったのか、上目遣いでおずおずと尋ねる。
透真は「そうだな……」と、一瞬だけ考えるような仕草をして、
「例えば、手足がドロドロに溶けるとか」
両手をぶらぶらと、小さく揺らした。
「どっ、どろどろ?!」
フィンは透真からバッ!と体を離すと、青い顔で自分の手をまじまじと見つめた。
「ゔ〜っ……」
大きな目をギュッと瞑って唸るフィン。
一拍あと、
ガックシ。と音が付きそうなくらいに、大きく肩を落とした。
トボトボと、私の元にやってくる。
「ネナ……おねがぁい……」
マフラーをそっと外して、目と口を横に結んでいるフィンに、
「えらいね、フィン」
と声をかけて、薬を塗ってあげた。
***
昼食を終えて、少し休憩したあと。
私たちは片付けをしながら、再出発の準備を整えていた。
——だけど。
「むぅ……」
不満気に声を漏らすのは——フィン。
岩壁に身を預けて座り込み、一人頬を膨らませている。
昼食中、「くさい〜!」と言いながらサンドウィッチを食べていたフィン。
大好きなご飯を美味しく食べることができなくて、完全に拗ねてしまった。
せめてご飯を食べてから塗ってあげればよかったと、鼻を抑えながら食べるフィンに申し訳なく、すぐに謝ったけれど……
バチッ。
フィンと目が合った。
……ぷいっ。
目を逸らされてしまった。
首を大きく逸らして、口をギュッと結んだまま、一切こっちを見ようとしないフィン。
先ほどから、ずっとこの調子だ。
透真とふたり、
"どうしたものか……"
と、顔を見合わせる。
「……あっ」
ふと、あることを思いついた。
私はホルダーに差してある傘を抜き、小走りで岩壁から距離を取る。
「フィン!」
私の大きな声に、フィンはビクッと体を震わせた。
そして、不満気な顔のまま、こちらをゆっくりと振り向いた。
フィンに向かって大きく手を振り、「見ててね〜!」と声を上げる。
フィンはムスッとした顔をやめて、不思議そうに目をぱちくりと瞬きをした。
透真も不思議そうに私の様子を見ている。
(よし……!)
フィンの視線がこちらに向いたのを確かめて、
私は岩壁に向かって駆け出した。
「えっ? 音凪?!」
透真の驚く声が聞こえた。
けれど、私は減速せずに疾走する。
そのままの勢いで、岩壁目前——
タンッ!!
私は地面を強く蹴った。
「!」
フィンが大きな瞳をまん丸にして、食い入るように私を見つめる。
私はほぼ垂直の壁をタタタタタッと、まるで忍者のように駆け登る。
岩壁の半分を超えたとき、
上半身を捻って、岩肌を蹴り飛ばした。
瞬間——
私の体は、宙に舞った。
「音凪!」
胸の奥が浮くような感覚。
落下が始まる前に、すかさず傘を空に向かって突き上げる。
傘は私の意思に合わせて、その身をバッと広げた。
紺色の布地に描かれた銀の蔦が、陽の光を受けてきらめいた。
峡谷の風はタイミングを見計らったかのように穏やかで、柔らかい風が肌を撫でる。
まるで、この空と一つになったかのような心地よさが身を包んだ。
傘が空気を抱えて、私の体はゆっくりと下降した。
その間、傘の上部では、
反射した銀の光が、まるで雨のように零れていた。
スタッ……。
「どうだった……かな? 空を飛んでるみたいに見えた?」
地に降りてすぐ、私はフィンの方を振り返った。
——ぽふんっ!
腰回りに感じた、柔らかな衝撃。
「ネナ、すごーーいっ!」
いつの間に近づいていたのだろう。
私の腰に抱きついたフィンが、目をきらきらさせて私を見上げていた。
(よかった……。機嫌、よくなったみたい)
私は抱きついている小さな体を抱きしめ、ふわふわの頭を優しく撫でた。
少し離れた場所にいた透真が寄ってくる。
「突然、何をするのかと思ったけど……よかったな」
優しく目元を緩ませて微笑む透真。
私も笑って大きく頷いて、腕の中のフィンを見つめた。
フィンは目が合うとにぱっと笑って、
私からサッと離れた。
そのまま、岩壁の方に駆け出して、
「ぼくもさっきのやってみたーい!」
両手を大きく広げた。
フィンの右手には、マフラー。
空に高く掲げられたマフラーの端は、ゆらゆらと風に靡いている。
ふっと、
風が止んだ。
瞬間——
ブォオオオオ!!!!
峡谷の空気が爆ぜた。
「わ」
「わああ!」
あまりの風の強さに髪が暴れ、咄嗟に顔を庇った。
(すごい風……)
砂と髪を避けるように薄目で辺りを見る。
フィンは両腕で顔を庇っていた。
右手に持つマフラーが、バタバタと激しく揺れている。
——ッ!
ふと、風を切るような音がした。
そのとき。
ヒュンッ!!
フィンの上空を、影のような何かが素早く駆け抜けて——
マフラーが、風に攫われていった。
「あはははは!!かぁんたんに獲れちゃった!」
「……ふぅん。随分使い込んでるね。二年……いや、三年かな?」
風が途切れ、峡谷に二人分の声が響き渡った。
愉しそうなその声が聞こえた上空を見上げると、
空に浮かぶ二つの影が、逆光の中、歪んだ輪郭を描いた。
「ぼくのマフラーっ! かえして!!」
フィンの悲痛な叫び声が響いた。
その声はわずかに震えている。
私は上空の影に、目を凝らした。
片方の影の下で、ゆらゆらとフィンのマフラーが揺れている。
やがて、陽が雲に隠れ、
峡谷に落ちる光が、すっと色を失った。
——二つの影の姿が、はっきりと見えた。
「返してほしかったら、ここまで取りに来てみっなさいよぉ〜♪」
そう歌って笑う女の子。
サイドで結んだ銀髪のツインテールが、風に翻り、きらりと光を弾いた。
「あははは!」
陽の光を映したような琥珀色の瞳を、愉しげに細めている。
「あれは羊獣人だね。彼がここまで来れる可能性はないよ、姉さん」
その隣で、女の子を“姉さん”と呼ぶ男の子が、こちらをまじまじと観察していた。
同じ銀の髪に、宝石のように澄んだ蒼碧色の瞳。
十歳前後くらいに見える、二人。
彼らには、はっきりとした共通点があった。
それは——
腕の代わりに生えている、銀の翼。
(……鳥人)
女の子の翼は羽先が広く、自由に遊ぶように大きく広がっている。
比べて、男の子の翼はやや小ぶりで、無駄がない。
バサバサと、しなやかに上下する二対の翼。
陽の光を受けて、わずかに金色を帯びて輝いた。
女の子は、グレーの細い鳥脚で、
フィンのマフラーをしっかりと掴んでいる。
(どうしてこんなことを……?)
そんな疑問は無意味だった。
「お前ら悪ふざけはやめろ! それを返すんだ!」
「だ〜か〜らぁあ、返して欲しけりゃ取りに来なさいってば!」
甲高い声で笑いながら空中をくるくると飛び回る女の子と、それを面白そうに眺めている男の子。
女の子の笑い声が峡谷に反響する。
透真は眉を顰め、私はもどかしさに拳を握った。
——どうしたら、取り返せるの?
「飛んでるのが厄介だな」
透真が苦々しく呟いた。
(飛んでる……空を飛ぶ……)
『空を飛んでるみたいだったでしょう?』
さっきの自分の言葉を思い出し、ハッとした。
「透真っ! 私、できるかもしれない……!」
私は透真にズイッと顔を寄せ、
取り返せるかもしれない期待に目を輝かせた。
「え? ……えっ?!」
「いってくるね」
肩に掛かっているケープを翻す。
制止する透真の声はもう耳に入ってこない。
——上空にいる二人を見据えた。
「なあに〜? お姉ちゃん、何かするつもり?」
「あれは……ここまで来るつもり? 本気?」
ふたりの声が届く。
私はにっこり笑った。
「今——行くよっ!」
追い風に背を押され、地面を踏み込む。
タン、タン、タンッ!
リズムに乗って崖に向かって跳び上がる。
岩壁を駆け上がるたび、風が裂け、砂が舞った。
「え! なになに?!」
「まさか……跳ぶ気?」
驚く声。
その刹那、私は地を蹴り放ち、空へ身を投げた。
「きゃあああ!! 」
女の子は身を縮こませて——ニヤリと笑った。
「……なんて、ね!」
驚くふりをした彼女はすぐに翼を大きく振り下ろす。
風が渦を巻き、彼女の体が舞い上がった。
「あはははは!! お見通しよぉ!
だあって、さっき見てたもの! よゆ〜、よゆ〜♪」
彼女の軽快な歌声の向こうで、私もふふっと笑った。
「ほんとう?」
傘を太陽へ突き上げる。
紺の布地、銀の蔦が陽光を反射した瞬間——
胸の奥がふっと熱を帯びる。
——飛べる。
願いじゃない。
これは——確信だ。
風が、傘を抱き上げた。
「っ…!」
ふわり。
空から手を引かれるように、体が軽くなる。
髪が浮き、鼓動が早まる。
私は——
飛んでいた。
「「?!」」
二人の瞳が、驚きで大きく見開かれる。
「——!」
その一瞬、私は左手をぐんっと伸ばした。
指先が——布に触れた。
「くっ!!」
女の子が右へ体を逸らす。空を切る左手。
「あはは!! ざあんねんだったわねえ!!」
少女から安堵の息がこぼれた、その瞬間——
「姉さん! まだだ!!」
私は傘を風に預け、柄から手を放した。
空に身を委ねるように。風と踊るように。
右手を振り上げる。
指先に伝わる、確かな布の感触。
——マフラーの
温もり。
「っ?!」
少女が目を見張る。マフラーがふっと浮く。
パシィッ!
空中で、傘を左手で掴み直す。
ふわりと風が包み込み、体が浮く。
腕の中には、確かにフィンのマフラーの温もりがあった。
風が止み、空には静けさだけが残った——。
「「……」」
二人は目を見開いたまま、ただ宙に浮いている。
私はゆっくりと地に足を下ろし、フィンの元へと歩いていく。
「フィン、おまたせ」
私は息を弾ませながら、それでも笑ってフィンにマフラーを差し出した。
フィンのわずかに震える小さな両手が、そっとマフラーを掴む。
「……ネナ……ぁりが——っ」
フィンが言葉を詰まらせた。
俯いて、胸を抱えるようにマフラーをギュッと抱きしめる。
その姿に、
"大事なマフラー、取り戻せてよかった"
そう思った——
「ネナが……
ネナが薬塗るって言うからぁっ——!!!」
耳を劈く、悲鳴のような声。
私は、何が起こったのか分からなかった。
「おくすりっ、いやだって言ったのにっ!」
「ごはんもおいしくたべれなかったあっ!!!」
「ぼくの、ぼくのマフラーぁ、取られちゃったあ!!
パ、パパとママのっ まふらぁーがぁ!」
——うわぁあああああん!!!
フィンの目尻から流れる大粒の涙。
ぽたり、ぽたりと乾いた地面を濡らしていく。
(私は……なにを、まちがえたの)
陽が雲に隠れ、谷に影を落とす。
風が止んだ峡谷に、
フィンの泣き叫ぶ声だけが響き渡った……。
第九話
羽ばたきの峡谷-歌う鳥と空躍る音- 完




