①帝都カツ丼事変
霧灰季の帝都は、朝からしとしとと濡れていた。
土砂降りというほどではない。
傘を叩くでもなく、石畳を跳ねるでもなく、細い雨がただ静かに、いつまでも空から垂れ続けている。軒先には雨粒がぷつり、ぷつりと膨らみ、重みに耐えきれなくなるたび、ぽたりと落ちた。
帝都の空は低かった。
晴れた日には青と銀の旗がよく映える官庁街も、今日は灰色の雲に蓋をされている。屋根も、街路樹も、向かいの建物の窓枠も、どこかしっとりと輪郭を鈍らせていた。
こういう日は、街全体が少しだけへにゃる。
宰相府の一角。
かつて書庫だった部屋を改装した執務室で、ツチダ・コウヘイは机の上の書類を一枚めくった。
ぺらり。
いつもより、音が頼りない。
湿気を吸った紙は、手に取るとほんの少しやわらかい。角もぴしっと立たず、積み上げられた書類の山まで、どことなくくたびれて見える。
羽根ペンを走らせても、今日は妙にもったりしていた。
さらさら、ではない。
もそ、もそ。
「……乾けよ、いろいろ」
呟いてみたところで、紙も空気も仕事も乾いてはくれない。
机の左側には、冬播き麦の作付け計画。
右側には、霧灰季の輸送遅延と備蓄状況の報告。
正面には、寒季を前にした農村部の燃料配分案。
窓の外には雨。
どこを見ても、重い。
農家として雨が嫌いなわけではない。
降らなければ困る。作物も土も、水がなければ生きていけない。
だが、なんでも加減というものがある。
何日も陽が差さなければ、洗濯物は乾かない。道はぬかるむ。荷車は遅れる。穀物庫では湿気との戦いが始まり、パン屋は生地と保存に神経を尖らせる。
ついでに人間の身体も、空と一緒に重たくなる。
ツチダは肩をぐるりと回した。
ごき、と小さく鳴る。
「俺まで湿気てきたな……」
こつ。
執務室の扉が鳴った。
それきり、続かない。
普段なら、もう一度くらいは叩くものだ。あるいは返事を待たずに、勢いよく開けてしまう者もいる。
だが今日の音は、扉までたどり着いたところで力を使い果たしたような、ずいぶん弱々しい一打だった。
「どうぞ」
ツチダが声をかける。
扉が、きい、と細く開いた。
「ツチダさぁん……」
隙間から、黒い頭が現れた。
「レイ?」
返事の代わりに、レイは扉をもう少し押し開ける。
いつものレイではなかった。
普段なら、まず声が先に飛んでくる。扉を開ける手にも遠慮がなく、靴音もすたすたと真っ直ぐこちらへ向かってくる。
今日のレイは、全体的にしんなりしていた。
黒髪は湿った空気のせいか、いつもより重たげに肩へ落ちている。背筋はふにゃりと曲がり、腕も力なく垂れていた。
足取りも、ぺた、ぺたと頼りない。
武神。神を斬った少女。
帝国に仇なす者なら、その名を聞いただけで身構える存在。
その武神が今、雨に濡れた野良猫みたいな顔で立っていた。
「どうした。どこか痛いのか?」
「痛くはない……」
「熱は?」
「たぶんない……」
「理の調子は?」
「普通……だと思う……」
レイはそこまで答えると、来客用の長椅子へ向かった。
ぽすん、と腰を下ろす。
そのまま背もたれへ寄りかかり、ずる、ずる、と少しずつ沈んでいく。
最後には、座っているというより、長椅子の上へ流れ出したような格好になった。
「じゃあ、なんなんだ」
「空気が重い……」
「気圧か」
「たぶん……」
レイは半分閉じた目で、のろのろとうなずく。
「ずっと雨だし……空暗いし……身体だるいし……」
「まあ、今日は特に重いな」
「でしょ……?」
「俺も書類が三割くらい重く感じる」
「紙じゃん……」
「その紙が重いんだよ」
「そっか……」
いつもなら、そこでひと笑いするところだ。
だが今日のレイは、ツチダの軽口を受け止めるだけで精一杯らしい。長椅子の背へ頭を預け、窓の外をぼんやり眺めている。
雨粒が、窓ガラスをつう、と伝った。
一本、また一本。
灰色の街並みが、水の筋の向こうでぼやけている。
「それだけか?」
ツチダが尋ねると、レイの眉がへにゃりと下がった。
「あとね……」
「うん」
「朝ごはんのパン、かびてた……」
「……それはへこむな」
「でしょ……」
今まででいちばん力のこもった同意だった。
「端っこに、ちょっとだけ緑のがあって」
「食べる前に気づいたか?」
「気づいた。そこは大丈夫」
「なら、まあ、不幸中の幸いだな」
「でもさ。じゃあ別の食べよって思って、二枚目を出したらね」
「そっちも?」
「そっちも、なんか怪しかった……」
「全部やめとけ」
「やめたよぉ……」
レイは両手で顔を覆った。
「朝からパンに裏切られた……」
「パンに悪気はない」
「悪気なく裏切られるほうがつらい……」
「管理した人間の問題だろ、それは」
「いま犯人捜ししたい気分じゃないの……」
そう言って、レイは長椅子の上でさらに小さく丸まった。
見えないはずの耳があるなら、今はきっと、ぺたりと伏せている。
朝食を食べ損ねたことそのものよりも、長雨と曇天で少しずつ削られていた気力へ、最後の一撃が入ったらしい。
人間、妙なところで折れるものだ。
戦場で何十人に囲まれても折れない者が、かびたパン二枚でしおれることもある。
むしろ、そんなものなのかもしれない。
大きな困難には身構えられる。
剣を持つこともできる。呼吸を整えることもできる。何を守るか、何と戦うかも見える。
けれど、雨が三日続いて、身体がなんとなくだるくて、朝のパンまで食べられなかった。
そういう、剣では斬れない細かい不運は、気づかないうちに人をへにゃへにゃにする。
外では、しとしと。
執務室では、かり、かりと羽根ペンが紙を擦る。
廊下の向こうからは、書類を運ぶ文官たちの足音が聞こえた。遠くで鐘が鳴り、今日も官庁街の時刻を知らせている。
空が灰色でも、帝都は動いている。
市場では今頃、肉屋が庇の下へ商品を並べ、パン屋が湿気に文句を言いながら釜を開けているだろう。卵屋は藁を敷いた箱を積み、八百屋は雨粒を払って根菜を磨く。
雨の日には、雨の日の仕事がある。
そして、へにゃへにゃになった人間には、へにゃへにゃになった日の飯がいる。
「それで?」
ツチダはペンを置いた。
レイが、指の隙間からこちらを見る。
「なに……?」
「パンがかびて、天気が悪くて、身体が重い。それで俺の執務室まで来たんだろ」
「うん……」
「何か用があるんじゃないのか」
レイはしばらく黙った。
それから、顔を覆っていた手をゆっくり下ろす。
「……なんか、元気出るご飯食べたい」
「やっぱりそれか」
「やっぱりじゃないし。ずっとその話してたし」
「半分以上、天気とパンの話だったぞ」
「だから、それで元気なくなったって説明してたの」
「なるほど」
「肉がいい……」
「肉」
「あと、お米……」
「米」
「熱くて、味が濃くて、食べたら、ばーって元気になるやつ……」
「注文が育ち盛りの運動部なんだよなあ」
「育ち盛りの運動部だもん……」
それはそうだった。
十七歳。
剣道部。
身体を動かす量は、元の世界にいた頃とは比べものにならない。
まして今は、武神の力を抱えている。身体そのものが強くなったぶん、必要とする熱量も増えているのだろう。
それに今日は、腹だけの問題ではない。
外は暗く、空気は重い。
朝食には裏切られた。
こういうとき、身体の中へ直接、火を入れるような飯がいる。
ツチダは椅子の背へもたれ、頭の中でいくつかの料理を並べた。
肉。
米。
熱い。
味が濃い。
揚げ物。
甘辛いつゆ。
卵。
白飯。
そこまで揃ったところで、答えはほとんどひとつしかなかった。
「……カツ丼、作るか」
レイの頭が上がった。
ほんの少し前まで長椅子へ溶けかけていた身体が、ぴたりと止まる。
「カツ丼?」
「カツ丼」
ツチダが繰り返す。
見えないはずの耳が、ぴこんと立った気がした。
「作れるの?」
「材料が揃えば」
「揃えよう」
返事が速い。
さっきまでの湿気た声はどこへ行ったのか。レイは長椅子から身体を起こし、両膝へ手を置いて、こちらを真っ直ぐ見ている。
「卵も?」
「乗せる」
「玉ねぎは?」
「煮る」
「つゆ、甘いやつ?」
「甘辛いやつ」
「よし作ろう」
「だから作るって言ってる」
レイは立ち上がった。
まだ少し背中は丸いが、扉から入ってきたときとは明らかに違う。足取りに目的が宿っている。
人間、食べたいものが決まるだけで、ここまで持ち直すものらしい。
「厨房に肉あるかな?」
「たぶん煮込み用か塩漬けだな。脂の具合もわからん」
「じゃあ買いに行こう」
「パン粉もない」
「パン砕けばいいんでしょ?」
「卵もいる」
「買おう」
「玉ねぎ」
「買おう」
「元気になったな」
「まだ。カツ丼食べたら元気になる」
食欲だけが先に回復している。
ツチダは机の上の書類へ目をやった。
冬播き麦。
燃料配分。
輸送遅延。
どれも放ってはおけない。だが、今すぐ自分が椅子に張りついていなければ帝国が倒れるというほどでもない。
少なくとも、昼までなら。
たぶん。
「よし」
ツチダは羽根ペンを置き、乾ききらない書類へ重しを載せた。
「買い出しからだな」
「やったあ」
レイが小さく拳を握る。
そのとき、執務室の扉が二度、規則正しく鳴った。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたクローディアは、片腕に書類の束を抱えていた。
雨に濡れた黒い外套を脱いだばかりなのだろう。金髪の先に、まだ細かな水滴が残っている。
「北部倉庫から、冬季備蓄の再確認が届きました。それと、街道管理局から迂回路の申請が三件」
机の上へ新しい書類を置こうとして、彼女は動きを止めた。
立ち上がっているツチダ。
やけに目の輝きを取り戻したレイ。
そして、片づけられ始めている机。
クローディアの目が細くなる。
「どちらへ?」
「市場」
「市場?」
「カツ丼の材料を買いに」
クローディアは一拍、黙った。
「かつどん?」
聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。
「肉を揚げて、玉ねぎと甘辛いつゆで煮て、卵でとじて、米に乗せる」
「聞いただけで重そうね」
「今は重いのがいいの」
レイが言う。
「空と身体が重いのに?」
「重さには、重さをぶつける」
「武神の戦術理論にしないでちょうだい」
「でも効きそうでしょ?」
「効くかどうかはともかく、あなたが元気になったのはわかるわ」
クローディアはレイを見て、少しだけ口元を緩めた。
「先ほど廊下ですれ違ったときは、今にも床へ沈みそうだったもの」
「パンがかびてたの」
「それは……残念だったわね」
「二枚とも」
「それはだいぶ残念ね」
皇女にまで同情され、レイは深くうなずいた。
クローディアは机の書類を見下ろしたあと、持っていた束を脇へ寄せる。
「市場までなら、私も行きます」
「仕事は?」
「あなたに言われたくありません」
「ごもっとも」
「それに、異国の料理には興味があります。今後、帝都の食文化へ影響する可能性もありますから」
「カツ丼ひとつに立派な理由をつけたな」
「皇族には、外出の理由が要るのです」
「食べたいだけじゃだめなの?」
「それを正式な理由にできるのは、たぶんレイだけよ」
クローディアは廊下へ顔を出し、近くに控えていた侍従へ短く声をかけた。
行き先は中央市場。
昼前には戻る予定。
供回りは最小限。
それだけ伝えると、話はすぐに通った。
皇女と武神と帝国農政顧問が、雨の日に肉と卵を買いに行く。
言葉にすると、ずいぶん妙な一団だった。
「傘、要るよね」
「要るな。肉を濡らしたくない」
「市場、まだやってるかな」
「雨で閉めるような市場なら、帝都百万人の腹は養えないよ」
ツチダは上着を取り、戸口へ向かう。
レイがその後ろについてきた。
さっきまでの足音とは違う。
ぺた、ぺたではなく、すた、すた。
「ツチダさん」
「なんだ」
「カツ、二枚乗せてもいい?」
「まだ肉も買ってないうちから増やすな」
「じゃあ、大きいの一枚」
「交渉するな」
扉を開ける。
廊下の窓の向こうでは、雨がまだ細く降り続いていた。
けれど今は、その灰色の向こうに、湯気の立つ丼が見える気がした。
帝都中央市場は、雨の日でも騒がしかった。
石畳は黒く濡れ、通りの中央を細い水が流れている。荷車が通るたび、車輪が浅い水たまりを踏み、ばしゃりと泥水を跳ね上げた。
通りの両側には、色とりどりの天幕が連なっている。
厚い布を張った肉屋。
軒先から干した香草を吊るす薬草店。
木箱へ根菜を山のように積み上げた八百屋。
籠を抱えた買い物客たちは、傘と傘の間を縫い、濡れた裾を気にしながらも足を止めない。
「雨でも、ずいぶん人いるね」
レイが傘の下から市場を見回した。
「雨だからこそ、今日の飯を買いに来るんだろ」
「帝都の人、真面目だなあ」
「腹は天気に合わせて休んでくれないからな」
ツチダが答える横で、クローディアは通りの端を歩いていた。
供回りは目立たない距離を保っている。
皇女が市場を歩いていると気づいた店主が、何人か腰を伸ばしたが、クローディアは軽く手を上げるだけで先へ進んだ。
いちいち跪かれていては、昼飯が夕飯になる。
「まず肉だな」
「カツ」
「まだ豚肉だ」
「未来のカツ」
「気が早い」
三人は、通りの中ほどにある肉屋へ入った。
屋根の下には、大きな肉の塊がいくつも吊られている。雨の日でも店内は乾いており、塩と脂、それから燻した木の匂いが濃かった。
「いらっしゃい。今日は煮込みかい、焼き物かい」
店主は太い腕を前掛けで拭いながら尋ねた。
「豚の背中側の肉が欲しいです。脂が少し縁に残っていて、筋の少ないところ」
「背肉か。厚切りかい?」
「このくらいで」
ツチダが指で厚みを示す。
店主は一度だけ首をかしげたものの、奥から肉塊を取り出した。
赤身は淡く、外側に白い脂が薄く沿っている。
ツチダは表面を見て、指先で弾力を確かめた。
「うん。これがいい」
「何枚だい?」
ツチダはレイを見た。
レイは真顔で指を三本立てた。
「三人なんだから三枚だろ」
さらにもう一本立つ。
「予備」
「何の予備だ」
「失敗したときの」
「俺の腕を信用しろ」
「味見用でもいいよ」
「目的が透けたな」
結局、少し大きめの肉を三枚と、端の小さな切れを一つ買った。
店主が油紙へ肉を包むのを、レイはじっと見ている。
「その端っこ、どうするの?」
「油の温度を見るのにも使えるし、味見にも使える」
「味見」
「お前が食うとは言ってない」
「でも味見は必要でしょ?」
「真剣な顔をするな」
肉を受け取り、次は八百屋へ向かう。
雨粒を弾く天幕の下には、土のついた根菜や、濃い緑の葉物が並んでいた。
玉ねぎに近い丸い野菜は、帝国でもよく使われる。
煮込み、炒め物、スープ。
寒い季節の食卓には欠かせない。
「大きいやつを二つください」
ツチダが選んだものを持ち上げると、レイが横から覗き込んだ。
「二つも入れるの?」
「全部使うわけじゃない。大きさと水分を見て決める」
「私は多めが好き」
「俺も玉ねぎ多め派だな」
「仲間」
二人がうなずき合う。
クローディアが少し考えてから言った。
「肉が主役なのでは?」
「肉を受け止める玉ねぎも大事なんだよ」
「かつどんは複雑なのね」
「料理の話をツチダさんに振ると、だいたい複雑になるよ」
「お前も食べるときは細かいだろ」
「食べるときは感覚派です」
「便利な立場だなあ」
八百屋の端には、細い葉を束ねた香草も置かれていた。
ツチダは何束か手に取り、葉を揉んで匂いを確かめる。
青臭さ。
少し苦みのある香り。
肉には合いそうだが、求めているものとは違う。
「何を探してるの?」
「三つ葉」
「ああ。カツ丼の上に乗ってるやつ」
「そう」
別の束も確かめる。
やはり違う。
「ない?」
「帝都では見たことないな。近い香草はあるけど、これはちょっと強い」
「イースタシアにはありそう」
「水田の脇とかにな。今度聞いてみるか」
今回は香草を戻した。
無理に代用品を乗せるくらいなら、なくていい。
次の店では、硬く焼かれた白パンを買った。
売れ残りではない。
水分を少なくして焼き上げた、保存用のパンだ。旅人や兵士がスープへ浸して食べるもので、そのまま齧れば歯が負けそうなほど硬い。
レイが指の関節で叩く。
こつこつ、と木片に近い音がした。
「これ、パン?」
「パンだ」
「武器じゃなくて?」
「食料を武器に分類するな」
「投げたら痛そう」
「あとで砕いてパン粉にする」
「砕ける?」
「砕くんだよ」
クローディアも硬いパンを持ち上げ、重さを確かめた。
「兵站用の保存パンと似ていますね」
「たぶん思想は同じだな。水分を減らして日持ちさせる」
「それを、わざわざ細かくして肉へ付けるのですか」
「油を吸って、衣になる」
「保存食がご馳走へ変わるのね」
「使い方次第だよ」
最後は卵だった。
市場の奥、鶏の鳴き声がする一角に、藁を敷いた木箱が並んでいる。
「今朝の卵、ある?」
「もちろんだよ」
卵売りの女は、籠の底から形の揃ったものを選び出した。
殻は白ではなく、薄い褐色をしている。
ツチダは一つずつ持ち、ひびがないかを確かめた。
「六個ください」
「六個?」
レイが反応する。
「一人二個?」
「様子を見ながら使う。予備も込み」
「予備」
「これは料理の予備だ」
「肉のときもそう言ってくれればよかったのに」
「お前の場合は味見に消えるだろ」
「卵も味見できるよ?」
「生で食べるなよ」
その言葉を聞いて、卵売りがぎょっとした顔をした。
「生で食べる人がいるのかい?」
「ああ、いや。元いたところでは、そういう食べ方もあって」
「卵を?」
「ちゃんと管理されたものだけです」
慌てて付け足す。
帝国では、卵は火を通すものだ。
茹でる。
焼く。
スープへ落とす。
生のまま食べるという発想そのものが、ほとんどない。
「今回はちゃんと火を入れるよ」
レイが卵売りへ言った。
「半分くらい?」
「ちゃんと、だ」
「やわらかいほうが美味しいじゃん」
「生じゃなくて、やわらかくだ。そこは両立する」
「さすがツチダさん」
「食の安全まで信頼しろ」
卵を藁ごと籠へ入れてもらい、買い物はほとんど終わった。
米、粉、油、塩、胡椒、砂糖。
そのあたりは宰相府の厨房にある。
あとは醤油と出汁だが、それもツチダが大事にしまっているイースタシア産のものがあった。
少し値は張る。
だが今日は、元気を出すための飯だ。
けちるところではない。
市場を出ようとしたところで、レイが一軒の香辛料店の前で足を止めた。
赤。
黄色。
橙。
濃い緑。
細長い実や、丸く膨らんだ実が、籠ごとに分けられて並んでいる。
「この世界の唐辛子、黄色とかオレンジなんだねえ」
「いや、それは元の世界にもあったろ」
「え!?」
「赤しかないと思ってたのか?」
「だって唐辛子って赤じゃん!」
「赤くなる前は青いのもあるし、品種によって黄色も橙もあるよ」
「知らなかった……」
「食べる専門だからだろ」
「食べる専門にも、知らなくていいことはあるのです」
「今知ったんだから、覚えとけ」
店先には、小さな札が立っていた。
赤辛実。
黄辛実。
橙辛実。
そして、ひときわ鮮やかな青い実。
「青辛実」
ツチダは籠の前で足を止めた。
「本当にブルーなんだ……」
「青って書いてあるじゃん」
「青唐辛子の青は、普通は緑なんだよ」
「この世界では青なんでしょ」
「そうなんだけど、植物として見るとすごいな、これ」
農家の顔になったツチダを置いて、レイは隣の小瓶へ目を移した。
七色の辛実を細かく砕き、層になるよう詰めた瓶だった。
札には、派手な文字でこう書かれている。
ヴェラ輸入品。
虹辛実。
「全種入ってる!!!」
レイの声が市場に響いた。
「買わないぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「カツ丼に合うかもしれないよ?」
「辛さの種類が七つ入ってるだけだ。それは七味唐辛子とは別の思想だ」
「七味ない?」
「な……いとは言い切れない!」
「あるの!?」
「七味唐辛子そのものはない。でも、同じ思想のスパイスなら多分作れる!」
「思想ってなに」
「辛味だけじゃなく、香りと柑橘の抜けと種の食感を組み合わせるんだよ」
「急に早口」
クローディアが虹辛実の瓶を手に取り、光へ透かした。
「見た目は綺麗ですね」
「でしょう、殿下!」
店主がすかさず身を乗り出す。
「ヴェラの商人が申しておりました。旅人はまず目で食べる、と!」
「売る気満々だなあ」
「買おう」
「買わない」
「経費で」
「カツ丼の材料費としては認められない」
「文化研究費」
「制度を悪用するな」
レイは名残惜しそうに瓶を戻した。
けれど視線だけは、虹辛実を追っている。
そのうち買うな、とツチダは思った。
買い物籠には、豚肉、玉ねぎ、硬いパン、卵。
必要なものは揃った。
外へ出ると、雨はまだ降っている。
市場の匂いが濡れた空気へ溶けていた。
肉の脂。
焼きたてのパン。
湿った土。
香草。
辛実。
人の声。
荷車の音。
灰色の空の下でも、帝都の暮らしは色を失っていない。
「よし、戻るか」
「厨房へ?」
「厨房へ」
「すぐ作る?」
「米を炊くところからだ」
「どのくらい?」
ツチダは少し考えた。
三人分。
レイは腹を空かせている。
自分も食べる。
クローディアも、ああ見えてよく動くぶん、意外と食べる。
「……三合くらい炊くか」
「足りる?」
「足りるよ」
このときのツチダは、そう思っていた。
ーーー
宰相府の厨房は、昼前の仕込みで忙しかった。
大鍋からは白い湯気が上がり、刻まれた根菜が木桶に積まれている。竈では煮込みが静かに音を立て、奥では料理人が大きな包丁で肉を切り分けていた。
雨に冷えた外気をまとったまま入ると、火と湯気の温かさが一気に頬へ触れる。
「あったか……」
レイが目を細めた。
「まず外套を脱げ。卵を割る前に袖が入るぞ」
「はーい」
ツチダは買ってきた食材を調理台へ並べた。
豚肉。
玉ねぎ。
卵。
硬く焼かれた保存用の白パン。
厨房の棚から、小麦粉と塩、胡椒、砂糖を借りる。油も十分にある。
そして、最後に自分の保管棚から小さな陶器の瓶を二つ取り出した。
片方は、イースタシア産の発酵調味料。
豆と穀物を仕込み、長い時間をかけて寝かせた、醤油によく似たものだ。
もう片方は、魚と海草を煮出して濃縮した出汁。
どちらも帝都ではまだ珍しく、値段も安くはない。
「それ、いつもの大事にしてるやつ?」
レイが覗き込む。
「そう」
「使うの?」
「使う」
「思い切ったね」
「カツ丼を作るって決めたのに、つゆだけ妥協してどうする」
「おお……」
「今日はちょっと奮発だ」
レイの見えない耳が、また上を向いた気がした。
クローディアは厨房から借りた前掛けを腰へ結び、調理台の向かいへ立った。
「私は何をすればいい?」
「玉ねぎをお願いします。薄めに」
「わかったわ」
クローディアは包丁を手に取ると、玉ねぎの皮を剥き始めた。
動きに迷いがない。
剣と包丁では大きさも重さも違うが、刃物の扱いそのものには慣れている。刃先を寝かせ、幅を揃えて、薄く切っていく。
しゃく、しゃく、しゃく。
「上手いな」
「これでも野営では料理くらいします」
「皇女様も玉ねぎ切るんだ」
「皇女は玉ねぎを切ってはいけないの?」
「いや、なんか目にしみなさそう」
「身分で防げるなら、帝国法に書いておきたいわね」
クローディアが目元を指で拭った。
「しみてる」
「しみます」
ツチダは買ってきた豚肉をまな板へ置いた。
薄桃色の赤身。その縁に、白い脂が細く残っている。
厚みは指一本より少し薄い程度。
火を通しても硬くなりすぎず、噛んだときに肉の厚さを感じられるくらい。
包丁の先で赤身と脂身の境へ切れ目を入れる。
「何してるの?」
「筋切り。ここを切っておかないと、揚げたときに肉が反る」
「へえ」
反対側にも浅く刃を入れる。
肉を傷つけすぎず、筋だけを断つ。
それから包丁の背で表面を軽く叩いた。
とん、とん、とん。
「強く叩かないんだね」
「柔らかくはしたいけど、薄く伸ばしたいわけじゃないからな」
「大きくしたほうがお得じゃない?」
「見た目だけ大きくても腹は膨れない」
「真理だ」
両面へ塩と胡椒を振る。
粒の粗い帝国の塩が、肉の表面で小さく光った。
すぐに馴染ませず、少しだけ置いておく。
その間に、硬いパンを布へ包んだ。
「さて」
ツチダが木槌を持ち上げる。
レイは少し離れた。
「爆発する?」
「しない」
「本当に?」
「パンだぞ」
「武神も人間からできたんだから」
「その理屈で警戒範囲を広げるな」
木槌を振り下ろす。
ごつ。
布の中から、鈍く硬い音が返ってきた。
「硬っ」
「だろ」
もう一度。
ごつ。
ひびが入り、三度目でようやくパンが割れた。
そこからは少しずつ砕いていく。
細かな粉にしすぎない。
粒が残る程度にしておけば、揚げたときに衣へ凹凸ができる。油が入り込み、表面がざくりと仕上がる。
布を開くと、白いパンの欠片が粗い雪のように広がっていた。
レイが一つ摘まむ。
「食べるなよ」
「まだ何もしてない」
「指がしてる」
「ちょっとだけ」
口へ入れた途端、レイの顔が止まった。
ごり。
「硬い」
「だから言ったろ」
「味もしない」
「だから衣にするんだよ」
「このまま食べるものじゃないね」
「旅先ではスープに浸す」
「文明って、工夫だなあ」
「急に大きな話にするな」
小麦粉を浅い皿へ広げる。
別の器へ卵を二つ割り入れ、箸で溶いた。
殻が割れる乾いた音。
とろりと落ちる白身。
濃い黄色の黄身が器の底で揺れ、箸を入れると、白と黄が渦になって混ざっていく。
もう一枚の皿には、砕いたパン。
粉。
卵。
パン粉。
三つの皿が調理台へ並んだ。
「順番があるのね」
クローディアが切り終えた玉ねぎを器へ移しながら言った。
「まず小麦粉。表面の水分を抑えて、卵をつきやすくする」
肉の両面へ薄く粉をまぶす。
余計な粉を軽く落とし、溶き卵へくぐらせる。
卵の膜が、肉をつるりと覆った。
最後にパン粉の上へ置く。
上からもパン粉をかけ、掌で押さえる。
強く潰さず、けれど隙間は残さない。
指先に、乾いた粒と卵の湿り気がまとわりついた。
「ふわっと付けるんだね」
「押し固めすぎると、衣が重たくなる」
「私にもやらせて」
「いいけど、肉を潰すなよ」
「武神だからって、何でも壊すと思わないでほしい」
「昨日、訓練場の木人を三体まとめて壊しただろ」
「あれはちょっと力加減を間違えただけ」
「今日は豚肉一枚だからな」
レイは手を洗い、慎重に二枚目の肉へ粉をまぶした。
動きが妙に遅い。
息まで止めている。
「そこまで慎重じゃなくていい」
「だって壊すなって」
「肉に武神の理を使うな。それだけだ」
「使わないよ」
レイは卵へ肉をくぐらせ、パン粉の上へ置いた。
指先でそっと衣を寄せる。
ぺた。
ぺた。
まるで小動物へ布団をかけるような手つきだった。
「できた」
「うん。上手い」
「でしょ」
少し得意そうに胸を張る。
その顔には、もう執務室で長椅子へ溶けていた面影はほとんどなかった。
大きめの鍋へ油を注ぐ。
透明な油が、ゆらりと底へ広がった。
竈へかけ、火を強める。
しばらくすると、油の表面に細い揺らぎが見え始めた。
ツチダはパン粉をひとつ摘み、油へ落とした。
沈む。
少ししてから、細かな泡をまとって浮き上がってきた。
「まだ低いな」
「温度計ないのにわかるの?」
「音と動きでだいたい」
「農家って揚げ物もできるんだ」
「農家をなんだと思ってる」
少し待つ。
もう一度、パン粉を落とす。
今度は鍋の半ばまで沈んだところで、すぐに泡を立てて浮かび上がった。
ぱちぱち、と小さく油が鳴る。
「よし」
衣をつけた肉を持ち上げ、鍋の縁から静かに滑り込ませる。
次の瞬間。
じゅわああああっ。
厨房の音が、一段大きくなった。
白い衣の縁から無数の泡が吹き上がる。
油の中で肉がわずかに浮き、衣がゆっくりと形を固めていく。
「わあ……」
レイが鍋の前へ寄った。
「近い。跳ねるぞ」
「見たい」
「少し下がって見ろ」
油の音は強く、けれど荒れてはいない。
じゅわじゅわと続く音の中に、ときどきぱちんと高い粒が混じる。
最初は白かった衣が、端から少しずつ色づいていく。
薄い狐色。
さらに熱が入ると、細かな凹凸が黄金色へ変わった。
香りも変わる。
最初は熱い油だけだったものへ、焼けた小麦と卵の匂いが加わる。
その奥から、豚肉の脂が溶けた甘い香りが立ち上がった。
厨房の煮込みや香草の匂いを押し退け、揚げ物の香りが調理台の周りを占領していく。
レイの喉が動いた。
「まだ?」
「まだ」
「色ついたよ?」
「中まで火を通す」
「もう美味しそう」
「美味しそうと食べられるは別だ」
「世の中は厳しい」
肉を裏返す。
ざあ、と泡が広がった。
油に触れていなかった面が沈み、再び勢いよく音を立てる。
クローディアも鍋を覗き込んだ。
「ずいぶん大きな音がするのね」
「衣の水分が油で飛んでる音だ」
「雨の日に、水分を飛ばす料理」
「今日はそういう飯だな」
重たい空気も、湿気た紙も、かびたパンの記憶も。
全部まとめて熱い油で追い払う。
そんな乱暴さが、今日にはちょうどいい。
揚がった一枚を網の上へ移す。
油が細い糸になって落ちた。
衣は全体が均一な黄金色に染まり、表面には細かな角が立っている。
じじ、と小さく音を残しながら、余熱で中へ火が入っていく。
「完成?」
「まだトンカツ」
「これでもう完成でよくない?」
「今日はトンカツじゃなくてカツ丼だ」
レイは網の上の肉から目を離さない。
「一切れくらい」
「だめ」
「味見」
「端肉がある」
「あっちは小さい」
「味見は小さくていいんだよ」
ツチダは残しておいた肉の端へ衣をつけ、油へ落とした。
小さいぶん、すぐに色づく。
揚がったものを網へ取り、少し冷ましてから半分に切った。
衣がざくりと割れる。
断面から、白い湯気がほわりと上がった。
肉の中心は薄い乳白色。
脂は透明に溶け、衣との境目へ光っている。
「ほら」
片方をレイへ渡す。
レイは熱そうに指先を動かしながら、口へ運んだ。
「はふ」
「熱いぞ」
「先に言って」
「今言った」
ざく。
衣が歯の間で鳴る。
そのあとから、肉の柔らかさと脂の甘みが追いかけてくる。
レイの目が丸くなった。
「おいしい」
「塩胡椒だけでもいけるだろ」
「これでもう完成でいい」
「だからカツ丼にするって」
「次はウスターソース作ってね」
「注文が早い」
「あのー、あれ、さらさらして、酸っぱいやつ。本格派じゃないやつ」
「わかってるよ。野菜と果物と香辛料が揃えば、近いものは作れると思う」
「約束ね」
「まず今日のカツ丼を食え」
残りの肉も順番に揚げる。
油の温度が下がりすぎないよう、一度に詰め込まない。
泡の大きさ。
音の高さ。
衣の色。
表面へ浮かぶ油の揺れ。
火の状態を一つずつ確かめながら、三枚とも網へ上げた。
厨房にはもう、揚げ物の匂いが満ちきっていた。
通りかかった料理人が、何人か足を止める。
「それは何の料理です?」
「まだ途中です」
「途中でその匂いですか」
「このあと煮ます」
「揚げたものを?」
「煮ます」
料理人は、理解できないものを見る目をした。
クローディアも少し似た顔をしている。
「せっかく衣をぱりぱりにしたのに、煮てしまうの?」
「全部をふやかすわけじゃない。つゆを吸ったところと、衣が残ったところを一緒に食べる」
「なるほど……?」
「食べればわかる」
揚げたカツを少し休ませる。
すぐに切れば肉汁が流れ出す。落ち着かせれば、中へ戻る。
その間に米を確認した。
蓋を開けると、白い湯気が一気に立ち上る。
ふっくらと炊き上がった米粒が、釜の中でつやつやと光っていた。
木べらを差し込み、底から大きく返す。
湯気に混じって、炊きたての米の甘い匂いが広がる。
「ご飯だ」
レイがすぐに寄ってきた。
「食うなよ」
「見てるだけ」
「さっきも聞いた」
「今日は疑われる日だなあ」
「実績だよ」
鍋へ、イースタシアの出汁を注いだ。
水で少し伸ばし、発酵調味料を加える。
褐色の液体が、透明な出汁へ筋を引いて溶けた。
砂糖を少し。
酒に近い穀物の醸造液も加える。
火にかけると、甘辛い香りが湯気とともに立ち上がった。
「うわ」
レイの声が変わる。
それは、日本人にとって、あまりにもよく知る匂いだった。
醤油に似た発酵の香り。
魚と海草の出汁。
砂糖の甘さ。
湯気の向こうに、蕎麦屋や食堂や家の台所が一瞬だけ重なる。
「懐かしいね」
「ああ」
ツチダも短く答えた。
まったく同じではない。
豆の香りは少し違うし、出汁の魚も海草も、日本のものとは種類が異なる。
それでも、記憶へ届くには十分だった。
クローディアは鍋から上がる湯気を吸い込み、目を細める。
「香りだけなら、先ほどの揚げ物より軽いのね」
「でも味はしっかりしてる」
「甘い香りもするわ」
「米に合うようにしてあるからな」
薄切りにした玉ねぎを鍋へ入れる。
白かった玉ねぎが、つゆの中でゆっくり透き通っていく。
最初は尖っていた匂いが熱でほどけ、甘さへ変わった。
煮すぎない。
形を少し残し、噛めば柔らかい程度。
休ませていたカツへ包丁を入れる。
ざく。
ざく。
衣の割れる乾いた音が、調理台に響く。
肉汁はほとんど流れない。
断面には熱が均一に入り、淡い白の中へ透明な脂が細く光っていた。
レイが、切られていくカツを目で追っている。
「数えてる?」
「数えてないよ」
「じゃあ、何切れ?」
「八」
「数えてるな」
一人分の小鍋へ、玉ねぎとつゆを分ける。
その上へ、切ったカツを並べた。
衣の下側がつゆに触れ、じゅ、と小さく鳴る。
上側はまだ乾いたまま。
卵を二つ、器へ割る。
完全には混ぜない。
黄身と白身が少し残る程度に、箸を数回通す。
「そんなに混ぜないの?」
「全部均一にすると、食感も一つになるからな」
「白いところと黄色いところを残すんだ」
「そう」
鍋のつゆが再び煮立つ。
まず卵の半分を、カツの周りへ流し入れた。
白身が熱で白く固まり、黄身が濃い黄色の筋になって残る。
蓋をして、少し待つ。
帝国では、卵は火を通す。
生の部分を残す食べ方は馴染まない。
だから半熟ではあっても、白身はきちんと固める。
ただし火を入れすぎれば、卵は硬くなり、つゆとの一体感が失われる。
蓋を開け、残りの卵を回しかける。
再び蓋。
火を少し弱める。
「まだ?」
「あと少し」
「さっきからあと少しが長い」
「料理は待つ時間も込みだ」
「剣は振ればすぐ終わるのに」
「だから料理に武神の理屈を持ち込むな」
蓋の縁から、白い湯気が細く漏れる。
甘辛いつゆ。
玉ねぎ。
卵。
油をまとった衣。
豚肉。
それぞれ別だった匂いが、鍋の中で一つになっていく。
ツチダは火を止めた。
蓋を開ける。
湯気が、ふわりと顔を包んだ。
卵は全体に火が入りながら、表面にはまだやわらかな艶が残っている。
黄色と白がカツの上で波打ち、ところどころから黄金色の衣が顔を覗かせていた。
「おお……」
レイが声を漏らす。
丼へ、炊きたての米を盛る。
木べらで押しつけず、空気を含ませるようにふんわりと。
白い米から立つ湯気の上へ、鍋の中身を滑らせる。
つゆを吸った玉ねぎ。
卵に包まれたカツ。
最後に鍋底の汁を少しだけ、米へ染み込ませた。
じわりと褐色が広がる。
三つ葉はないけど、無理に香りの強い帝国の香草を乗せることもしなかった。
今日は、肉と卵と玉ねぎだけでいい。
白い米。
黄金色の衣。
やわらかな卵。
薄く透けた玉ねぎ。
雨の日の灰色を、丼の中だけで全部ひっくり返したような色だった。
ツチダは三つの丼を調理台へ並べた。
「できたぞ」
レイが両手を合わせる。
もう、どこにもへにゃへにゃした様子は残っていなかった。
ーーー
三人は、厨房の隅にある小さな卓を借りた。
窓の外では、雨がまだ細く降り続いている。
しと、しと。
冷たい音とは対照的に、卓の上では三つの丼から白い湯気が立ち上っていた。
白い米。
甘辛いつゆを吸った玉ねぎ。
やわらかな卵。
その下から覗く、黄金色の衣。
レイは椅子へ座るなり、丼を両手で引き寄せた。
「いただきます!」
「熱いから気をつけろよ」
「わかってる」
返事とほとんど同時に、匙が卵の中へ入った。
やわらかな表面が割れ、その下からカツと玉ねぎ、つゆの染みた米が一緒に持ち上がる。
衣の上側にはまだ乾いた角が残り、下側は褐色のつゆを吸ってしっとりしている。
レイは大きく口を開けた。
「あふっ」
「だから熱いって」
「ふぁってる……」
頬を膨らませたまま、口の中で必死に冷ましている。
それでも匙を戻す気はないらしい。
ひと噛み。
ふた噛み。
レイの目が大きく開いた。
甘辛いつゆが、最初に舌へ広がる。
卵のやわらかさ。
発酵調味料の香り。
魚と海草の出汁。
その奥から、豚肉の脂の甘みが追いかけてきた。
つゆを吸った衣はふわりとほどけるが、噛めばところどころに、ざくりとした歯触りが残っている。
厚い肉から出た汁を、白い米が受け止める。
透き通った玉ねぎは、形を残しながらもやわらかく、噛むたびに甘みをほどいた。
「うま……」
レイが呟く。
そして、すぐにもう一口。
今度はさっきより大きい。
「うまい!」
「飲み込んでから喋れ」
「だって、うまい!」
「それはよかった」
「肉がざくってして、でも下のところはつゆで柔らかくて、卵がふわってして、ご飯が全部吸ってる!」
「だいたいカツ丼の説明だな」
「そのカツ丼がうまいって言ってるの!」
匙が止まらない。
はふ。
もぐ。
はふ。
もぐ。
さっきまで長椅子へ流れ出していた少女が、今は丼の中身を凄まじい勢いで減らしている。
食欲だけが先に戻ったと思っていたが、身体のほうも着実に追いついているらしい。
ツチダも自分の丼へ匙を入れた。
カツは少し厚めに切ってある。
衣はもう完全なぱりぱりではない。
だが、それでいい。
つゆを吸ってやわらかくなったところ。
まだ油の香ばしさが残っているところ。
卵に包まれたところ。
それらを米と一緒に口へ運ぶ。
イースタシアの発酵調味料は、日本の醤油より豆の香りが少し強い。
出汁に使われた魚も海草も、記憶にあるものとは違う。
甘さも、故郷で食べていたカツ丼よりわずかに丸い。
まったく同じではない。
それでも、噛めば噛むほど、これは間違いなくカツ丼だった。
遠い土地で、違う材料を使いながら、同じところへたどり着いた味。
「……うん」
ツチダは小さくうなずいた。
「ちゃんとカツ丼だ」
向かいでは、クローディアがまず卵と玉ねぎだけを匙ですくっていた。
慎重に口へ運び、味を確かめる。
次は、カツと米を一緒に。
二口目までの間は短かった。
「どう?」
レイが尋ねる。
「美味しいわ」
「でしょ!」
「お前が作ったみたいに言うな」
「パン粉つけたもん」
「一枚だけだろ」
クローディアはもう一口食べ、丼の中を見下ろした。
「揚げた衣を煮ると聞いたときは、少しもったいないと思ったけれど」
「けれど?」
「このやわらかさは、煮なければ出ないのね。それに、完全に衣が消えているわけでもない」
「全部ふやかすと、ただ重くなるからな」
「つゆの染みた米も良いわ。肉だけを食べる料理ではないのね」
「上も下も一緒に食べて完成する」
「一つの器の中で、全部が役割を持っているのね」
「帝国の人、そういうの好きそう」
レイが言った。
「整ってて、無駄がなくて」
「料理へ制度の話を持ち込まないでちょうだい」
「でも、丼一個で肉と卵と玉ねぎとご飯が食べられるよ?」
「携行食ではありません」
「蓋をつけたら運べそう」
「やめろ。軍用カツ丼が始まる」
帝国なら、本当に保温容器と輸送可能時間の検討を始めかねない。
ツチダが釘を刺すと、レイは笑いながらまた匙を動かした。
しばらくは、食器の触れ合う音だけが続いた。
匙が丼を軽く擦る。
衣が歯の間で鳴る。
熱いものを冷ます息が、ときどき湯気を揺らす。
半分ほど食べたところで、レイがふと思い出したように顔を上げた。
「……やっぱり、虹辛実買おうかな」
「まだ引きずってたのか」
「だって、全種入ってるんだよ?」
「それ、味の保証にはなってないからな」
「でも、かけたらもっと元気出そう」
「まずそのまま食え。味を足すのは二杯目からだ」
「二杯目あるの?」
「そこに反応するのか」
レイの視線が、一瞬だけ米の釜へ向いた。
ツチダは見なかったことにした。
クローディアは最初こそゆっくり食べていたが、いつの間にか匙の進みが速くなっている。
細身だから食が細く見えるものの、騎士として鍛え、日々の公務でも動き回っている。
食べるときは、案外しっかり食べる。
「クローディア、米を足すか?」
「いただくわ」
「即答だ」
「このつゆだけでも、ご飯が進みます」
「わかる!」
レイも空になりかけた丼を持ち上げた。
「私も」
「お前はまず、一杯目を飲み込め」
釜を開ける。
まだ米は残っている。
最初の丼へ盛りすぎないようにしたつもりだったが、二人の食べる勢いを見るかぎり、正解だったらしい。
小鍋の底には、卵と玉ねぎ、それから甘辛いつゆがまだ少し残っていた。
衣の欠片。
切り分けたときに出た小さな肉の端。
見た目は最初の一杯ほど整ってはいない。
だが、飯にかけるには十分だ。
ツチダは二人の丼へ米をよそい、鍋の残りを分けた。
自分の分も少し。
二杯目は、カツ丼というより、カツ丼の名残を余さず食べるための追い飯になった。
つゆを吸った卵と玉ねぎが、白い米へ絡む。
「一杯目より雑だね」
「鍋の最後だからな」
「でも、こっちもおいしい」
「最後は全部の味が混ざってるからな」
レイは夢中で匙を動かす。
クローディアも、言葉少なに米を口へ運んでいた。
雨はまだ降っている。
空が明るくなったわけでもない。
気圧が上がったわけでも、湿った書類が乾いたわけでもなかった。
それでも、厨房の火と温かい丼は、灰色だった一日へ少しずつ色を戻していく。
やがて、レイが最後の米粒を集めて口へ運んだ。
「ごちそうさまでした!」
「はい、お粗末さま」
「うめー! 元気出た!」
「それは見ればわかる」
背筋は伸びている。
目にも光が戻っていた。
執務室の長椅子へ溶けていた武神は、もうどこにもいない。
クローディアも匙を置き、満足そうに息をついた。
「身体が温まりました。雨の日に向いた料理ですね」
「重さには、重さをぶつける」
レイが得意げに言う。
「認めたくないけれど、今回は正しかったようね」
ツチダは空になった丼を重ね、それから米の釜を覗いた。
底が見えた。
「……なくなったな」
「なくなったわね」
クローディアも中を覗き込む。
「え、ほんとだ」
レイが横から顔を出した。
「ほんとだ、じゃない。三合炊いたんだぞ」
「三人いたし」
「一人一合で済んだ顔をするな」
「クローディアもおかわりしたよ?」
「あなたは二回しました」
「二回目は小さかったもん」
「普通の一膳でした」
「見てたの?」
「隣にいましたから」
ツチダは釜の底を木べらで確かめた。
米粒が数粒、へばりついているだけだった。
カツもない。
玉ねぎも卵もない。
味見用の端肉まで、とっくに消えている。
見事な完食だった。
「まあ、食欲が戻ったならいいか」
「戻ったというか、もともとあったよ」
「朝から何も食べてなかっただけだろ」
「あと低気圧」
「それもカツ丼で治るのか?」
「治った気がする」
「気圧は変わってないぞ」
「私が変わった」
レイはそう言って、空になった丼を満足そうに撫でた。
外では相変わらず、雨がしとしと降っている。
午後になれば、また仕事と稽古が待っている。
それでも、腹の中には熱がある。
ならば、少しくらいはやっていける。
ツチダが食器を片づけようと立ち上がったところで、レイが顔を上げた。
「よーっし!」
ぐぐっと伸びをして、一言。
「今日の晩ごはんは?」




