道の前のため息
着替えもせず、ベッドに倒れ込んだ。ただ…体を任せただけだった。
筋肉がまだ痛んでいた。まるでゴブリンとの戦いが、ほんの数分前だったかのように。
傷はもう消えていたけれど、あの痛みの記憶だけは、鮮明に残っていた。
鉈の刃の感触、震える脚、熱い血のぬるりとした感覚――
すべてが、あまりにも現実的だった。
そして、たぶんそれが一番怖かった。
目を閉じると、苦い囁きのような思考が頭をよぎった。
もし、眠ってしまったら、すべて消えてしまうんじゃないか?
もし目を開けたら、あの世界に戻っていたら?
そこには交通渋滞があって、安いカフェがあって、鼻水を拭いてあげながら「せんせー」と呼んでくる子どもたちがいて。
喧嘩せずに遊ぶ方法を教える日々。
歩けない大人たちがいて、ただ少し話を聞くだけで微笑んでくれた。
私の唯一の「力」は、忍耐強くあることだった――
それが今では、ロテリアのカードで木を召喚できる世界にいるなんて。
これって、本当に現実なの?
私は自分自身を抱きしめた。暗闇の中で。
毛布はぬくもりを残していた。
宿屋がきしみ、廊下を誰かが歩く音がした。
すべてが、とても普通で――でも同時に、夢のように感じた。
やがて、眠りが私を連れていった。
目が覚めた。
太陽も、時計も、アラームも必要なかった。
静かに目を開いた時、私は分かった。今は――朝六時。
論理じゃなく、習慣がそう告げていた。
体が覚えていた。
私はベッドに座り、周囲を見渡した。
あの麻袋はまだそこにあった。
まるで解かれぬ秘密のように。
新しい服が、丁寧に畳まれて待っていた。
ゆっくりと着替える。動きはゆっくり、けれど正確に。
シンプルなズボン、身体に馴染むシャツ、暗色のベスト。
冒険者にも、貴族にも見えない。
ただの普通の女の子。
大勢の中の、一人。
――宿屋での最後の日。
そう。前もって数日分しか払っていなかった。
ここに留まるつもりは、なかったし――できなかった。
私は荷物をまとめた。
魔導カード、布に包んだ鉈、少しの小銭が入った小さな袋、そしてまだ開かない麻袋。
階段を静かに下りる。
一歩ごとに、床がきしんだ。
宿の女将――ふくよかで優しい目をした女性が、玄関を掃いていた。
その娘が、カウンターのそばでボロボロの人形と遊んでいた。
「もう行くのかい、エリザベス?」
女将が優しく微笑んで言った。
「はい。今日から……新しいことを始めます、たぶん」
私は、できるだけ本気に見えるように笑った。
女の子が、小さな手でバイバイしてくれた。
私はしゃがんで、そっと髪をくしゃっと撫でた。
「ありがとう、冒険者のおねえちゃん」
か細い声で、そう言ってくれた。
その言葉が、胸に刺さった。
何も言えなかった。ただ、うなずくだけ。
……この先に何があるのか分からない。でも、もう迷っていられない。
もう、立ち止まっているわけにはいかない。
この世界は、私が止まっても、待ってはくれない。
私は静かに宿を出た。
でも、心は戦いに向かうように高鳴っていた。
朝の空気は冷たく澄んでいた。
石畳の街には、まだ霧が残っていた。
町が、目覚め始めていた。
そして私は――
ロテリアのカードと、少し錆び始めた鉈、開かない袋、答えよりも多い疑問を抱えて……
……自分の道を、歩き始めた。




