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39 どうぞご心配なく

 途中で人に見咎められることもなく、東宮との待ち合わせ場所となる井戸に辿り着いた。

 近くの木陰から東宮がひとりで出てきた。


「無事に来たようだな。行こうか」


 押し殺した声音で告げた東宮は、濃い色をした動きやすい狩衣姿だった。

 三人とも大内裏の近辺までは言葉少なく徒歩で向かう。時折、晴明のかすかな鼻歌が風に乗って聞こえてきたぐらいだ。

 都を南下し、二条から三条まで来ると、なんとなく気が緩まる。

 ぼんやりとした月が辺りを照らしていた。

 前を歩いていた東宮が、松緒の隣にやってきた。

 

「疲れていないか」

「このぐらい平気です。東宮さまこそ馬に乗らなくてよいのですか?」


 高貴な男は、自ら地に足をつけて歩くことを好まない。都での移動はもっぱら馬か、牛車なのだ。それなのに、こうもひょこひょこ気軽に歩いているのだから、つくづく変わり者の東宮だと松緒は思った。


「忍んでいくなら徒歩かちが相場だろう。馬だと小回りが利かない。それに、おれは自分の筋力を信じている」

「筋力」

「腕でも触ってみるか」

「結構です」


 東宮の足取りには迷いがなかった。


「……もしかして、こういう夜歩きに慣れていらっしゃるのですか」

「そうだな。……あっ、女人通いのためではないぞ! 主上おかみからの頼まれごとを果たすために出ることが多いのだ。直で目で見て、耳で聞いたほうがわかることもあるからな、そうしている」


 ところで、と話題の矛先が別に向かう。


「今宵は……よく後宮を抜けられたな」

「それは、晴明はるあきら殿にもご助力いただけましたから」


 普段から猫を追い回している野良陰陽師は、大内裏や後宮にある人が少ない抜け道を知り尽くしていたためか、まったく人に会わずに後宮を抜け出せたのだ。


「そのこともだが。危険を顧みないそなたの勇敢さのことも言っている。正直、実際に来るかは半信半疑だったが……」

「嘘の約束は最初からしません。来ると言ったら来るのです。姫様の手がかりも見つかるかもしれないというのに、待っているだけなどできません」

「そうだったな。松緒にとってかぐや姫が一番なんだろうな」

「当たり前ではありませんか」

「……かぐや姫が羨ましい」


 ぼそり、と告げた後、はっと気まずそうに視線を逸らした東宮。


――どういう意味かしら。


 なんとなく、聞けず仕舞いになる。

 六条まで下ると、松緒の記憶を頼りに、かつてかぐや姫と松緒が暮らした大納言家の別宅へ向かう。

 そもそも六条の別宅は、桃園大納言がひそかにかぐや姫を育てるために購入した邸宅だ。松緒や相模も三年ほど前まで暮らしていたのだ。

 だが、かぐや姫への夜這い事件が発生した。

 大事には至らなかったものの、警戒した大納言は娘を本宅である桃園第に移すことに決め、六条の別宅は売り払われた。

 今の邸宅よりよほど思い出深い場所ではあるが、引っ越しして以来、六条の別宅へ行くのは初めてだった。

 もうそろそろ六条の邸宅へ辿り着こうとした時。頬に冷たいものが当たった。

 ぱらぱらと雨が降ってきた。


「しまったな。蓑も笠も持ってきていないぞ」

「問題ございませんヨ。大ぶりにはなりませんヨ」


 陰陽師が言う通り、たしかに雨足はそれ以上激しくならなかったし、月明りはいまだ道をわずかに照らしていた。

 そして。松緒はとうとうそこに辿り着いたのだけれど。


「ここ……のはず、なのですが」


 門からのぞきこんだ先は、廃屋だった。そうとしか言えなかった。人が入らず、手入れされていない草木が生い茂り、以前は手入れされていたはずの池は見る影もなく。檜皮葺ひわだぶきの屋根は傾いているように見えた。敷地に入るのでさえ、草を踏みしめてあるかなければならない。

 さくさくさく、と松緒は主殿のある辺りへ足を向けて歩く。

 かすかにことの音が聞こえてきた。決まった曲ではなく、心の赴くままに、優しく弾き語りをしているような。

 おいでなさい。そう言われている気がした。


「ああ……! ああ……!」

「松緒!」


 東宮の伸ばした手は、松緒の手を掴むことなく、するりと空振りした。

 背の高い草が生えていた。

 薄暗闇の中では、脇目を振らず駆ける松緒の姿などあっという間に消えてなくなる。

 足が泥だらけで傷がつこうとも気にならなかった。

 松緒は、その人の奏でる音色だけはわかるのだ。

 逢いたかった、逢いたかった、逢いたかった……!

 松緒は、主殿まで辿り着く。きざはしを上がり、妻戸に手をかけたところで。


「だから言っただろうに。『姫様のことはどうぞご心配なく』と」


 ため息交じりの声とともに、視界は闇に包まれたのだった。



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