6 聖職者の腐敗(1)
「エペー、そこから出るんじゃねぇぞ」
永久の闇の緋き檻の中に置いたままのリュックに向けて小声で告げる。さすがに、聖職者に邪神を見られるのはまずいだろう。
返事はなかったが、閉じられたリュックからは虹色なんてちっとも見えない。それがエペーの答えに違いなかった。
「五分で片をつけるですよ、セルペンス」
「御意」
己の後ろに立つ黒の聖者の言葉に、女騎士は恭しく一礼する。その様子を見て、ラズトラウトが憎々しげな様子で剣を構えた。
「セルペンス……黒の勇者の名前だな。勇者は聖者の剣であり盾、教会が有する最高戦力だ。まさか、教会側の人間にまで目の敵にされるとは。黄の聖者様は、この旅路を祝福してくれたはずなんだけど」
「あー……いや、あの爺さんにも結構嫌われてたぜ?」
黄の領域を発つ少し前、ラウラス帝国の皇城で黄の聖者クピディタースと謁見したことを思い出す。あのジジイは聞こえのいいことを言っていたが、本音はまったく逆だった。皇帝に対してさえ悪感情を持っていたのだ、アレと同類である黒の聖者が敵意むき出しであっても驚きはない。
「まあいいや。あっちがその気なら倒すだけだ。どうせ逃がしちゃもらえないだろうし、カティーシスを狩るまで黒の領域から逃げるわけにもいかねぇからな」
黄の領域を後にした時点ですでに教会が敵だったというのなら、ここで黒の聖者から逃げたって意味はない。新たな領域に行ったときに、そこの聖者にも狙われるのだろうから。
どうせ祐理達だってロゴスにいい感情は抱いていない。神の威光を地に落として神殺しを望むのだから、聖職者と戦うのなんて今さらだろう。
「安寧告げる断罪の歌」
祐理はギロチンの刃だけ具現化させる。剣にも盾にも、あるいは鈍器にもなる巨大な刃。それを構える祐理を見て、テンペランティアは興味深そうに小首をかしげた。
「へえ。本当に“狩人”みたいな真似をするですね。魔女狩りの武器の召喚は、印術では再現不可能だったはずですが……一体どういう手品ですか?」
「さあな。俺もよくわかってねぇし」
エペーが異端となり、ロゴスが正統となった今、エペーを信奉する者達の使う業が見慣れないものとなるのも当然の流れだろう。書の力の原理など祐理自身も知らないが、詩守りの一族――――母の血に起因するものであることは明白だ。
「ラズさん、勇者と聖者ってやっぱり強いのか?」
「もちろん。どちらも神に認められた存在だからね。聖者の加護の力は支援面でも攻撃面でも無視できないし、聖者の護衛である勇者の力は言わずもがな。只人では太刀打ちできないだろう。……でも、彼女達は人間だ。力を纏え」
そこに活路があると言いたげな様子で、ラズトラウトは静かに告げる。確かにその通りだ。たとえ強くても、人間の範疇を越えないというのなら――――魔女と比べれば、格段に弱い。
ラズトラウトと交わした言葉は短い。けれどそれ以上は必要なかった。祐理とラズトラウトはほとんど同時に駆け出す。祐理は右から、ラズトラウトは左から。赤みを帯びた剣と刃がセルペンスめがけて振り下ろされる。
「セル、十二時の方角に退避! ――無礼者!」
「焼き尽くせ!」
ラズトラウトが剣を薙ぐと、燃え盛る炎の軌跡がセルペンスめがけて飛んでいく。けれどそれより一瞬早く、テンペランティアの号令が飛んだ。
テンペランティアの指示通り、セルペンスは対の刃を抜けていった。祐理の刃も空を切り、炎は不可視の壁に阻まれる。標的を捉えられずバランスを崩した祐理に、すかさずセルペンスがカウンターを食らわせる。しかしそれは割って入ってきたラズトラウトに防がれた。
(あの聖者、こっちの攻撃を先読みしてる感じがするんだよな)
ラズトラウトの背に庇われた祐理は、前ががら空きになったテンペランティアを盗み見た。
今の位置関係は、セルペンス、ラズトラウト、祐理、テンペランティアとほぼ一直線に並んでいる。護衛はかなり前のほうに飛び出たわけだが、黒の聖者は余裕そうな表情だった。
(攻撃が当たらない自信があるからか? 確かに先読みできるなら、簡単に避けられるだろうな)
そのままセルペンスとラズトラウトは剣を交わす。激しい斬り合いだったが、若干ラズトラウトが優勢のようだ。ほんの一瞬ごとではあるが、セルペンスは時たま苦しげな顔をする。それが二人の力の差を示しているようでもあった。
「セル、三時の方向に退避……のち六時の方向へ退避!」
「永久の闇の緋き檻!」
「はッ!」
セルペンスの背後に現れた棺桶は、しかし標的を閉じ込めることができない。またもやテンペランティアの指示でかわされてしまった。テンペランティアの背後に出現させた二つ目の棺桶も同様だ。テンペランティアも、閉じていく棺桶の蓋に押し込められない範囲の場所へと逃れていた。やはり彼女は、先読みができるのだろう。
「甘いッ!」
「くぅっ……!?」
けれどテンペランティアの号令を聞きつけたラズトラウトは、瞬時に動いていた。セルペンスが避けた先めがけて、ラズトラウトは剣を振り下ろしたのだ。
続けざまの命令に、さすがの黒の勇者も対処しきれなかったらしい。すれすれのところでかわしたものの、ステップにキレはなくよろけてしまった。そしてラズトラウトはその隙を見逃さない。長剣が繰り出す鋭い突きに、セルペンスの身体はあっさり貫かれた。
(瞬発力はあっても万能じゃない。テンペランティアだって、畳みかければ必ず隙はできる。……だけど、それまでこっちの体力がもつかわかんねぇな)
ならば話は簡単だ――――どこに逃れようとも絶対にかわせない一撃を放てばいい。
「なッ――!」
テンペランティアの顔が一瞬にして恐怖に染まった。きっと彼女は視えたのだろう。祐理の次の一手がなんなのか。
「――踊れぬ姫の夜会靴」
「がッ、ああああああああッ!?」
「ひっ……姫様っ……!」
目的のページを開いた祐理はその名を告げる。無数の楔が鉄を貫く鈍い音が聞こえるのと、少女達の悲鳴じみた声が響くのはほとんど同時だった。
“対象に鉄製のブーツを履かせる。合図とともに楔がブーツを貫くため、履かせた者の足止めに使用可能”。テンペランティアがどこに行ったって、踊れぬ姫の夜会靴はその足に現れる。
かつて【側仕】エシェールさえも苦しめた靴の形の拷問器具は、痛みなんて知らないような温室育ちの聖者様には効果が絶大だったらしい。ありとあらゆる攻撃から逃げられるというなら、きっとテンペランティアはそんなものを味わったことなど数えるほどしかないだろう。実戦での出来事ならばなおさらだ。
テンペランティアはくずおれた。可愛い顔は苦痛に歪み、涙とよだれでみっともなく汚れている。もしかしたら両足の骨が砕けたのかもしれない。聖者ならば回復魔法が使えるはずで、しかしテンペランティアはそれをしなかった。それだけ痛みに錯乱しているのだろう。
もがく年下の少女の姿に、少しの憐憫と罪悪感が頭をもたげた。けれどそれを振り払い、祐理は静かにテンペランティアへと歩み寄る。
片刃の安寧告げる断罪の歌をテンペランティアのうなじへあてがう。その冷たさにテンペランティアが身じろぎした。桃色の後れ毛が数本はらはらと舞い、白いうなじに一条の紅がにじんだ。
「ひっ……」
「貴様、その手をどけろ! 自分が何をしているのかわかっているのか!?」
「ああ、わかってるぜ? でも、あんたらもちゃんとわかってたよな? 魔女を倒した奴を敵に回すっていうのがどういうことか、さ」
声は上ずっていないだろうか。足は震えていないだろうか。そんな怯えを噛み殺し、祐理は精一杯の悪役を演じる。
『審問大全』から現れるのは、いずれも人類の邪悪な発想力を体現するおぞましい武器だ。それを本来の用途で振い続けるには、相応の精神力が必要で。少なくとも敵に向ける場合、ふさわしい覚悟と威厳を備えていなければならない。でなければ、最低限の効力以上の結果を招いてしまうから。
首を斬り落としたら人間は死ぬ。今祐理達が相対しているのは不死身の魔女や悪魔などではなく、大仰な肩書を持つだけの人間でしかない。祐理が少し力加減を間違えれば、この少女は死ぬのだ。
この手を血に染める決意は、人の命を奪う勇気は、自分に備わっているだろうか。母の仇を取るために、神の関係者とはいえども他人を踏み躙るのは、本当に正しいことなのだろうか。それは見方を変えれば、魔女と同一の存在なのではないだろうか。そんな疑問を飲み込んで、祐理は再度口を開いた。
「答えろ。あんた達は、教会は、“狩人”を完全に敵とみなしたって認識でいいんだな? ああ、嘘はつくんじゃねぇぞ。ついたってすぐにわかる。もしこの期に及んで嘘なんてついたら、あんたの大事な姫様の首がどうなるか知らねぇからな」
その問いは痛みに悶えるテンペランティアではなく、セルペンスに向けたものだ。
ラズトラウトに腹部を貫かれてへたり込んだセルペンスは、しかし急所は外されたのか肩で息をしているだけだった。直接戦う勇者だから、きっと鍛えていて痛みにも慣れているのだろう。少なくとも聖者様よりは話ができそうだ。
「お前達は、【幸福の魔女】を倒した。歴代の聖者様や勇者……教会の人間達には、なしえなかったことだ……。おかげで我々教会の正当性は危ぶまれ、内部からすらも疑問視する声が上がっている始末。素性もわからない、流浪の旅人に手柄を奪われる程度の聖なる砦は、本当に必要なのかとな……」
テンペランティアという人質がいるせいか、セルペンスはあっさりと吐いた。
思ったよりも、ロゴスを守るマッチポンプの鎧にひびが入るのは早かったようだ。実際には【幸福の魔女】を殺してなどいないし、すでに二人目の魔女だって手中に収めている。しかしそれは公にはなっていないことだ。ハッタリをきかせるには、大げさな勘違いをさせたまま見栄を張っていたほうがいいだろう。
「ゆえに聖者様達は協議を行った。民が教会に寄せる期待を、抱く希望を、踏み躙ってしまわないために。……“狩人”。お前の存在は、人の心を惑わせる。お前は、この世界には存在してはならない異物だ」
「ふざけんな。現在進行形で魔女に苦しめられてる人達がいるのに、何が期待だ。何が希望だ。カミサマに祈ったって救われねぇもんは救われねぇ。抑止力だか何だか知らねぇが、教会が役に立ってねぇのは事実だろうが」
かつてラズトラウトは言っていた。大聖堂や聖堂という建物に聖者をはじめとした聖職者達がいるから、教会という宗教組織が存在しているから、魔女の被害はこの程度で食い止められているのだと。
それはきっとアルカディア人の常識だ。けれど同時に、ロゴスに植え付けられた偽りの安心感でもある。実際の聖職者達は重い腰をろくに上げない。それなのに考えうる最悪の可能性を引き合いに出して、いまだその事態に直面していないことを「聖者のおかげ」なんて言うのは絶対におかしい。確かに魔女の手によって人類が滅亡したり、一夜にして国が滅んだりしていることはないが、どこかの地では罪のない誰かが魔女に殺されているのかもしれないだから。
人々を魔女の脅威から救ったのは、“教会”ではなく“狩人”だった。魔女は滅せる存在なのだと、祐理が知らしめた。まやかしの安堵は疑念に変わる。教会は本当に必要なのか、神は本当に人間を守ってくれていたのかと。
共通の敵がいれば、人は同じ方向を向くものだ。そうやって人は団結していく。けれど敵が打ち倒されれば、新たな敵を探してしまう。それは時に味方の中から見出されるだろう。そうして人の心は聖職者から離れ、ロゴスに集まる信仰が分散していく。何もかも、エペーの予測通りだった。
「黒の勇者、セルペンス様。僕はラウラス帝国の騎士、ラズトラウト=ディックだ。僕は勅命により、“狩人”ユーリの旅路に同行している。これは、聖者様達の……ひいては教会の総意なのか? 返答次第では、今回の件および教会の意思についてを我が国の皇に報告させていただくが」
ラズトラウトは剣呑な声音で尋ねた。教会の判断とそれに伴う黒の聖者と勇者の襲撃には、彼も怒りと落胆を抱いているらしい。皇帝に報告するより先にこの場で二人を切り捨ててもおかしくないような彼の雰囲気にあてられたのか、セルペンスの表情がわずかにこわばった。




