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午後十一時半を過ぎたころ、アパートの二階の部屋のドアを開けて、佐伯が先に、中島がよろよろとあとにつづいた。ダイニング・キッチンを抜けて絨毯敷きの部屋に入った。もわっとした熱気が襲ってきた。
「うわっ、あちい」
と言って中島は足の短いテーブルのわきに寝転がった。低い場所のほうがいくらかでも涼しいだろうと反射的に伏せたのだが、大した違いはなかった。暖かい空気は上にいって冷たい空気は下に集まるという小学校の理科で習うような理屈は佐伯の部屋では通用しなかった。中島は「あぢい。あぢい」と何度もうめいて転がった。
佐伯はキッチンでいつも通りの手順で手を洗い、部屋に入るとリモコンを使ってエアコンのスイッチを入れ、自分の席に座った。そこはベッドを背に正面にテレビが見える位置で、テレビの横には本棚、カラーボックス、そして右側の壁には押し入れ、左側には大きな窓があった。窓にはぶ厚いカーテンが下がっていて、昼なお暗そうな部屋だった。
中島は押し入れとテーブルのあいだで藻掻きつつも、はじめて入った他人の部屋を怠りなくきっちりと観察していた。当然、ベッドの下に積み上げられた美少女オタク本などいろいろなものを見つけたが、それらを引っぱり出してあれやこれや言ったり、からかったりするようなことはしなかった。酒を飲み過ぎたのと、暑さのせいでバカ騒ぎをするだけのエネルギーが残っていなかったからだ。
エアコンが効いてくるまで二人は肩で息をしながら暑さに耐えた。
しばらくして、じんわりと部屋が冷えてきた。
突然、佐伯がため息をついた。
「夜中にため息なんてつくなよ」
だるそうに起きあがって、中島はあぐらをかいた。
佐伯は哀しそうな顔をして天井を見上げた。
「ま、そんなに気にすんな。幽霊はおれが退治してやっからよ」
中島は再び寝転がった。佐伯は部屋に入ってから一言も口をきいていなかった。
「しかしあれだな。加藤の奴は薄情だよな。佐伯がこれだけ悩んでるっていうのに帰っちまいやがった。あれはきっとビビったんだぜ。絶対にそうだ。あの根性なしめ」
丸形の蛍光灯がジー、ジーと音を立てた。蛍光灯のひとつが点滅し、また点滅した。普段ならすぐにテレビをつける佐伯も座椅子の上でじっとしていた。
エアコンが低いうなり声をあげて冷気を吐き出し、時計の針がカチカチと時を刻んだ。
二人は息を殺して時が訪れるのを待った。
静かな夜だった。
窓の外で自動車が、一台、二台、三台、と走り去っていった。
そして、それきり音は途絶えた。
エアコンのうなり声と時計の針の音以外、何も聞こえなかった。
「もうそろそろ十二時になるんじゃねえの?」
中島は起きあがって時計を見た。壁掛け時計の針はぴたりと重なっていた。
「もしかして今日は聞こえない日なのか」
中島は舌打ちした。
「つまんねえでやんの」
言い終わるや、隣にいる佐伯の顔が青ざめているのに気がついた。
「どうした?」
「あ、う。あ……う」
佐伯は言葉にならない声を発した。「ついに来たか」と言って中島は耳を澄ました。
『う、う、う。う。う、う、う』
あえぎ声のような、泣くような声がかすかに聞こえる。
『う、う、う、ううう、う、う』
だんだん声が大きくなる。佐伯は金縛りにあったかのように身動きひとつしない。中島はまさか本当にそんな声が聞こえるとは思っていなかったので、一瞬、背筋に冷たいものを感じた。
『ううう、う。う、う、う、う』
脇の下からつつーと汗が流れ落ちる。
「まじかよ」
中島はぞくっと鳥肌が立つ思いがしたが、酒をしこたま飲んだあとだったので感覚が麻痺して、そのぶん恐怖心も薄れていた。中島は勇気を出して部屋の中を見まわし、どこか変わったところがないか調べた。見たところ普通の部屋だった。ただひとつ異様なものがあるとすれば、それは部屋の中ほどで石の地蔵と化している佐伯の姿だった。
「おい、佐伯。大丈夫か? しっかりしろ」
中島は佐伯の肩を揺さぶった。
「ゆうれい。出た。ゆうれい」
「おい、しっかりしろ」
うわごとのように「ゆうれい、ゆうれい」を繰り返す佐伯に、中島は最終手段を用いることにした。
「こうなりゃ仕方がねえ。ゆるせ、佐伯」
中島は必殺の気合いを入れた。
「うでカツ、うでカツ、うでカツ」
佐伯の右腕にうでカツ三連発をお見舞いした。佐伯はハッとわれに返り、苦痛に顔をゆがめた。
「佐伯、大丈夫か?」
「痛い……、痛い」
「よし、大丈夫だな」
中島は立ち上がると部屋のあちらこちらを見てまわった。
すすり泣きは相変わらずつづいていた。
『う、う、う。う。う、う、う』
『う、う、う、ううう、う、う』
『ううう、う。う、う、う、う』
「なんか変だな」
押し入れの上の天井付近からすすり泣きは響いてくるようだった。
『う、う、う。う。う、う、う』
『う、う、う、ううう、う、う』
『ううう、う。う、う、う、う』
「もしかしてこれ、同じ声の繰り返しじゃねえか?」
中島は押し入れを開けて、上段の棚に手をついて中をのぞき込んだ。
「暗くてよく見えないな」
押し入れに突っ込んだ上半身を出してから、
「おい、ライトか懐中電灯みたいなものはないか?」
「痛い、痛いよ」
「佐伯!」
中島に怒鳴られてようやく佐伯は返事をした。
「たぶんどこかにある」
「さっさと探して持ってこい」
右腕をさすりながら佐伯はライトを探し始めた。キッチンを歩きまわってから、ようやく玄関脇のブレーカー下にたどり着き、そこで備え付けの非常用懐中電灯を見つけた。懐中電灯をプラスチックの留め具から引き抜くと部屋に戻って中島に渡した。電灯は留め具から外れると自動的に明かりがつくようになっていた。中島は暗い押し入れの中を照らした。引っ越しして間もないせいか、中にはあまり物が入っておらず、段ボール箱やがらくたのような物が無造作に積み上げられていた。
中島は押し入れの天井部付近を中心に念入りに調べ、右隅の板が浮き上がっているのを見つけた。わずかに隙間があいていた。
「よし、わかった。あれだ」
中島は振り向いて笑顔を見せた。懐中電灯を佐伯に向かって放り投げ、それが佐伯の手に収まるのを見届けてから、押し入れの上段のがらくたをわきにどけ、人がひとり乗れるだけのスペースをつくった。慎重に上の段にのぼって、天井板を押した。板は簡単に持ち上がった。
天井裏への入り口がぽっかり口を開けた。
中島は生粋の田舎者だったので押し入れの天井部分から天井裏へ通じる穴があることを経験則上知っていたのだ。
中島は恐る恐る穴の中へ首を突っ込んだ。もわっとした熱気が充満していて、頭の上で埃が舞った。
「うわ、あちい」
穴から首を出し、大げさに咳き込んだ。
「佐伯、懐中電灯」
佐伯から懐中電灯を受け取ると、頭と右手を穴の中に突っ込んでちょこちょこと手首を動かした。
「あー、こりゃ幽霊じゃねえわ」
中島は押し入れの上段から勢いよく飛び降りた。
「自分で見てみな」
佐伯は少しためらったが、言われるままに押し入れにのぼり、穴の中に顔を突っ込んで懐中電灯で照らした。ぎりぎり手が届くくらいの位置に黒い角張ったものが梁の上にくくりつけられていた。
「誰がこんな……」
佐伯は左手に懐中電灯を持ち替え、右腕を伸ばした。白い紙切れ様のものが謎の物体の前にあった。それをつかむと佐伯は急いで部屋の絨毯の上に飛び降りた。
「なんだ、それ?」
「あの黒い機械の前にあった」
「おまえ、意外と度胸あるな」
中島は佐伯の左肩を軽くパンチした。
すすり泣きは相変わらず響いていたが、二人はそんなことにはおかまいなしに、のぞき込むようにして紙切れをひらいた。
こんばんは。
もしかしたら、こんにちは、かな。
さぞかし怖い思いをしたことと思う。
驚かせて申し訳ない。
というような月並みな謝罪はとりあえずやめておこう。
だってこれは贈り物なんだから。
え? 意味がわからないって?
だったら顔を上げて部屋の中を見まわしてごらん。
その顔のひとつひとつが僕からのプレゼントだ。
どんな顔があるかな?
友人かな? 恋人かな? 親? 同僚? 大家さんとか、まさか警察とか。
僕が想定している人たちの顔があるといいんだが……。
あっ、そうそう、この手紙をひとりで読んでいるということも考えられるね。
その場合には君の勇気と行動力に敬意を表しよう。
君はひとりでも生きていける強い人間だ。強靱な精神力の持ち主だ。
おそらく出世するだろう。
そんなこともないか。
でも得難い経験ができたことは確かだろ?
幽霊なんてめったにお目にかかれないからね。
それでは、これからのこの部屋での君の楽しい生活を祈りつつ。
心をこめて。
前の住人たちより。
追伸 この手紙を手にしているということはきっと成功したんだよね? ちゃんと作動してくれたんだな。
追伸前の最後の一文『前の住人たちより』の『たち』の部分が違う色のペンで書き加えられていた。
佐伯は中島の顔を見て、中島の右肩をパンチした。中島も笑顔でパンチしかえした。
二人はとりあえず幽霊発生装置の電源を切って、コンセントだけは抜いておくことにした。それから手紙をテーブルの上にひろげて、時には押し入れにのぼったりしながら、いろいろなことを話し合った。最後の文に新たな言葉が書き加えられていたことから、天井裏にわざわざコンセントまで作って妙な仕掛けを設置した最初の人物以外に、少なくともひとりはこの手紙を読んでいるはずだった。ひょっとするともっといるかもしれない。しかし、いったいどんな奴らだろう、おかしな連中もいたものだ、などと話はいつまでも尽きなかった。佐伯はここ数週間つづいた様々な緊張から一挙に解き放たれ、饒舌だった。中島もいつもの佐伯に戻ったことに一安心して、眠い目をこすりながら話に付き合った。
夜が白々と明ける頃、二人はようやく眠りについた。
二人の寝息に混じって、エアコンの低いうなり声と時計の針の音だけが部屋にこだましていた。
果たして次に女のすすり声が聞こえるのはいつのことだろう。佐伯に恋人ができて事が成就した日か、それとも新しい住人が越してきた日か。いずれにせよ、そう遠くない未来に結論は出るだろう。
すべては佐伯にかかっている。
佐伯は久しぶりにぐっすりと眠った。友人の温かい寝息に包まれながら。
(了)




