01 柳橋美湖 著 『梅雨のご褒美フレンチ、イケメンシェフつき』
【梗概】梅雨どきのソロ活OL、ご褒美ランチの一場面です。
週半ばの水曜日。容赦なく降り注ぐタスクの嵐と、お局様の理不尽な小言を這う這うの体で脱出し、私はオフィス街の路地裏にひっそりと佇むフレンチレストラン〝サンジェルマン〟へと滑り込んだ。午前中の激務という名の砂漠を生き抜くために、今日の私は一週間前から〝ソロ活〟のご褒美ランチをネット予約しておいたのだ。これだけを楽しみに、迫り来る書類の山を片付けてきたと言っても過言ではない。
ガラス張りの重厚なドアを押し開けると、静かな店内に、からんからんと、どこかクラシカルで涼やかなベルの音が心地よく響き渡った。一歩足を踏み入れると、湿った外の梅雨空が嘘のような、優しく明るい光に満ちたモダンな空間が広がっている。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
にこやかに迎えられ、案内されたのはお目当ての二人掛けの窓際席だ。ガラス窓のすぐ向こうには、雨の雫をきらきらとまとった紫陽花が、鮮やかな青と紫のグラデーションを描いて咲き誇っている。どんよりとした曇り空さえも、店の窓から見ればまるで一枚の絵画のようだ。
テーブルの上には飾り文字で、「Reserved」と書かれた小さな真鍮製の予約席プレートが置かれていた。それだけで、なんだか自分がVIP客になったような気がして胸が躍る。真っ白に糊のきいたテーブルクロスの上には、きれいに折り畳まれたリネンのナプキン。傍らには、磨き上げられたナイフ、フォーク、そしてスプーンが、お行儀よく整列していた。
落ちついた店内をぐるりと見渡してみる。フレンチとはいえ気取った敷居の高い雰囲気ではなく、客層は意外にも近所のオフィスから流れてきた風サラリーマンや、楽しげにお喋りに花を咲かせているご近所の主婦グループがメインだ。小さなお店なので、十人ほどの客数でもほどよく席が埋まり、心地よい賑わいを見せている。
客席の奥、一段高くなった場所に見えるのがガラス張りの厨房だ。奥から時折、小気味よい包丁の音や、ジューと肉が香ばしく焼ける音が漏れ聞こえ、午前中のデスクワークを戦い抜いてペコペコになった私の食欲を激しく刺激してくる。
ネット予約時にメニューまで指定しておいたおかげで、私が席に着くと同時に、流れるような手際で最初の一品が運ばれてきた。
まずはシャキシャキの彩りサラダ。酸味のきいた爽やかなビネグレットドレッシングが、凝り固まった脳と身体を優しくほぐしていく。
続いて、ほかほかと温かい自家製パンと、冷やしたジャガイモのクリームスープ〝ビシソワーズ〟だ。スプーンですくい、そっと口に含む。ひんやりとした滑らかなコクが舌の上でほどけ、思わず「んー!」と声が出そうになる。美味しい、生き返るーっ。
そして待望のメインディッシュだ。オレンジソースのチキンソテーが、こうばしい湯気と香りを漂わせて登場する。ナイフを入れると、皮目はパリッと心地よい音を立て、中は驚くほどジューシー。甘酸っぱく濃厚なオレンジソースをたっぷりと絡めて頬張れば、幸せいっぱい。お肉の旨味とソースの果実感が絶妙にマッチして、フォークを動かす手が止まらない。周囲の視線も忘れた私は美食の世界に浸った。
メインのお皿が満足感とともに下げられ、食後の紅茶が運ばれてきたときのことだ。
ふわりと漂う高雅なアールグレイの香りに乗って、微かな衣擦れの音と、迷いのない静かな足音が近づいてくる。気がつくと、コト、と丁寧な手つきでカップの隣に置かれたのは、セットメニューには絶対にないはずの〝シュークリーム〟ではないか。
「……えっ、いただいていいんですか?」
思わず驚いて顔を上げると、立っていたのは、一瞬息をのむほどの美形だった。
額に自然にかかる、少し長めの洗練されたブラウンの髪。すっと通った高い鼻梁に、切れ長の美しい目元。一八〇センチは優に超えるであろう高身長で、モデルのように、つらりと細身の体型だ。純白のコックコートを美しく着こなし、腰で黒いエプロンをキュッと締めている。首元に巻いたスカーフまで乱れなく整っており、圧倒的な清潔感が全身から漂っていた。
(この人、笑みを浮かべたら、少女漫画みたいに歯がピカッと光りそうだ……!)
ふと眩しさに目を細めながら胸元に目をやると、白地にシャープな輝きを放つシルバーのネームプレートがピンと留められ、「城山」と刻まれていた。
「はい。今日は雨でお客様が少ないですし、何より貴女が、本当に美味しそうに食べていただけたので……うちからのサービスです」
城山マスターは、大人の包容力あふれる低音ボイスで優しく囁いた。耳に心地よく響く声に、心臓がトクンと跳ねる。
差し出されたのは、粉糖が雪のように美しく振られたクッキーシュー。サクサクの香ばしい生地の隙間から、バニラビーンズがきらめく濃厚なカスタードクリームが、溢れんばかりに顔を覗かせている。なんて罪深いビジュアルだろう。
(いやいや、待て私。落ち着け朋代。このイケメンめ、絶対下心がある。甘いマスクと料理の手腕で、一体何人の女子を沼に落としてきたんだ……?)
私の脳内プロセッサは一瞬でフル稼働し、あらぬ妄想が暴走を始める。
お店の休業日。二人きりの店内で、彼が特製デザートを出してくる。「今日は君の誕生日なんだろ? 君だけのために、特別な一皿を用意してみたんだ」なーんて優しく囁かれて……。
チラリと腕時計を見る。十二時四〇分。現実の時間は容赦ない。
プルプルと首を振って、私は脳内の妄想を強制終了した。ダメよ、朋代! デザートを食べたら、ちゃっちゃと午後のお仕事モードへ頭を切り替えるのよ!
私はすっと呼吸を整え、お嬢様モードを起動した。
こういう時こそ大人のテーブルマナーの見せ所だ。シュークリームのパイ状の頭部分をナイフで水平にカットし、中身のクリームをスプーンですくっていただく。うわ、濃厚なのに後味すっきりで最高に美味しい。温かい紅茶で贅沢な余韻を締めくくり、私はお会計の前に、一度化粧室へと足を運んだ。
白を基調としたお化粧室で、大きな鏡の前に立つ。
鏡に映る私は、我ながらいかにも、「真面目で清楚なオフィスレディ」だ。サラリとまとまめた黒髪のボブカット、大きめの瞳が、さっきまで美味しいものを食べていた満足感で潤んでいる。肌のコンディションも悪くない。自分で言うのもなんだが、世間一般でいうところの「清楚系な美少女」の枠には収まっているはずだ。
でも、だからってさっきのイケメン・マスターが私に一目惚れした、なんて都合のいい展開があるわけがない。自分を律するように言い聞かせる。
「……よし、リップよし。前髪よし」
少し上気した頬を両手でパチンと軽く叩き、浮ついた心を仕事モードへ引き締めてから、私はレジへと向かった。
「お客様、本当に綺麗な召し上がり方をされる。料理人として感動いたしました」
去り際、伝票を受け取る城山マスターが伏し目がちに微笑んだ。ポッ、と再び顔が熱くなる。やっぱりあの褒め言葉、ずるすぎる!
(フン、誘惑したって駄目だからね。無駄よ、無駄! 私は騙されないんだから。……で、でも、悔しいくらい美味しかった。くそおっ、絶対にまた来ようっと)
お店を出て、コバルト色をした花柄のお気に入り傘をパッと差す。雨のオフィス街を軽快な足取りで歩き、午後のお仕事開始五分前、何事もなかったかのように私は、デスクへと戻ったのだった。
(了)




