『ドラえもん』から考える、人間と合理性について(個人的見解)
『ドラえもん』を思い出して、私は一つの考えに至った。
一般には、未来の道具が社会全体に普及すれば、経済や社会構造が大きく変わると考えられる。しかし、『ドラえもん』では、その恩恵を受けるのは主にドラえもんとのび太など、ごく限られた人々であり、社会全体へ広がることはほとんどない。この前提があるからこそ、作品は日常の物語として成立しているのではないかと思う。
もし、未来の道具を誰もが利用でき、「便利だから真似をしよう」「もっと効率よく使おう」という合理的な発想が社会全体に広がれば、道具は急速に普及し、社会そのものを大きく変えてしまうだろう。その世界は、現在の『ドラえもん』とは異なり、ディストピア的な側面を持つ可能性もある。
このことから私は、問題を単純に資本主義という社会構造だけに求めることには慎重であるべきではないかと考えるようになった。
むしろ、どのような社会制度であっても、人間には「便利なものを活用したい」「利益を得たい」「他者の成功を真似したい」という合理的な性質がある。その人間の性質が、技術を社会へ拡大させる原動力になるのではないだろうか。
もちろん、社会構造が人間の行動に影響を与えることは否定できない。しかし、私が現時点で考えているのは、「構造がすべての原因なのではなく、人間が持つ合理性や模倣する性質そのものにも、本質的な問題があるのではないか」という可能性である。
『ドラえもん』は子ども向け漫画として読まれることが多いが、この視点から見ると、技術と人間の関係について考えさせられる、非常に奥深い作品でもあるように思う。
あとがき
なぜ『ドラえもん』という作品と、このような考えが自分の記憶の中で結び付いたのか、私自身にもはっきりとは分からない。
ただ、考え続けるうちに、一つの可能性が浮かんできた。
私は当初、「合理性」と「資本主義社会」は強く結び付いているものだと漠然と考えていた。しかし、もしかすると両者は必ずしも不可分ではないのかもしれない。
仮に社会構造が資本主義ではなく、別の制度であったとしても、人間が「便利なものを取り入れたい」「利益を得たい」「他者の成功を真似したい」と考える限り、合理性は働き続ける。その結果として、似たような問題が生じる可能性は否定できないように思える。
もちろん、これは社会構造の影響を否定するものではない。制度は人間の行動を大きく左右する。しかし、それだけでは説明しきれない、人間そのものが持つ合理性や模倣する性質にも目を向ける必要があるのではないか──そんな考えが、今の私にはある。
この文章は、一つの結論を示すために書いたものではない。『ドラえもん』という作品をきっかけに、人間と社会の関係について考えた過程を、自分自身の思考の記録として残したものである。




