偏りについて
はじめに
この文章は、さくらのまちを読んだことをきっかけに生まれた思考の記録である。
作品の中で描かれる「疑心暗鬼」というテーマに触れたとき、私が最初に疑うべきだったのは他者ではなく、自分自身の認識だったのではないか、と感じた。
もしかすると、これまで自分が「現実」だと思っていたものも、自分の価値観や経験によって形づくられた、一つの解釈に過ぎなかったのではないか。
ここに書かれている内容は結論ではない。
自分なりに考え続けた過程である。
私が最近考えていることの中心には、一つの問いがある。
**人間は、自分の認識が偏り得ることを忘れずにいられるのだろうか。**
人は、世界をそのまま見ているわけではない。膨大な情報の中から、自分にとって意味のあるものを選び、それを経験や価値観と結びつけ、一つの「現実」を構成している。
もしかすると、この性質は欠陥ではなく、人間が生き延びるために獲得した仕組みなのかもしれない。
世界には人間が処理しきれないほど多くの情報が存在する。
そのすべてを等価に受け止め続ければ、脳は膨大な負荷を抱え、適切に判断することが難しくなる。
だから脳は、情報を選び、意味づけを行い、自分なりの一つの現実を構成する。
言い換えれば、認識をある程度「編集」することで、自らが処理できる世界を作り出しているとも考えられる。
だから、現実そのものよりも、「自分が理解した現実」を生きていると言えるのかもしれない。
この認識の働きは、生きるためには必要なものでもある。
しかし同時に、人は見たい情報や都合のよい情報を集め、自分の考えに合うように解釈してしまう傾向も持っている。
疑心暗鬼も、その延長線上にあるのではないか。
不安が生まれると、その不安を裏づける情報ばかりを集め、一つの物語を作り上げる。
そして、その物語が本人にとっての現実になっていく。
もし争いの根本があるとすれば、それは単なる利害だけではなく、「自分の認識こそが現実そのものだ」と信じてしまうことにもあるのではないか。
善悪や倫理について考えてきたのも、この問いにつながっている。
善悪は立場によって変わることがある。
強者には強者の倫理があり、弱者には弱者の倫理がある。
合理性だけでは人間は説明できず、倫理だけでも説明できない。
人間はそのどちらにも属しながら、そのどちらにも収まりきらない存在なのだと思う。
だから、人間を完全にシステムへ当てはめようとすると、どこかで無理が生じる。
それは人間の「バグ」ではなく、人間という存在そのものの性質なのかもしれない。
AIについても同じことを考える。
AIは合理的な判断を得意とする。
しかし、本当に問題なのはAIではない。AIを使う人間の認識である。
もしAIが、人間の見たい情報だけを強化するなら、人間の認識の偏りはさらに大きくなるだろう。
一方で、AIが「別の見方もある」「別の立場ではこう見える」と認識の選択肢を増やす存在になれるなら、人間は自分の認識を相対化する助けを得られるかもしれない。
しかし、そのAIも人間が作る以上、そこに偏りが入り込まない保証はない。
だから、最後に残る問いはAIではなく、人間自身に向かう。
**人間は、自分の認識が偏り得ることを忘れずにいられるのだろうか。**
この問いを持ち続けることこそが、善悪や合理性を議論する以前に、人間が失ってはならない姿勢なのではないかと、今は感じている。




