「さよなら」
憶測だけど、一舎と「彼女」は意識は共有していなくとも、記憶は一部共有しているかもしれない、と思えた。一舎散葉が夏目に吹き込まれた「勘違い」を、「彼女」が知っていて、僕を狙っていることがそう思う理由。だから昨日話した時にも、僕は、一舎の勘違いについて明かさなかった。鳴瀬もそのことを了承している。
「彼女」はまだ、仇は僕だと思っている。
話の途中で「姫歌を助けた恩人」だと一舎に言われた時はなんだか居心地の悪い思いをしたが、まぁ、この子を完全な「白」にするために「必要」な段取りだと思おう。
それが僕の立ち位置だ。今は、まだ。
正直……ふっと頭を過ぎる、僕が見過ごせばあいつらは このまま平穏に生きていけるかも、という発想が。警察にあるまじき発想が。
このまま目を閉じて 見逃して ……もし、自分が狙われていたんじゃなければ僕は、そうしてしまっていたのか?
首を振って発想を消し去る。無理だ、そもそも今狙われているのは僕だ。僕が死体になったら母が確実に犯人を裁くだろう。
誰もを分け隔てなく助け、報復する
自分の身内や身近な人だからといって優先したりはしない
家族であっても大義、秩序に利用する
証拠があるなら、逃してはならない
その手は愛する人の為じゃなく、社会正義の 被害者のためにある……母の信念だ。善悪を明確に区切ってオセロのように裏表、白黒つけてしまおうなんて暴力的な正義だが、そんな彼女を僕は尊敬もしている。
――――… 母に恥じないよう、秘密警察としての自分をそうそう簡単に手放せない。
しかし僕がグレーゾーンに傾倒したために、脚本は少し様相を変えていた。テーマが変われば演出が変わる。「彼女」を消す、始末する、というよりも……彼岸へ帰ってもらえるようにと。そして一舎を返してもらえるように。彼女が「黒」に手を染めてしまわないよう、未然に事件化を防ぐのが目的となっていた。
鳴瀬と時間をずらして、一舎の家に着く。僕が先に来ることになっていた、予定通りのペース。
「いらっしゃい」と出迎えてくれた一舎は薄い水色のワンピースに白いカーディガン姿で、もう、ほんと、天使かと思いました。
ごめん。
と内心こっそり謝ってあがらせてもらう。
表札の出ていない、小さな一軒家。水中崩壊後元の戸籍に戻り、元々住んでいた家に住み続けているらしい。確か学校に行きながら働いて、生活費を得ているんだっけか。そういうところも、僕ら三人は似た者同士なのかもしれない。
「りょーちゃん遅いねー」と一舎が立ち上がった途端、インターホンが鳴った。見計らったかと思うようなタイミングの良さ。
「あっ来たかな」
キッチンに向おうとしていたらしい一舎が、そのまま方向転換して玄関の方へ。
ドアを開く動作。
僕は、隠していたナイフを取り出した。
時間差をつけて来たのは彼女の背後を取るためだ。「真っ向勝負じゃ絶対に敵わない」と鳴瀬に言われ、それならばと挟み撃ちできる状況を作ることにした。
ドアの向こう、随分傾いた日差しを逆光に浮かび上がるその姿に、一舎が動揺したのがこちらまで伝わってくる。そして
――――反転。
既に何か構えてきた鳴瀬の手と
「彼女」の右手が、交差した。
……今だ、
踏み出した僕に気付いた彼女が屈むのを追うように上体をかがめ、ナイフを振りかぶる。彼女は身を翻して鳴瀬の足を払い僕達を衝突させようとして……
……よし。
鳴瀬が持っていた武器が、
僕の脇腹にめり込んだ。
「……、う、ぁ」
赤い液体が、じわりと服から沁み出す。ナイフを取り落として、僕は倒れた。
――――ここまで数秒。彼女の、というか一舎の戦闘能力予想以上に高いな。真っ向勝負してたら、マジでやばかった。
こんな「自作自演」、もっていくのも無理だったろう。
「彼女」が僕を見下ろす。
その表情がほんの少し、一舎のそれに戻っていた気がした。
別人格は、遭遇した感じ「人格」足り得る程知能がある性質ではない。以前から「彼女」として様子を知っている鳴瀬から見ても、そうだったという。散葉が危機に晒された際は必ず「彼女」が出てきて散葉を守り、危機が去れば散葉に戻った、他にも何かしらの目的がある時にだけ表層に現れ、目的を果たせばまた消えていたと。ならば、「彼女」の目的が復讐なら、その意義を失ってしまえば消えるはずだ。
後は鳴瀬が変装を解けば一舎も元に戻って万事解決だろう、と女装している彼を薄目を開けて伺い見る。
ヒメカの格好をした鳴瀬。
さっきは逆光でわからなかったけど、部活で見る時以上に自然な女装だな……なんて
暢気に考えている場合じゃなかった。光を遮って歩み寄ってくる一人。
「彼女」が、僕が落としたナイフを拾って振りかぶってきた。
……っ、ヤバい、とどめ刺すつもりか!
思わず焦り身じろぎそうになった直後、更に視界が暗くなり
ナイフの軌道が逸れ、
その切っ先は鳴瀬の咽を掠めた。
紙一重の攻防、一瞬で僕の視界からフレームアウトする。
僕の傍をどたどたと乱れた足音が通り過ぎ、何度か壁にぶつかる音がした後、ついに奥の部屋へ行ってしまった。
……え?
「彼女」が……鳴瀬のことも、狙ってる?
「何で……」
失敗、したのか?
人間の精神はそんな単純じゃないってこと?
いや、……僕が倒れた時確かに、存在が揺らいだように思えた。
なのに、一舎は一舎に戻らなかった。
『いざって時は、二人共殺すよ?』
……いやいやいやダメだダメだ
一舎のことは、助けないと。このままだと鳴瀬は本当に一舎を殺すんじゃないか? あいつがいざとなったら人を殺せる人間だってことは過去が証明してる、前科一犯、父親殺し。
どうすればいい。どうしてだ。考えろ……もう暢気に死んだフリしてる場合じゃ無い。
どうして彼女は僕にとどめを刺すより鳴瀬を優先させたんだ。目撃者だから、口封じ……
いや、……鳴瀬じゃなくて。
ヒメカだ。思い出せ。最初のあの夜、発砲した彼女はそれでも、僕を見失うとすぐに平常に戻ったはずなのに……
違う。
彼女に銃口を向けられたことに動揺して、一舎が人に向かって発砲なんて、するわけないと思いたいがために、……そういう部分、行動、すべて「彼女」のせいにしてしまっていたかもしれない。
そう、あの時僕は死角に隠れたんだ。一舎は僕を僕として認識していなかったんじゃないか。
あそこにあの時間、三人が居たことが、全くの偶然だったとしたら
本当は、一番最初は……部室で眼球を狙われた時。
「彼女は僕とヒメカが揃ったからこそ現れた……?」だとしたら、どうして……?
『優しい姫歌の存在は 私にとって、救いだった
私には何をしてもいいから、どうか
彼女には
手を出さないで
でも
そんな約束、なんの抗力も無くて
簡単に破り捨てられた……』
一舎にとって、そうだったのなら、「彼女」にとってヒメカは
自分が愛した男に抱かれる、邪魔な女?
「恋敵、か?」
……もしそうなら、ヤバい。
鳴瀬に関しては死んだフリができる用意なんてしてきていない。彼女は鳴瀬をヒメカだと認識してる、彼が死なないと「彼女」が消えることは無い……
そう考えて。
思い至った。
『二人共殺す』と言っていた『二人』が、誰と誰か。
「……あの馬鹿!」
固めていた身体を一気に戻し、僕は武器を探すのもそこそこに物音のする方へと駆け出した。
駆け込んだ室内は酷い有様で、壁という壁が破損している、と言っても過言では無かった。
がらんとした部屋だ。空気が澱みきっている、呼吸が苦しい気がするほど。唯一あるベッドがズタズタに引き裂かれて、人の力で損傷させられたと思えない破裂したような傷が木製の淵に迸っていた。
床に破片が散っていて 羽毛がその上に飛散して、さらにその下には
どす黒い 大きな 染みが
「こ、れ」
一歩、思わず 後ずさる。
それを追い詰めるように、何かが足元に転がってくる。
同じ材質のモノが、あちこちに散乱してしまっている。同じ材質。あちこちにある、それらが勝手に脳内で 組み上がって
わかりたくもないのに 正体が 組み上がって
これは……
「人間、の、骨?」
人間の骨だ。人間の骨。つまり人間が死んで骨になっている。一人分じゃない。少なくとも二人分ある
「ここは……」
窓の外には美しい銀杏の、金色の光
ここは一舎の、母親の部屋だ。
この人骨と黒い染みは―――― 一舎の、両親。
「……、……っ」
そのままになっていたのか? 確かに一舎の家族については、秘密警察が関与した記録も公に事件化された記録も残っていなかった。水中から人魚が来たということは彼等によって放置隠蔽されていたのかもしれない。人の死体を放置するくらい、彼等なら当然やるだろう。死は自然で、死体があるのも当然だ。この部屋を捨て置いて一舎を水中に連れ去っても何も違和感は無い。
でも、帰ってきた時に、一舎はこの部屋を……見なかったのか? 水中から戻って、この家で再び暮らし始めて、それから今までに一度も、埋葬しようと思わなかった?
一舎は両親のことを、覚えていたのに。
学校で身の上話を聞いた。間違いなく彼女はこの部屋のことを語った
語り口におかしな引っ掛かりは感じられなかったはずだ。両親の死、現れた人魚、そのことも一舎は僕に話した、つい昨日のことだ
両親を亡くしてから昨日まで……ずっと覚えていたのに
記憶にあるのに……意識していなかったのか?
トラウマになっていてもおかしくないこの空間を、今までずっとそのままにして、残したままのこの家で、平然と生活してきたのか……認識せずに、気付かずに?
――――この部屋の意識を……「彼女」に、預けて。
「――――っう……」
ベッドの影から呻き声がして、はっと我に帰る。
「っな、鳴瀬! 一舎……」
そこに二人は倒れていた。「彼女」が、鳴瀬の首を絞めていて、細い、白い首が呼吸を止める以前に、潰そうとしているかのよう――――
「や、やめろ! やめろって!」
さすがに一舎の身体を蹴り飛ばせず、けれど加減なくその腕を掴んで離させる。
彼女は鳴瀬を気にする間もなく、今度は僕の方に襲いかかってきた。ああ折角死んだことになってたのに、今度こそマジでどうしようだよ……
「バフィく……なんで、来たら意味無いじゃん……」
「お前も死んだフリしろよぉ!」
意識はあったらしい鳴瀬に、つい自分のことを棚に上げて叫んでしまう、そのくらい、正面から向かい合った「彼女」は怖かった。金色の目が獲物を狙う猛禽類に見える。人間の知性が宿っているようには到底みえない。必死で手刀や蹴りを避けながら何とか抵抗するも、床に転がっていた何かを踏んづけて体勢を崩す。
「うわっ」
同時に「この部屋から彼女を出しちゃダメだ!」と鳴瀬が言う。
「折角弾切れにしたんだ。充填させるな!」
僕が踏んだものは木片でも人骨でもなかった。
それは、散らばっていた薬莢だった。
初日のことを思い出す。銃で狙ってきた彼女。別の部屋で弾を補充されてしまったら、僕らには手も足も出なくなる。
「……っクソ!」
急いで彼女より先にドアへ駆け寄り、出口を閉ざす。けれどその次にどうするか、迷ってしまった。
彼女の手が僕を狙う。
避けたら彼女を取り逃がす。
受けたら僕は重傷だ。
僕は――――――
しかしその手は、僕の目前で空振って
彼女の身体は不自然に横へ薙ぎ倒された。
「……な!?」
部屋の端まで彼女を蹴り飛ばした鳴瀬が、僕と彼女の間に立ちはだかる。女装はもうしていなかった、作戦は 失敗したのだから。
いざとなったら、
……っ!
「まっ、おい、鳴瀬! ほら、ここは気絶させるだけにしといて、また方法を考えよう……次戻ったら、なるべく一舎のままで居てくれるうちに作戦立て直してだな」
「……今回に賭けたい」
「なんで!?」
「次のチャンスがあるかなんてわからない。せっかく……会えたのに」
「……いや、おま」
「チルハ」
呼びかける声。
僕の声は一瞬で掻き消された。
床に砕けたランプを拾いながら、疲弊した様子を滲ませて、けれど立ち上がってこちらを見る「彼女」に、鳴瀬が言う。
「俺からその子を庇ったつもり?」
びく、とその言葉に「彼女」が震えた。
明らかに動揺している。
正直、僕も動揺していた。
誰だ?
「殺すつもりなの? かわいそうに、ろくに愛させてくれない相手ばっかり、好きになるね、君は」
演じてるんだろう、と頭ではわかる。そう何人も多重人格が転がっていられてたまるか。……けれど
普段の声と、全然違う。甘ったるい、耳にこびり付いて痒くなるような、今すぐ洗い流したい声だ。
背を向けられ、表情が窺えないのが、妙に不安になる。
「俺とおなじめにあって、俺のきもちをわかってくれるつもりはないの?」
「…………」
伸ばされた手を、彼女が取った。
何を するつもり、
「彼女」がその手を振りかざした時、理解した。
こいつ、鳴瀬、やっぱり一舎を殺すつもりなんか無い。
「今演じてる誰か」と「彼女」で心中して……終らせるつもりだ、
手が振り下ろされようとして
互いに一歩、踏み出す
僕は鳴瀬の腰を掴んで引き倒した。
頼む
間に合ってくれ……!
助けた後のことなんか無視して、固く目を閉じた僕の
麻痺した耳元で、声がした。