異変2
私はいつもの皆より早い時間、学校に登校した。
今日は毎日の憂鬱な朝と違って、気分が良かった。昨日高柳さんと話すまで、同級生との他愛もない会話は本当に久しぶりだった。彼女と話せたことは、意外にも私の中で気持ちを楽にしていた。
意気揚々と教室の扉を開けると何人かは扉の開く音で、こちらに目線を向けた。友人を期待していたのか直ぐにがっかりしたように、それまでやっていたことに戻る。
私は自分の机に向かった。そして自分の机があるはずの所で、私は思わず立ち止まった。
私の机がない。
そこには椅子と数学のノートだけ。椅子は脚が曲がっており、もう座ることは出来ない。私がウッカリ机の中に忘れてきてしまったノートは、律儀にも中身だけをズタズタに引き裂かれてあった。
私は自分の今の状況を一瞬でも忘れて、舞い上がってしまった自分を恥じた。
楽しいなんて思っちゃいけなかったんだ。私は常に警戒して誰かに酷いことをされやしないかと、気を配ってなければならなかったんだ。どんなことにだって何も感じないように気にしないようにしていなければいけなかったのに。
私が緊張を解いてしまったから、こんなことなんかに強くショックを受けるんだ。屋上から飛び下りる前はこれくらいなんてことなかった。
私が暫くそこに立ち尽くしていると、いつの間にか笹原さんたちが私を取り囲んでいた。
教室はクラスメイトたちのひそひそ声や、気にしないようにとわざと楽しげに会話に熱中する者ばかりだった。もうクラスメイトはほとんど出席していた。
「何で来なかったの、昨日」
笹原さんが私に冷たい声で、質問する。
私は彼女に背中を向け、ひたすら壊れた椅子と使えないノートを見つめていた。
「昨日、待ってたんだよ。絶対来いって言ったのに、あんた来なかったね」
私の胃に冷たい塊がジワリジワリと広がっていく。
耳は彼女の言葉しか聞こえない。目は大きく見開かれ、ただ何も映さない。
「あんたのためにせっかく用意したのに。どうするの、あんたにすっぽかされて皆怒ってるよ」
橋本さんが笹原さんの隣から、まるで私の行いを諭すように言った。
取り囲む彼女たちの顔を私は見たくなかった。汚いものを見て、潜められた眉毛。馬鹿にするように笑う口元。そして、私を上から見下ろす冷めた目。なにもかもが恐ろしかった。
「また何も答えないつもりかよ」
背中からうんざりした声が聞こえた。
私が一向に答えないので、取り囲む一人は痺れを切らして私の足を蹴り飛ばした。
「あ」
私はバランスを崩して斜めに倒れこんだ。その時右足のすねを強く、曲がった椅子の脚にぶつけた。倒れた場所で数学のノートだった紙切れが、広く散らばった。
私の右足が、ジンジンと痛み出す。
私はジンジンと響く足の痛みと、心の苦しさで泣きそうだった。
泣きたい。
でも泣いては駄目だ。こんな人たちの前で泣いたら、余計惨めになるだけ。
自分に必死にそう言い聞かせては、涙をこらえた。
「よく聞いてね。あまりそうやって何も答えないでいると、私我慢出来なくなっちゃうの。だから」
橋本さんは一度言葉を切ると、座り込む私の髪の毛を引っ張り顔を無理矢理自分に向かせた。
彼女の苛立った顔が私の目に映る。そして耳には教室に誰かが入ってくる、引き戸の揺れる音が聞こえた。
「おはよ、う……何やってんの」
驚きと戸惑いの混じったその声は聞き覚えのあるものだった。
私はその声に思わず、目線を教室の入り口に向けた。私同様クラスの誰もがその声に振り返った。
そこに立っていたのは高柳さんだった。
高柳さんは真っ直ぐに私といじめっこたちの所までやってきた。
そして彼女は私と私の髪の毛を捕む橋本さんを交互に見つめた。
「何。何かようでもあんの」
橋本さんは高柳さんの真剣な瞳に圧されて、我慢しきれずに話しかけたようだった。
「それ痛そうだよ。離してあげて」
橋本さんの質問には答えず、彼女は私の捕まれた髪を指差して言った。
橋本さんは馬鹿にしたように笑みを浮かべて答えた。
「高柳さんには関係ないでしょう」
高柳さんは馬鹿にされても全く怯まず、はっきりと言い返す。
「関係とかの問題じゃなくて、私が痛そうな姿を見たくないの。それからどうして、そんな風に一人を大人数で取り囲んでるの」
橋本さんはムッとしていた。
「そんなの答えるぎり――」
「関係ないんだから、私たちのことに口出しすんな」
橋本さんの隣の子が、彼女の話している言葉を遮って、苛立たしげに言った。
しかし高柳さんはその言葉にも表情を変えることはなかった。強い力を宿したその瞳は、真っ直ぐに彼女らに向けられている。
「高柳さんさ、知ってんでしょ。こいつのこと。だったら、もうそういう同情とかでこいつに関わんのよした方が良いよ」
今度は笹原さんが彼女の行動を注意して、追い払おうとする。
すると高柳さんは笹原さんの言葉に強く反応して、声を荒げた。
「私は同情なんかで関わってるんじゃない」
その言葉に教室で一部始終を見ていた者や彼女たち、そして私までも目を丸くした。
同情以外にも私を助けようなんて思うんだろうか。
と、私は高柳さんの表情を見て、そう考えてしまった。
教室は静寂に包まれた。しかしその静けさを破ったのは私たちではなかった。
ガラガラと扉を横にスライドさせた音がする。教室に担任の先生が入ってきたのだ。
入った途端、先生はこの高柳さんと彼女らを中心として存在する、この異様な雰囲気に足を止めた。
「何やってるんだ、お前ら」
先生の言葉に一瞬怯んで、橋本さんは私の髪の毛を放してしまった。
それを見ていた高柳さんは、私にさりげなく目線を向けた。直ぐに私の所まで来て腕を掴んだ。それから私を引きずるようにして、素早く開け放された扉まで駆け出した。私は高柳さんに腕を引っ張られてそこを離れる瞬間、ポカンと口を開けた橋本さんの顔を見た。
そして私は彼女に連れられて、先生の横をすり抜け、最悪なクラスを出ていった。
「あ、おい。何処、行くんだ」
先生はハッとしてあわてて止めようとするが、私たちはその声無視して逃げた。
私は暫く、高柳さんの後を追って走っていた。もうすでに彼女から腕を離されているので、私は少し後で追いかける。
廊下を真っ直ぐ行って、角を曲がって、階段を上がる。
高柳さんは何処に向かっているのだろう。
一時間目の授業が始まっている時間で、教室の近くを通ると教師たちの話し声が聞こえた。
彼女と上の階へ登って行く。途中美術の花崎先生に会ったが、先生の注意する言葉を聞くより先に角を曲がってしまったので何の問題もなかった。
私と高柳さんは先生たちから見つからないように授業中の教室を避けて上がっていったので、随分と遠回りして目的地に向かった。
五階から屋上へと続く階段を彼女は上る。彼女の目的地はどうやら屋上だったようだ。
この学校の校舎は五階建てだ。そして屋上への扉は閉ざされている。
だから屋上には鍵がない限り行くことはできない。
「屋上の扉は開かないよ。どうするの」
私は彼女の後ろで聞いた。彼女は屋上への開かない扉の前で、立ち止まった。
「大丈夫」
後ろを振り返った彼女は得意気に私に笑いかけた。そして彼女は細い鉤つめのついた鉄の棒を二本、ブレザーの胸ポケットから取り出して、扉の鍵穴に差し入れた。
「それで鍵がひら――」
「そう、開くよ。待っててね」
そう言って彼女は数分、その棒を上下に動かしたり回したりしていた。
ガチッ。
音がすると高柳さんは棒を胸ポケットにしまい、扉に手をかけて回して引いた。
「ね、開いたでしょ」
彼女は嬉しそうに私の驚く顔を見て、笑った。
扉の外は青空が広がっていた。
「うわ、眩し」
高柳さんの後から入ると、前を行く彼女が声を上げた。
本当に眩しい。まだ陽は昇りきってないはずなのに。
彼女と私は近くの柵までくると、そこに腰掛けて座った。
空は真っ青に晴れ渡っていた。雲1つなく、遠くまで見通せる。
そしてふと思い出す。私は確かこんな晴れた日に飛び下りたんじゃなかったか。何であの時飛び下りたいなんて思っちゃったんだろう。空はこんなにも綺麗なのに、飛び下りるなんて……。
「今何考えてんの、ユッキー」
ハッとして顔を上げると、高柳さんが私の顔を覗きこんでいた。
どうやら私は思考の渦に巻き込まれてしまっていたらしい。
「あ、えっと」
「ユッキーの考えてること分かるよ。当ててあげようか」
私は一瞬ドキリとした。
もしかして今の考えてたこと、知られちゃったのか。
「私のやったピッキングがどうやったか考えてたんでしょう」
「え、あの」
私はまさかそんなことを言われるとは思わず、呆けた顔をしてしまった。
その私の態度に、彼女は勝手に勘違いして納得する。
「あ、やっぱりそうだったんだ。ふっふっふ、これは企業秘密だからそうそう簡単には教えられないんだけど、今回は特別に大サービスして教えてあげちゃおうかなー」
彼女は妙に上機嫌でわざとらしく、自分の胸ポケットから先ほど使った棒をチラチラと見せびらかしながら取り出した。
高柳さんは鉄の棒を何本か手のひらに乗せた。
そして彼女は嬉しそうに説明し始めた。
「えっとね、さっき使ったのがこれとこれで、この先端が鉤状になってるやつが――」
「さっきは助けてくれて、ありがとう」
私は彼女の言葉を遮って言った。
彼女は少しの間キョトンとして私を見つめていた。けれどすぐ理解して、彼女は笑顔になった。
「ああ、どういたしまして」
「私なんか助けたら高柳さんも、ひど――」
「そんなこと気にしたらダメだよ、私が勝手にやったんだから。それと、私なんかって言っちゃダメ。悪いのはあいつらなんだから」
今度は高柳さんが私の言葉を遮って、私の言葉を否定する。彼女の瞳は、真剣に私を気にかけているようだった。
何でだろう。何で、こんなにも私を助けてようとしてくれるんだろう。何で、私に話しかけてくれるんだろう。
「……何で」
私は無意識のうちに考えていた言葉を声に出していた。
「何でって、あいつらが悪いのに自分のことを卑下する必要なんか無いって思ったから、だけど。ダメかな」
「……そうじゃない」
何で高柳さんは私に構うの。私は彼女の本当の気持ちを知りたかった。
「そうじゃないって」
「何で私に話しかけたり、私を助けてくれたりしてくれるの……何で」
私は高柳さんの顔が見れなくて、うつ向いて早口で言った。高柳さんが私の言葉によってどんな表情になるのか怖かった。
高柳さんが今まで話しかけてくれたのは、後で裏切って私を絶望させるためなんじゃないか。本当は彼女は笹原さんたちの仲間で、わざと私をあの人たちから救ってみせて、信頼させようとしてるんだ。とか私は彼女の言葉を聞くまでの間、悶々としていた。
期待してはだめだ。期待して後で傷つきたくない。だから期待してはだめ。
高柳さんは暫く黙ったままだった。その沈黙が逆に私の不安を助長させていた。
「中学のときにね、友達が死んだんだ」
「え」
私は唐突な彼女の言葉に一瞬反応が遅れ、思わず顔を上げてしまった。
「自殺だったんだ。いじめによるね」
「いじめ」
「うん、いじめ。私はそのいじめを、知ってたんだ。でも、知らないふりして、見てみぬふりしてた。そしたら……死んじゃったんだ」
「……」
「私はさ、怖かったんだ。友達を助けたら今度は自分が標的にされるんじゃないかって。だから、私ははっきりいじめだと分かるまでとか、友達が助けを求めてきたらとか、色々理由をつけて見てみぬふりして、助けなかった。二年生に進級する前、友達は自分でいじめを終わらせた。彼女は私に助けてなんて一度も言わなかった。けど彼女は私に態度や目で色んなところで助けを求めてた。私はそれに気付いてて、やっぱり気付かないふりをしてた。それから一年くらいして後で見つかった彼女からの手紙には、私に本当は気付いてほしくて、助けて欲しかったんだって書いてあったんだ」
高柳さんはそこで一息ついて、青空を見上げた。
私も彼女につられて雲一つない晴天を見上げる。白い小鳥が一羽だけ空を舞っていた。
そして彼女は再び話し始めた。
「私はさ、その手紙を読んで彼女のお葬式の時より酷く後悔して、沢山泣いたんだ。自分は本当に彼女の友達だったのかって、友達だったら何で助けなかったのかって。そしてもう後悔しても、取り戻せないものがあるんだって気付いた。だから私はこれから後悔なんてしないように行動しようって、決めたんだ」
彼女はいつの間にか私の顔を真剣な眼差しで見つめていた。
「私の自己満足みたいなもんでユッキーを助けたんだけど、軽蔑したかな、それともがっかりした」
「ううん、納得した。辛い話なのに、その、話させて……ごめん」
ただの正義感だけとか可愛そうだからとか、また後で私に絶望を与えるためとかの理由で助けられたんじゃないと分かり、私はホッとした。
「全然。気にしないでよ。私が勝手に話したんだから」
高柳さんは私に笑顔で答えた。まだ少し私には辛そうに見えた。
突然話は終わりとばかりに彼女は立ち上がって、まだ座ったままの私に向きを変えて見下ろした。
「よし、暗い話はこれくらいにして。ユッキー、今日一緒にこのままサボっちゃわない」
「え、サボる」
彼女は先ほど見せた笑顔と違って明るくいたずらっ子のように笑った。
「そう、サボってどっか遊びに行こ。で、これから教室行って、鞄取ってきて帰ろ」
彼女は私の腕を引っ張って無理やり立たせた。そして私は彼女に連れられて屋上を出ていった。
それから私たちはお昼休みになってから教室に戻り、クラスメイトの色々な目線を浴びながら素早く荷物を鞄に詰めて教室を出た。
下駄箱までに先生たちとすれ違ったが、お昼休みが幸いして「今日は天気がいいからなぁ、外で食べると気持ちがいいだろう」なんて声をかけられるだけですんで、私たちは学校を出ていけた。
そしてその日、私は初めて無断で学校を休んでしまったのだった。
あの日(高柳さんと初めて学校をサボってしまった日)から、私はほとんど毎日のようにあったいじめが日を追う毎に少なくなっていった。そして最近では全く笹原さんたちによる嫌がらせやいじめがない。
これは一重に高柳さんが毎日私に話しかけたり、行動を共にしてくれているからだと感じ、感謝している。でも一番は彼女があの日、私を庇って助けてくれたおかげだと思うのだ。
そう、私は今まで感じたことがなかった学校に行くことの楽しさを実感している。
しかし私はそれと同時に、これは嵐の前の静けさなのではないのかと不安も覚えていた。
「カセットテープだよ。カセットテープ。聞くと呪われんの」
「何それー、ありえないって。誰がそれ言ってんの?」
隣の席から私と高柳さんの会話を遮って声が聞こえてきた。
今私のクラスでは呪いのテープの噂で持ちきりで、クラスメイトの噂話は私の耳にも直ぐに届いた。
何でもそのカセットテープは聞いてから3日以内に誰かに回さないと、中身を聞いた者はそれから一週間以内に呪いによって悲惨な死を遂げるそうだ。
「ユッキーは知ってる。呪いのカセットテープ」
私の机の前で今まで話していたものを中断して、高柳さんが尋ねる。
「噂は知ってるけど、そのカセットテープは見たことない」
「私も本物は見たことないんだ。噂ばっかりでさ、何か嘘っぽく感じるよね」
私は彼女の言葉に心の中で同意した。
噂ばかりで実物を見た者を私は一度も見たことがない。それはまるで、誰かが作為的に噂だけを触れ回っているようだった。
そしてもう一つ、妙な噂があった。こちらの方は、噂だけでなく本当にそれをやっている人達がいる。
この噂は誰か嫌いな人や憎い人がいたら、あるまじないで痛い目にあわせられる、またはこの世から消すこともできるというものだ。
このまじないを実際やっている人は私のクラスメイトだけでなく、他のクラスにも結構な人数がいる。友達同士そのまじないをやっていることを打ち明けあう者たちもいるが、大半は誰にも話さずに全く自分はそんなまじないなどには関わりがないという顔をしている。
私は呪いのカセットテープより、こちらの方がよっぽど怖くて(効くかどうかはまだ分からないが)真実味があると感じていた。
「ユッキーはさ、このカセットテープの話本物だと思う?」
「分からない、けど、私も誰かの悪ふざけみたいに思う」
「うん、うん。やっぱりそう思うよね。じゃあさ、もし話が本当だとして、そのカセットテープが目の前にあったらどうする?」
高柳さんは細長い指で長い私の髪に触れて言った。
彼女はよく私の髪に触れる。会話の中で何の前触れも無くこうやって彼女は触れてくる。よっぽど私の髪を気に入っているようだ。時々、彼女は触れるだけでなく後ろに回って、三つ編みにしたりお団子にしたりといじくることもある。
「私は……聴かないで捨てる」
私の場合、そのカセットテープがもし本物だったら色々と見えてしまうので、絶対にお近づきになりたくない代物なのだ。
「もしかしてユッキーこういうの駄目? 私は好きなんだけど」
「うーん、駄目というか危険だし……あ、やっぱり駄目かな。怖いし」
高柳さんはニヤッと笑った。
「じゃあさ、今度一緒にホラー映画でも見に行こうよ」
「……あの、私、今怖いから駄目だって言ったんだけど」
私が眉間にしわを寄せて言うと、彼女はよりいっそう笑顔になって答えた。
「だからいいんじゃん。怖がる人と一緒に見ることでより面白さが倍増する」
「高柳さんって、結構意地悪なんだね」
私が呆れ顔で皮肉って言ってみると、彼女は得意そうに笑った。
「今さら気付いたの? 私はこういう人間なんだよ。それからまた名字になってる。諒って呼んでよ」
「り、諒」
「うん、うん。そうやって、早く慣れてもらわなきゃ駄目だよ」
彼女と私はこうやって毎日、平和に学校生活を送っていた。私にとってはこの生活は一日一日が色鮮やかに映り、充実した日々だった。
そして私の幸福な日々の陰に、私をいじめていた彼女たちがとんでもないことに遭っていたなんて、この時私はまだ知らなかった。