第一章 精霊のいる朝
朝、目を覚ますと、竈の中でサラマンダーが寝ていた。
「……そこ、使うんだけど」
返事はない。
赤い蜥蜴によく似た小さな妖精は、灰の残る竈の奥で丸くなったまま、尻尾の先だけをぴくりと動かした。
「起きて」
今度は片目だけが開いた。けれど、どく気はないらしい。
「朝ごはん作れないでしょ」
『まだ眠い』
「知らないわよ」
火掻き棒を手に取ると、ようやくサラマンダーは身体を起こした。大きく伸びをした拍子に、背中から小さな火の粉が散る。
「ちょっと」
『燃えてない』
「燃えてからじゃ遅いの」
文句を言いながら薪を入れる。
サラマンダーは竈の端へ寄っただけで、出ていくつもりはないようだった。
「火、お願いできる?」
『やだ』
「じゃあ自分でつける」
火打石を取り出すと、サラマンダーがこちらを見た。
しばらく見ていた。それから、いかにも仕方がないという顔で薪の上へ息を吐く。
ぽ、と小さな火がついた。
「やるんじゃない」
『朝ごはん』
「それが目的ね」
昨日の残りのパンを薄く切り、鉄板の上へ載せる。端が少し硬くなっていたので、水を一滴落としてから温めた。鍋には野菜のスープが残っている。
温まり始めると、サラマンダーが竈の縁から首を伸ばしてきた。
「だめ」
『まだ何もしてない』
「する顔してる」
『失礼』
そう言いながら、もうパンを見ている。
私は一枚余計に温めた。
朝食を終えるころには、窓から入る光もだいぶ明るくなっていた。
皿を重ねて外へ出る。
井戸のまわりは朝露で濡れていた。桶を下ろそうとすると、水面から青い顔がひょこりと現れる。
「おはよう」
ウンディーネは返事の代わりに、水を一掬いこちらへ飛ばした。
「冷たい」
頬を拭う。朝から機嫌がいいらしい。
桶を下ろして水を汲み上げる。その途中で、綱がふっと軽くなった。
「ありがと」
水の中から細い腕が伸びて、桶の底を押している。楽になったので、そのまま引き上げた。
ところが地面へ置いた途端、桶の中で水がぐるぐる回り始める。
「こぼれるって」
ウンディーネが笑っている。
「手伝うのか遊ぶのか、どっちかにして」
『どっちも』
「一番困るやつ」
結局、少しこぼれた。
洗い物を終え、そのまま洗濯をする。
今日はよく晴れていた。
庭に張った綱へ洗った布を一枚ずつ掛けていると、背中に風が当たった。
「シルフ、ちょっとだけお願い」
返事はすぐに来た。
柔らかな風が洗濯物の間を抜けていく。これなら昼までには乾くだろう。
「そのくらいでいいからね」
言った直後、布がばたばたと大きく鳴った。
「そのくらいって言ったでしょ!」
風が一段強くなる。
端に干していた布巾が外れた。
「あっ」
白い布巾が空へ舞い上がる。シルフが楽しそうに追いかけていった。
「返して!」
飛んでいく布巾を追って庭を走る。二度ほど手を伸ばして失敗し、三度目でようやく捕まえた。
振り返ると、風が止まった。
「……次やったら頼まないからね」
どこかから笑い声だけが聞こえた。
たぶん反省していない。
もう一度布巾を綱へ掛け、今度は端をしっかり留めておく。そのまま畑へ向かった。
朝の土はまだ少し湿っている。
しゃがみ込み、葉の裏を見て、育ちの悪いものを選ぶ。雑草を抜こうと手を伸ばしたところで、土の中から小さな手が出てきた。
「そこにいたの」
土がもこりと盛り上がる。
ノームが顔を出した。頭に土を載せたまま、こちらをじっと見る。
「それ抜いていい?」
ノームは草を見る。
私を見る。
もう一度、草を見る。
『だめ』
「なんで?」
『まだいる』
「何が?」
答えない。
なら仕方がない。その草だけ残して、隣へ移る。
全部こちらの思い通りになるわけではない。
畑は私のものではあるけれど、土の中まで私一人の都合で回っているわけでもない。
別の場所の草を抜いていると、背後で小さな音がした。
振り返れば、さっき残した草の根元をノームが掘っている。何か小さな虫が出てきた。
「ああ、それ」
ノームは満足そうだった。
「終わったら抜いていい?」
『いい』
「はいはい」
こういうことなら、最初から言えばいいのに。
言わないのがノームだった。
籠へ収穫した野菜を入れ、庭へ戻る。
柵のそばでは、スプリガンがしゃがみ込んでいた。何をしているのかと思えば、昨日植え替えた花の根元を見ている。
「どう?」
『水が多い』
「昨日は暑かったから」
『多い』
「分かったって」
言われたので、今日は控えることにする。
スプリガンは庭のことになるとうるさい。私が枝を切りすぎれば怒るし、草を残しすぎても怒る。
かと思えば、自分が気に入った場所には勝手に種を運んできて、翌年になって知らない花を咲かせたりする。
「それ、どこから持ってきたの?」
庭の端に、見覚えのない芽が出ていた。
スプリガンは知らないふりをした。
「またでしょ」
返事はない。
「変なところに増えたら抜くからね」
『だめ』
「じゃあちゃんと面倒見て」
それで話は終わった。
畑から持ってきた籠を軒下へ置き、私は腰を下ろした。
まだ昼には少し早い。朝から動いていたので、腹はもう減っている。
小さな芋を一つ取り出して眺めていると、いつの間に来たのか、サラマンダーが足元にいた。
「何」
芋を見る。
「焼けって?」
頷く。
「自分で焼けるでしょうが」
サラマンダーは動かない。
仕方なく立ち上がり、竈へ戻った。
火を起こして芋を置く。
しばらくするとウンディーネも来た。シルフの気配も窓の外にある。庭からスプリガンまで覗いている。
「……みんな食べるの?」
誰も答えない。
食べるらしい。
焼けた芋を割り、皿へ載せる。
私は自分の分を取った。残りは勝手にすればいい。
サラマンダーが一番大きな欠片へ手を伸ばしたので、その前に取り上げる。
『それ』
「さっきパンも食べたでしょ」
『小さかった』
「あなたが大きいの取ろうとしたから半分にしたの」
不満そうな顔をされた。
知らない。
小さい方を渡す。
ウンディーネは焼いた芋より水気のある野菜の方を気にしていたので、畑で採ったものを少し切った。
風が吹いて、皿の端に置いた葉が動く。
「シルフ」
止まる。
「食べ物では遊ばない」
また少し動いた。
「聞いてる?」
窓の外から笑い声がした。
私は芋を一口食べた。
熱かった。
少し冷ます。
竈にはサラマンダーがいて、窓の向こうにはシルフがいる。外へ出れば、庭にはスプリガンがいて、畑の土を掘ればノームが顔を出す。水を汲みに行けば、たぶんウンディーネはまだ井戸で遊んでいる。
別に珍しいことではない。
少なくとも、私にとっては。
村の人には、私が一人で喋っているように見えることもある。たぶん、少し変わった女だと思われている。
それも、もう慣れた。
食べ終わった皿を重ねる。
「さて」
まだやることは残っている。
外では洗濯物が風に揺れていた。
「飛ばさないでよ」
返事の代わりに、ちょうどいいくらいの風が吹いた。
私はそれを確認してから、空になった籠を持って庭へ戻った。




