第2話「カフェあおいを守ってきた人」
テーブルの裏側に、指でなぞった跡が残っている。誰が、いつ、何のために付けたのかは分からない。ただ、その傷だけは、何度も何度も撫でられた痕跡があった。
巡回ルートは、何十年も変わらなかった。
0612エリアの外縁。低優先の保全区域。廃墟になった建物、使われなくなった通路、誰も来ない広場。
端末のリストの一番下に、カフェ「あおい」の名前があった。公式の扱いは「劣化監視のみ」。修繕計画はない。取り壊し予定もない。倒壊の危険がないか、季節に一度見ておけ、という指示だけが、古い文書のまま残っていた。
彼は、決まった曜日にそこへ行った。
屋根の一部が落ち、梁が斜めに露出している。窓ガラスはほとんどなく、風が通り抜けるたびに、細かい砂が床を走った。
カウンターは中央から折れ、椅子は倒れたまま、脚だけが空を向いている。
それでも、窓際のテーブルだけは、なぜか形を保っていた。脚が一本、床にわずかに沈み、天板には薄い埃の膜が乗っている。裏側に手を伸ばすと、指の腹が木目に届く。
ある年から、その裏側に触れると、指先が熱くなった。
最初は気のせいだと思った。手袋を脱ぎ、もう一度触る。熱は、消えない。
報告した。端末に写真を添え、「触感に違和感あり。局所的な温度上昇の可能性」と入力する。
返ってきたのは、定型の一文だった。
「木材の膨張・収縮の範囲内。異常なし。経過観察不要」。
それ以上の指示はなかった。彼は、それ以上追わなかった。上長に口で伝えることも、しなかった。
代わりに、その傷だけを拭くようになった。
埃を払い、湿気を柔らかい布で拭き、最後に指の腹で木目をなぞる。
直そうとはしない。埋めようともしない。傷の深さも、形も、変えなかった。
長年使ってきた道具の、取っ手を拭くような動作に近かった。
聖なるものでも、守るべき秘密でもない。
ただ、そこにあるものへの、癖のような手入れだった。
拭き終わると、指先の熱が、しばらく残った。それも、記録しなかった。
何年かが過ぎた。
ある日、若い男が来た。
調査員の腕章をつけ、端末を片手に、崩れた入口から入ってくる。足音が、枯れ葉を踏んで小さく響いた。
男は窓際のテーブルの前に立ち、身を屈めて裏側へ潜り込んだ。
シャッター音が、静かな空間に何度も重なる。角度を変え、光を調整し、傷を撮っている。レンズは傷の形を切り取っていたが、男の手が、木目の裏側に直接触れることはなかった。
彼は、倒れた梁の影から見ていた。声はかけなかった。男も、こちらには気づかなかった。撮影は、十分ほどで終わった。男は端末をしまい、急いだ足取りで去っていった。
その夜、指先の熱が、いつもより長く残った。
彼は宿舎に戻り、いつものように手袋をロッカーへしまった。指の腹を合わせると、熱はまだ引ききっていない。
何も記録しなかった。本日の報告書の欄は、「異常なし」のまま提出した。端末の送信音が、部屋の隅で小さく消えた。
翌週、巡回の日が来た。
彼はテーブルの前に立ち、手を伸ばしかけて、やめた。傷は、まだそこにあった。熱も、かすかに残っている。布を取り出す手も、動かなかった。
役割が終わった、と、理由は分からないが、そう思った。
手袋をはめ、次の区域の方へ歩いた。後ろでは、カフェの残骸が、風に砂を舞い上げながら、いつもと同じ沈黙のまま残されていた。彼は振り返らなかった。リストの次の項目が、端末の画面にすでに表示されていた。
彼は知らない。
拭き続けてきたあの傷の熱が、
未来の誰かの指先で、
そっと息をするように蘇ることを。




