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短編D-④『無名の痕跡』―「彼女の時空」―【23世紀・熱を残した人たち】  作者: Taku


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第2話「カフェあおいを守ってきた人」

テーブルの裏側に、指でなぞった跡が残っている。誰が、いつ、何のために付けたのかは分からない。ただ、その傷だけは、何度も何度も撫でられた痕跡があった。



巡回ルートは、何十年も変わらなかった。

0612エリアの外縁。低優先の保全区域。廃墟になった建物、使われなくなった通路、誰も来ない広場。


端末のリストの一番下に、カフェ「あおい」の名前があった。公式の扱いは「劣化監視のみ」。修繕計画はない。取り壊し予定もない。倒壊の危険がないか、季節に一度見ておけ、という指示だけが、古い文書のまま残っていた。


彼は、決まった曜日にそこへ行った。


屋根の一部が落ち、梁が斜めに露出している。窓ガラスはほとんどなく、風が通り抜けるたびに、細かい砂が床を走った。

カウンターは中央から折れ、椅子は倒れたまま、脚だけが空を向いている。


それでも、窓際のテーブルだけは、なぜか形を保っていた。脚が一本、床にわずかに沈み、天板には薄い埃の膜が乗っている。裏側に手を伸ばすと、指の腹が木目に届く。


ある年から、その裏側に触れると、指先が熱くなった。


最初は気のせいだと思った。手袋を脱ぎ、もう一度触る。熱は、消えない。

報告した。端末に写真を添え、「触感に違和感あり。局所的な温度上昇の可能性」と入力する。


返ってきたのは、定型の一文だった。

「木材の膨張・収縮の範囲内。異常なし。経過観察不要」。

それ以上の指示はなかった。彼は、それ以上追わなかった。上長に口で伝えることも、しなかった。


代わりに、その傷だけを拭くようになった。


埃を払い、湿気を柔らかい布で拭き、最後に指の腹で木目をなぞる。

直そうとはしない。埋めようともしない。傷の深さも、形も、変えなかった。

長年使ってきた道具の、取っ手を拭くような動作に近かった。

聖なるものでも、守るべき秘密でもない。

ただ、そこにあるものへの、癖のような手入れだった。


拭き終わると、指先の熱が、しばらく残った。それも、記録しなかった。


何年かが過ぎた。


ある日、若い男が来た。

調査員の腕章をつけ、端末を片手に、崩れた入口から入ってくる。足音が、枯れ葉を踏んで小さく響いた。


男は窓際のテーブルの前に立ち、身を屈めて裏側へ潜り込んだ。

シャッター音が、静かな空間に何度も重なる。角度を変え、光を調整し、傷を撮っている。レンズは傷の形を切り取っていたが、男の手が、木目の裏側に直接触れることはなかった。


彼は、倒れた梁の影から見ていた。声はかけなかった。男も、こちらには気づかなかった。撮影は、十分ほどで終わった。男は端末をしまい、急いだ足取りで去っていった。


その夜、指先の熱が、いつもより長く残った。


彼は宿舎に戻り、いつものように手袋をロッカーへしまった。指の腹を合わせると、熱はまだ引ききっていない。

何も記録しなかった。本日の報告書の欄は、「異常なし」のまま提出した。端末の送信音が、部屋の隅で小さく消えた。


翌週、巡回の日が来た。


彼はテーブルの前に立ち、手を伸ばしかけて、やめた。傷は、まだそこにあった。熱も、かすかに残っている。布を取り出す手も、動かなかった。


役割が終わった、と、理由は分からないが、そう思った。


手袋をはめ、次の区域の方へ歩いた。後ろでは、カフェの残骸が、風に砂を舞い上げながら、いつもと同じ沈黙のまま残されていた。彼は振り返らなかった。リストの次の項目が、端末の画面にすでに表示されていた。


彼は知らない。


拭き続けてきたあの傷の熱が、

未来の誰かの指先で、

そっと息をするように蘇ることを。

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