第1話「仕様書を書き換えた人」
【冒頭】
これは、名前を持たない人たちの記録です。
誰にも知られず、誰にも記録されなかった人たち。ただ、「彼女の時空」と同じ時代に、人知れずに、熱だけを残した人たちの物語です。「彼女の時空」幕間にも置かれています。どちらから入っても構いません。
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第1話「仕様書を書き換えた人」
数値を打つ仕事だった。
0612エリアの初期構築。
壁に埋め込むセンサーの感度、床下の振動吸収材の反応閾値、空調が許容する温度のゆらぎ。すべてを「最適」に揃えるための、許容値の入力。マニュアルの該当頁には、物理振動と温度ゆらぎの上限が、黒い文字で明記されていた。
誤差 0.001%。
それ以上は「異常」。それ以下は「無視してよいノイズ」。
境界は、そこにしかなかった。
彼は端末に向かい、指を動かした。画面の欄が、一つだけ空いている。他の項目はすでに埋まっていた。湿度、照度、空気清浄のサイクル。残りは、この一箇所だけだった。カーソルが点滅している。
0.001
と打つべきところを、彼の指は、
0.01
と打った。
画面を見直した。ゼロが一つ少ない。戻す手間は、数秒で済む。修正ボタンは、すぐ右下にあった。
なぜか、指先は、そのボタンの上で一度止まった。
彼は、そのまま承認を通した。
理由は、後から思い出せなかった。面倒だったのか。手が滑ったのか。画面の反射で、桁が読みにくかったのか。どれも、確かな記憶にはならなかった。
ただ、その日の午後は、別のエリアの仕様書が三件続いていた。夕方には、レビュー用の資料が机に積まれ、0612の数字は、仕事のひとつにすぎなくなっていた。
翌週、初期設定の合同レビューがあった。許容値の一覧が、会議室の壁面に投影される。0.01%の行は、誰の目にも止まらなかった。
誤差の範囲として、通った。
彼も、自分の打ち間違いを、その場では思い出さなかった。隣の席の技術者が、別の項目の小数点を指摘している。議論はそちらへ流れた。0612の欄は、緑色の「承認済」のまま、画面の端に残った。
それから、何年かが過ぎた。
彼は現場を離れた。別のプロジェクトへ移り、別の数値を打ち、別の承認を通した。
0612エリアの名前を耳にする機会は、次第に減った。たまに社内の稼働報告で「安定」の一文を見かける程度だった。
写真付きの記事に、整然と並ぶデスクと、無音の通路が写っている。誰もいない。それが、正常の証だと、彼は思っていた。
ある夜、自宅の端末に、古いログのバックアップ通知が届いた。開く必要はない。削除してよい、と表示されている。保存期限が切れている、とも書いてあった。彼は、指を伸ばしかけて、止めた。
理由は分からなかった。
画面を閉じた。
部屋の空調が、設定どおりの低い音を立てている。温度は、最適値のままだった。窓の外では、管理された街灯が、決まった間隔で点いている。風の音は、ほとんどしなかった。
彼は、自分の指先を見た。
キーボードから離したばかりの右手の、人差し指の腹だけが、ほんのわずかに熱を持っていた。 筐体の熱か、摩擦か。すぐに引く程度の、小さな熱だった。
打ち間違えた数字の感触は、もうなかった。ただ、どこかで、消されなかった遊びが、まだ残っているような気がした。
0.009%の、名前のない隙間が。
システムが「無視してよい」と判定したはずの、わずかなゆとりが。
気のせいだと思った。
翌朝、いつものように出社した。新しい仕様書が、机の上に置かれていた。カーソルが、また点滅している。彼は椅子に座り、指をキーボードの上に置いた。
彼は知らない。
その「0.01%」が、
数十年後、ある女性の背中の奥で、
かすかな痒みとして目を覚ますことを。




