第3話「暗闇の向こう側」
「……ここ、どこだ?」
薄暗い部屋の中で、男の声が響いた。
虎瀬ルイは、ゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界。
古びた天井。
見慣れない照明。
そして、ひんやりとした空気。
「……頭いてぇ」
額に手を当てる。
何が起きたのか、思い出せない。
確か、自分は――。
「1239番……」
そこまで呟いて、虎瀬は眉をひそめた。
「……俺、何してたんだ?」
ガチャリ。
突然、扉が開いた。
「起きましたか!」
入ってきたのは戦国シズクだった。
その後ろには、タキガスキ、番場、アイーラの姿もある。
アイーラは虎瀬を見るなり、ほっとしたように息を吐いた。
「生きてるじゃん」
「……そりゃ生きてますよ」
「よかったぁ。じゃあ牛丼食べられるね」
「今、それ関係あります?」
「あるよ。安心したらお腹空いた」
番場が呆れた顔をする。
「支配人。今は事件の確認を」
「わかってるって。あとで大盛り食べるから」
「聞いてません」
そんなやり取りをしている横で、タキガスキは虎瀬をじっと見ていた。
「虎瀬さん」
「……なんです?」
「何を覚えていますか?」
虎瀬は少し考えた。
「……俺は1239番にいた」
「その後は?」
「……わからない」
「誰かに会いましたか?」
「いや……」
虎瀬は頭を押さえた。
「そこから先が、完全に抜けてる」
タキガスキは黙った。
そのとき、番場が口を開く。
「ですが、これで一つだけ確定しました」
「何が?」
「1239番で発見された死体は、虎瀬さんではありません」
虎瀬の顔から、表情が消えた。
「……死体?」
「はい」
「誰が死んだんです?」
誰も答えられない。
虎瀬本人が生きている。
ならば、あの死体は一体誰だったのか。
タキガスキは静かに言った。
「確認しに行きましょう」
1239番。
そこには、事件直後と同じように血痕が残っていた。
だが――。
死体がない。
「……あれ?」
湊リツが声を上げた。
「死体は?」
誰も答えられなかった。
つい先ほどまで、確かにそこには男の死体があった。
それが、跡形もなく消えている。
番場が周囲を見回す。
「誰かが運び出した?」
「でも、誰も見てないよ」
リツが答える。
「それに……」
タキガスキが床を見る。
「ここには、死体を運んだ痕跡がある」
床には、薄い擦れ跡が残っていた。
血痕の一部が、1239番から少し離れた場所まで続いている。
「引きずった跡……ですか?」
番場が尋ねる。
「たぶん」
タキガスキは跡を追う。
しかし、それは途中で途切れていた。
その先にあるのは、壁だった。
「……ここで消えてる」
桐ヶ谷トウマが壁を見た。
「壁の向こうに何かあるかもしれません」
「わかるの?」
「こういう古い建物は、後から壁を作って設備を隠すことがあります」
トウマは壁を軽く叩いた。
コン。
コン。
場所によって音が違う。
「……やっぱり」
「何かある?」
「空洞です」
そのときだった。
「搬入口を確認した方がいいと思います」
戦国シズクが言った。
タキガスキが振り返る。
「搬入口?」
「死体を外へ運び出した可能性があります」
「なるほど」
タキガスキは頷いた。
だが、少しだけ考える。
「……でも、今は豪雨です」
「はい」
「外に運び出すなら、かなり目立つ」
「そうですね」
シズクはあっさり答えた。
「だからこそ、店内の別の場所に移した可能性もあります」
タキガスキはシズクを見た。
「……詳しいですね」
「スタッフですから」
シズクは笑った。
「店の構造くらい、ある程度は把握していますよ」
「そうですか」
タキガスキはそれ以上聞かなかった。
「ちょっと待って」
アイーラがスマートフォンを見ていた。
「どうしました?」
番場が聞く。
「SNS」
「また何か?」
「もう事件のこと書かれてる」
アイーラが画面を見せる。
そこには、
《アイラソソドで殺人事件?》
《1239番で人が死んだらしい》
《虎瀬ルイが殺されたってマジ?》
そんな投稿が並んでいた。
「……早いですね」
リツが呟く。
「虎瀬さんって、本当に有名なんだな」
「1239番とセットで有名なんですよ」
番場が言う。
虎瀬は少し気まずそうに頭を掻いた。
「……まあ、毎回そこだからな」
アイーラがスマートフォンをしまう。
「宣伝効果はすごいね」
「支配人」
番場が睨む。
「冗談だって」
アイーラは少し考えてから、
「……でも牛丼食べたい」
「事件中ですよ」
「だからお腹空くんじゃん」
タキガスキは再び1239番の前に立った。
視線を上へ向ける。
そこには業務用エアコンがある。
「……これなら」
タキガスキは手を伸ばした。
ぽたり。
指先に冷たい水滴が落ちる。
「タキさん、それ……」
「空調の水です」
タキガスキは水滴を舐めた。
瞬間。
視界が変わる。
暗い。
何かを引きずる音。
床を擦る音。
そして、誰かの足音。
一人。
いや――二人。
「……」
誰かが死体を引きずっている。
その後ろを、もう一人の人物が歩いている。
しかし顔は見えない。
照明が暗い。
ほんの一瞬だけ、店内が闇に包まれている。
防水シャッターが作動している影響だ。
そして――。
死体を引きずっていた人物が、壁際で止まる。
何かを操作する。
カチャン。
壁の一部が開いた。
そこへ死体を引き込んでいく。
「……!」
タキガスキは目を開いた。
「どうしました?」
番場が聞く。
タキガスキは壁を見る。
「死体は、外には出ていない」
「じゃあ……」
「この壁の向こうだ」
トウマがすぐに壁へ近づく。
「やっぱり空洞があります」
「開けられる?」
「たぶん」
トウマが壁の端を探る。
すると――。
カチッ。
小さな音がした。
壁の一部が少しだけ動いた。
「ありました」
「本当に?」
リツが覗き込む。
トウマが力を入れる。
ギギギ……。
古い音を立てながら、壁の一部が開いていく。
その向こうには、細い通路があった。
「……何これ」
番場が呟く。
通路の先には、古びた鉄製の扉がある。
タキガスキが近づく。
扉には、かすれた文字が残っていた。
『お仕置き部屋』
「……お仕置き部屋?」
リツが首を傾げる。
「店にこんなのあったの?」
番場も困惑している。
「俺も知らない」
その横で、月山ゲンドウだけが黙っていた。
「……月山さん?」
タキガスキが振り返る。
月山は扉を見つめている。
「知っているんですか?」
しばらく沈黙したあと。
月山は低い声で答えた。
「……昔は、ここにあった」
「昔?」
「今のアイラソソドになる前だ」
月山の目が細くなる。
「この辺りには、もっと多くの古い設備があった」
「じゃあ、この部屋は……」
「使われなくなっただけだ」
月山はそう言った。
だが、その表情は明らかに何かを隠している。
タキガスキは扉に手を伸ばした。
冷たい。
そして――。
扉の隙間から、わずかに風が吹いてくる。
「……空調が動いてる?」
トウマが呟いた。
「こんな古い設備なのに?」
タキガスキは扉を見つめた。
そして、静かに言った。
「死体は、ここを通ったんだ」
その瞬間。
扉の向こうから、
――カチャン。
小さな音がした。
全員が黙り込む。
誰も触れていない。
それなのに。
もう一度。
――カチャン。
まるで、
中から誰かが鍵を開けようとしているような音だった。
タキガスキは、ゆっくりと扉の取っ手に手をかけた。
「……開けます」
その先に何があるのか。
誰も知らない。
ただ一つだけ分かっていることがある。
消えた死体は――
この先にある。
――第3話 終




