37. パワハラ鬼畜陰鬱吸血鬼
「十年前から全く姿が変わっていない、ということですか?」
東城は彼の言おうとしていたことを見事に当てたようだった。早袖さんは驚いたように東城を見つめて、「は、はい」と大きく頷く。
「十年前に彼女を見た時は、もちろん一瞬のことだったし、話もしなかったんです。目が合って、少しの間があって……彼女は去って行ってしまった。
でも…あの光景は僕の脳裏に鮮明に焼き付いています。再びここで彼女に出会った瞬間、まるであの時の白昼夢を見ているのかと思ったほどです。でもやはり、何かがおかしいことに気づいて———。十年前僕は18歳だった、彼女は一見大人っぽく見えますが、それでも当時の彼女の顔つきからして、僕と同い年か、年下だとさえ思ったんです。十年の間に、顔つきや背格好、さらに着ているものまで全く変わらない女性なんているんでしょうか…」
東城は彼の話を聞きながら、すっと後ろに背をもたせかけて顎に手をやった。この「探偵ポーズ」は相手の信頼を得るための東城の策略なのかと最近は思い始めている。
「人間の記憶は都合のいいように書き換えられるものですし、十年前に一瞬だけ見た彼女の姿と今の姿を錯誤するのも無理はありません。それにやはり同じ人間ですから、十年の月日が経ったとしても姿があまり変わらないのは別に怪しいことではない」
と、東城が彼の話に対して極めて合理的で現実的な反対意見を述べたので、早袖さんは「えっ、で、でも……」と戸惑う。
「————などと言う人はいるかもしれないが、僕はあなたの見当違いだとは言いません。現に血液探偵事務所にこの依頼を持ってきたことについては、その予感は正しいと言える」
「つ、つまり…」
「まあ、そのレイラさんは大方人間ではないでしょう。僕もさっき会ったところですし」
「えっ…」
とあたしと早袖さんは同時に驚いた声を上げる。さっき会った?
「会ったというか、見かけたというか。まあ、気配や匂いで察しただけですが」
それってもしかして、さっきペンションに入る前にいきなり立ち止まった時?でも、人がいたとしても遠くだったし、すぐに屋内に入って……いや、人間より鋭い嗅覚を持つ吸血鬼のことだ。あの時何か感じとったのかもしれない。
「それで、結論から言ってしまいますが」と東城は前置きをして、
「残念ながら、僕は今回あなたをお助けすることはできません」
とキッパリと言い放った。
「え…」
「今回の依頼の内容としては、“彼女の異変を調べ、もし可能なら彼女を救うこと”でした。しかしもう何十年、いや何百年かあの姿で生きてきた彼女に対して僕は何もできませんし、そもそも彼女が誰かに“救われる”ことを望んでいない可能性だってある。僕からあなたに何か助言できるとすれば……彼女のことはきっぱり諦めて、今後一切関わらないことです」
東城の言葉を聞いた早袖さんは、愕然とした表情で彼を見つめたまま動かなくなった。
「ちょ、ちょっと、東城探偵……」
東城の冷たい物言いに、あたしは思わず口を開いた。
「あの、もうちょっと柔らかな言い方はないんですか?苦労してうちの事務所を調べて、せっかく頼っていただいた方にそんな冷たいこと…」
全く、この探偵は人間の繊細な心情を察して、空気を読んだりすることはないのだろうか? あたしがなんとかフォローするように言うと、東城はむしろあたしの態度の方が不思議だとでも言うように言い返す。
「冷たい?僕は事実を言ったまでだ。変に誤魔化せば事態はもっと悪化するし、早袖さんも、なおさら傷つくことになる」
……それは超正論なんだけど。
しかし顔色ひとつ変えずにシビアなことを告げられれば誰だって絶望するだろう。それに———これはあたしの憶測だが———長年恋焦がれていた相手に十年ぶりに再会したって言うのに、その矢先に彼女は人間じゃないからキッパリ諦めろなんて、心が折れる程度ではない。
早袖さんを振り返ると、彼は案の定ガックリと肩を下ろして力なく床を見つめている。
「そ、その…、心中お察しします。何か私たちにできることがあればおっしゃってくれれば……」
「ああ、ちなみに今回のことに関して依頼料はいただきません。あなたの依頼は遂行していませんから」
せめて優しい言葉を投げかけようとしたあたしの横で、東城がなおも事務的に言い放つので、あたしは彼を睨む。
「お言葉ですが、東城探偵。何もフォローしないんですか?せめて、彼女のことをもう少し詳しく伝えるとか、彼女と話をして、なんとか早袖さんの納得のいくような形で仲を取り持つとか…」
「仲を取り持つ?人間が人間でない者に関わることは一番避けるべきことだ」
いやいや、あたしは思いっきり関わっているじゃない。まあ確かに過去の私の経験から言うと、避けるべきなのもわかるが、その人を真剣に想っている人からすれば、そう簡単に諦められるものでもないだろう。
「えっと、レイラさんと今回会った時はどんなお話をしたんですか?彼女、さっきは少し寂しそうな感じでしたけど…」
「ん?」
あたしが早袖さんを気遣って投げかけた言葉に、東城はピクリと反応した。
「君、まさか彼女に会ったのか?」
「え?あっえっと、さっきあの湖の湖畔で…」
あたしが慌てて言うと、東城は、はあっと鋭いため息をつく。
「じゃあなんですぐさま報告しないんだ。さっき聞いただろう」
「だって、まさか彼女が依頼に関係してるなんて思ってもみなかったし。東城の方こそ、あたしがいないところで勝手に話を進めてるせいで、全然話が見えなかったんだから!」
「それは君が本来の役目も忘れて、のんびりほっつき歩いているからだろう」
「まったく、少しの休憩も許されないわけ?前から思ってましたけどね、パワハラと労働基準法違反で訴えてやるんだから!」
「正規雇用契約書がないままどうやって訴えるというんだ?それとも壺の弁償代貸付書類を先に書いておくか」
「うっ…。そ、そうやって他人の弱みにつけ込んで、人助けなんてはなから考えてないくせに!」
「今まさにしているだろう」
「はあ?どこが?冷たいこと言って突き放してるだけじゃない!」
「それが一番人を傷つけない方法だとわからないのか?特に彼女が人間ではないとわかった今———」
「えっとー…」
と、東城との言い合いに夢中になっていたせいで完全に存在を忘れていた早袖さんの声で、あたし達は同時にハッとした。
「あっす、すみません!」
「失礼しました」と東城は咳払いをする。
「あの、本当に、なす術はないのでしょうか?」
と早袖さんはなんとか心を持ち直すように言う。
「レイラさんが人間でないということは…やはり僕の抱いていたおかしな妄想は、単なる妄想ではなかったということですか?」
早袖さんは信じ難いような、でも同時に何かを確認するような複雑な表情を浮かべる。
「そうですね。あなたはその“おかしな妄想”を頼りにこの血液探偵事務所に辿り着いた。それに、合言葉の手がかりである本のことも知っていらっしゃる」
東城が少し低い声で彼に答えると、早袖さんは「…そうですか」と静かに呟く。
合言葉である本というのは、きっとブラム・ストーカー作の「ドラキュラ」のことだろう。早袖さんは、きっと彼女が人間ではない、世間一般では空想上のものとして考えられている「吸血鬼」であることを、血液探偵事務所に行き着く過程でなんとなく、察していたのだろう。
「今までの僕ならこんなことは信じられませんでしたが…レイラさんに今回会って、お話ししたことで、全ての不審点に合致がいったように思えます。それに、僕があの小説に描いた「彼女」も、やはり人間ではなかった」
『湖の彼女』を私は読んだことはなかったが、ジャンルとしては、ホラーミステリーだったことを覚えている。
「でも…やはり僕は、できることがあるなら、彼女の力になりたいんです。彼女が何かを思い詰めているのは知っています。それは、僕なんかじゃ力にならないことかもしれない。でもせめて、彼女のことを知りたい。十年前のように、いえ、僕の小説のなかの「彼女」のように、このまま幽霊のように消えていってしまって欲しくないんです。……数少ないですが、彼女の笑った顔を見たとき…彼女には幸せでいてほしいと思いました。身勝手なのはわかっているのですが」
東城はしばらく早袖さんを見つめていたが、長い沈黙の後に、はあ、と大きくため息をついた。
「まあ、この助手がうるさく言い張るので、最低限のことをするくらいはできますが」
と、東城はわざとらしくあたしに視線を刺してから、重い腰を上げるように言った。
「やはりお勧めしませんね、吸血鬼と関わるのは。特に、恋慕などもってのほかです」
「えっ、れっ、恋慕なんて、そんな…」
早袖さんは顔を赤くし、慌てて否定するように言ったが、まあ誰が見てもそれは明らかだろう。東城だって空気は読めずとも、それはわかっているようだった。
○
まったく、東城という上司とあたしは永遠に分かり合えない関係なのだろう。というか、東城は頭はいいはずなのに、何かにつけて理不尽でぶっきらぼうだ。
「喜べ、君が一番欲しがっていた休暇を出す。小遣いをやるから軽井沢を楽しんでくるといい」
早袖さんとの話が終わって部屋に戻ってくるなり、東城は突然あたしに「休暇」を言いつけたのだ。レイラさんにもう一度会ってお話ができると、少し嬉しく思っていたあたしは、困惑を隠せない。
「な、なんでいきなり?」
「レイラさんと話をするのは僕だけでいい。君のやる仕事は今回ない」
「だ、だってせっかくさっき友達になったのに。それに、早袖さんをこのまま放っておけないって言い出したのはあたしの方だよ?」
「だから君の頼みを聞いてやっているんだ、大人しく休暇を楽しんでくれ」
「なんでそうなるのよ!」
意味のわからないことを言う東城にあたしがしびれを切らしながら言うと、少し間があった後、
「君を今後一切、吸血鬼に近づけさせたくない」
と彼は少し低い声で呟いた。でも、そんな理由はさらに納得がいかない。
「何よそれ。血液探偵事務所の助手をやっていて、吸血鬼に近づかないなんてことできるわけある?」
「仕事の形態を変える。これから君は事務と連絡係だ」
「それ、超雑用じゃない!そんなつまらない使いっ走り、絶対いや」
「つまらない楽しいの問題じゃないだろう、仕事は仕事だ。助手はいかなる時でも探偵のいうことを聞かなければならないというのを忘れたのか?」
「…このパワハラ鬼畜陰鬱吸血鬼!」
とあたしが勢いに任せた罵り言葉を放つと、東城の額にもピキッと筋が入る。
「へらず口叩いてるとそのうち痛い目を見るぞ」
「ふんっ!痛い目に遭ってるのは一体誰のせいかしら!」
あたしはそう吐き捨てて部屋を後にしようとしたところ、「一花、待て」と東城に引き留められる。
彼が考えを改めるなり、最低でも謝ってくれるのかと淡い期待を抱いて振り返ったが、彼はそんなあたしに五千円札を手渡し「今回のボーナスだ、大切に使え」と言い残しただけだった。
あたしがその五千円札をひったくってペンションを後にしたのは数時間前のことである。
全くなんなのよ、子供扱いして! お小遣いをあげたらあたしが黙るとでも思ったの? 大体、いつも指図と命令ばかりで、あたしの意見なんて聞いてくれたことないんだから!
と、あたしは一人で心の中で怒りながらも、行く当てもないので仕方なく近くの屋外アウトレットモールにやってきて辺りをぶらついていた。
外はあたしの心とは裏腹に清々しいほどのいい天気で、おしゃれな敷地内には家族づれやカップルが、アイスやドリンクを片手に買い物袋を下げて思い思いにリゾート気分を楽しんでいる。
そりゃ休暇が欲しいとは言ったけれど、さあこれから依頼に取り掛かるぞって時に、いきなり休暇を言い付けられたんじゃ、締め出しを食らった気分だ。「吸血鬼に近づけさせたくない」なんて理由も、よくわからないし。大体、あなた自体が吸血鬼じゃない!
「あ、お姉さん、クレープのトッピング無料券をどうぞ…」
先ほどから「クレープのトッピング無料券をお配りしてまーす」と、フードワゴンが並ぶ通りでビラ配りをしている声はなんとなく聞こえていた。
まあ避暑地の休日においてこれだけ人で賑わっているのだ、クレープスタンドの営業も捗るだろう。こうなったら渡されたこの五千円で、とびきりのクレープを頂いて、ついでに美味しいコーヒーも買って、おしゃれな店で可愛い雑貨でも買ってやろう。
と、あたしが半分ヤケになりながら、目の前に差し出された無料券を受け取ろうとした時だった。
無料券付きの小さなチラシを配るお兄さんとお互いに目があった瞬間、あたし達は同時に声を上げた。
「えっ」
「あっ」
次回、38. 日干しの刑
「日干しの刑」とは、太陽嫌いの吸血鬼に効果的めんだろうと、冗談であたしが考えついたものだったが、実際にあるらしかった————




