36. 『湖の彼女』
「え…」
あたしは思わず小さな声を漏らしてしまった。
その声に、彼女はビクッと反応してこちらを振り返る。さっき落とそうとしていたネックレスを慌てて隠すように握り直し、淡いブルーの瞳で真っ直ぐにこちらを見つめる。
正面から見る彼女はまるで可憐な人形のようだった。大人っぽく見えるが、意外とあたしと歳が近いのかもしれない、表情にはまだあどけなさも残っているような気がした。
「あ、こ、こんにちは」
彼女は何となく気まずいような笑みを浮かべ、こちらに軽く会釈をした。
見知らぬ女の子がこの人気のない湖に突然現れるたのは予想外だったようだ———でも、さっき何をしようとしていたんだろう?
「こ、こんにちは」
あたしも彼女と同じくらいぎこちない挨拶を返しながら、続けて謝まった。
「あの、すみません。何だか邪魔しちゃったようで」
「いえ、そんな。ただ、ぼうっとしていただけです」
彼女は再び笑みをつくって、首を振った。西洋人らしき風貌だが、彼女の日本語はとても流暢である。
お互いに探り合うような変な間が空いてしまい、あたしは思い切って口を開く。
「あ、あの、ここのペンションに泊まっているんですか?」
「あ、はい」
彼女が日傘を傾け、もう片方の手で、そのややカールがかった髪を耳にかけながら答えた時、その手に先ほどのネックレスがかかっているのが見える。
「えっと、何泊かしているんですか?」
どうやら口数が少ないらしい彼女との会話が途切れて、再び気まずくならないよう、あたしは質問を重ねてみる。
「そうですね…。仕事で」
「えっ私も仕事のようなもので来てるんです」
思わぬ共通点にいささか驚いて言うと、彼女もふと眉を上げる。
「あら、そうなんですか?」
「はい。こんな素敵なところまで来て仕事なんて、なんか勿体無いですよね」
あたしは周りの景色を見渡して、はあっとため息をつくと、彼女はクスッと微かに笑いをこぼした。
「ええ、そうですね」
「あの、お仕事って何をされてるんですか?」
何気なく聞いてみると、彼女は控えめな笑顔で言った。
「モデルをしているんです。今回は軽井沢がロケ地で」
なるほどと言ったところか、こんな美少女をモデルプロダクションが放っておくわけがない。その透き通った雰囲気は、新緑の軽井沢の風景にぴったりと合っていて、どこを切り取っても素敵な写真になるに違いない。
「へえー!モデルかあ……なんか憧れちゃうな」
「そうですか?モデルって結構自由がなくて、色々大変ですけど」
と苦笑した彼女を見ると、確かに大変そうだと思わざるを得ない。
「あなたはどんなお仕事で……?」
やばい、聞かれたくない質問を聞かれてしまったと思いながら、答えないというのも失礼な気がして、曖昧に返す。
「えっとー…一言では説明しにくいのですが、上司のアシスタントのようなものです」
「へえ、アシスタント。何だかかっこいいですね」
「い、いや、そんなことないです。ただの雑用係だったりするので」
「雑用係も、大変そうですね」
「実はそうなんですよ!一息つく暇もないくらい」
思わず強く頷いてしまうと、彼女はその白い指先を口に添えて「ふふっ」と上品に笑う。
「上司の方って人使いが荒いのかしら」
「ほんとにそうなんですよ…!」
言い当てた彼女にあたしは強く賛同しながらも、先ほどから彼女の指先に引っかかっている、曰くありげなネックレスが気になって、思わず口にしてしまった。
「そのネックレス……綺麗ですね」
「ああ……これ」彼女は手の中のそれに視線を落とし、ふと綺麗な顔を翳らせた。
「この湖に捨てようと思っていたんです」
「えっ、こんなに綺麗なのに?」
「はい…。もう、思い出したくないので」
「えっと…」
「あ、気にしないでください。昔の恋人の話です」
彼女が寂しそうな笑顔を向けてそう言ったので、あたしは何も言えなくなってしまった。
「…そうですか」
何となくまた気まずい沈黙が流れたあと、あたしは結構立ち話をしてしまったことに気づいた。ダイニングルームから遊歩道を歩いてきたことを考えると、けっこう時間が経っているに違いない。
東城が腕を組みながら苦い顔をして「どこをほっつき歩いていたんだ。何か見回りして気づいたものはあるか?」と聞いてくるのは容易に想像がつく。
「あ、あの、あたしもう戻らなきゃ。何泊かするので、また会えますよね?」
最初こそぎこちなかったが、何だか彼女に偶然ここで会えてよかった気がした。それに、また話したいこともある。
「はい」
あたしの言葉で、さっきの寂しい笑顔から、ふっと自然な明るい表情を取り戻した彼女を見ると、向こうもあたしと同じように思ってくれているかもしれない。
「じゃあまたどこかで!」と立ち去ろうとした瞬間、名前を聞いていなかったことに気づく。
「あ、あの、お名前……」
「わたし、レイラです」
「レイラさん、素敵な名前!」
「あなたは?」
「一花です、真田一花」
「一花さん…素敵です」
あたし達はお互いに微笑み、もう一度さよならを言った。
元来た道を戻りながらも、一緒にこの高原の気持ちいい晴天の下でお喋りを楽しめる知り合いができて、嬉しくも思っていた。
◆
ペンションに帰ると、さっきはがらんとして人気のなかったダイニングルームに人影が見えた。
端っこの方の小さな丸テーブルに、東城と向き合って誰かが座っている。パリッとした白いシャツを着た男性は、入ってきたあたしに気づいてこちらを振り返る。
「やっと帰ってきたか」
と、案の定東城はこちらを見て腕を組む。さほど真面目に見回りなどしていなかったので、彼に何か言われる前に、その向かいの男性について聞こうとすると、「あの…」と男性の方が先に東城に問いかけるようにおずおずと口を開いた。
「ああ、彼女がうちの探偵助手、真田一花だ」
と、東城はこちらに軽く手を向けてあたしを紹介した。
「あ、どうも、初めまして」
あたしは会釈しながら、もしかして彼があの手紙を出した依頼人かもしれないと予想する。身なりのきちっとした好青年で、いかにもあの爽やかで礼儀正しい手紙の差出人っぽい。
「一花、こちらは早袖直人さん———今回の依頼人だ」
「初めまして、一花さん。この度はお世話になります」
東城にそう紹介された彼は、わざわざテーブルから立ってこちらに深々とお辞儀をしたので、あたしも慌ててもう一度お辞儀を返す。
「早速だが、先ほどの依頼の話に戻りたい。この助手がただの散歩ではなく、辺りをきちんと見回っていれば話は早いんだが」
と言って東城はあたしの返答を促すようにこちらに視線を向ける。
「えっと〜……」
「何か気づいたところや不審な点は?」
「遊歩道の先に綺麗な湖があったってことぐらいかな」
「ああ、あの湖、とても綺麗ですよね」
東城の反応はともかく、早袖さんは和やかな表情であたしに同調してくれた。
「このペンションの周りは、車ですぐ行ける距離に綺麗な景色が多いんですよ、」
早袖さんはそう言って、「もし時間があれば滞在中に行ってみてください」とにこやかにあたしと東城にお勧めした。
まあ、車もなければ観光に行くという概念もなさそうな彼が、あたしを連れて行ってくれる望みはかなり薄かったが。
「それで、ご相談の件ですが」
東城は早袖さんとあたしをもう一度元のレールに話を戻すように軽く咳払いをして言った。
「彼女の異変に気づいたのはいつ頃ですか?」
……彼女?異変?
東城は、先ほどまで進められていたであろう会話をあたしに説明してくれる気はないようで、文脈のわからないあたしは眉を寄せた。
「5日前くらいですかね、まあその前も彼女のことは少し変だと感じていたのですが」
早袖さんは少し表情を翳らせて答える。
「たとえば具体的に?」
「その、彼女のモデルの仕事が忙しいことは解っているのですが、朝食や夕食どきには決まって彼女の姿がなく、いつも体調が悪そうな顔をしているのです。彼女に声をかけてみても、大丈夫です、気にしないでください、となんとなく流されるだけで……。もしかして撮影などでかなり重労働をさせられているんじゃないかとか、やはりモデルだから、食事制限があるんじゃないかとか、色々と気に病むのですが」
あたしはそれを聞きながら、「モデルの仕事」という言葉に、思わずハッとする。
「そうですか。しかしそれだけで、なぜうちの探偵事務所に依頼を?」
東城は相手を探るように目を細める。
「その……」
早袖さんはそこで言い淀み、複雑そうな表情を浮かべて打ち明けた。
「実は、十年前に、僕が初めてこの軽井沢に訪れた際にも、彼女を見たことがあるんです」
その言葉に、私はかすかに息を呑んだ。隣の東城もすっと眉を寄せる。
「その時僕はまだ学生で、家族旅行でこのペンションに来ていました。そして、ちょうどこのペンションから林道を行ったところにある小さな湖の湖畔で、彼女に出会ったんです。
その時の情景は鮮明に覚えています———新緑の湖畔に佇む、白いワンピースを纏った彼女は、まるで現実とは思えない、美しい絵画のような光景でしたから」
あたしは彼の話を聞きながら、まるで完璧なデジャヴを感じていた。それは、あたしがさっき初めてレイラさんに会った時とそっくり同じ光景だった。
「でも、僕が彼女に声をかけようとすると、彼女はこちらを振り返って一瞬驚いたような顔をして……それから、逃げるように林の奥に駆けて行ってしまったんです」
早袖さんはそこで言葉を止め、テーブルに添えられた小さな野花を、なんとも言えない表情で見つめた。
「……ほんの一瞬のことだったんですが、振り返った彼女の、まるで妖精のように美しい姿や、彼女が見つめていたその湖の聖櫃さが、僕の脳裏から離れなかったんです」
あたしと東城は黙って早袖さんの話に耳を傾けていた。もしかして、早袖さんはその時 “彼女” に一目惚れしてしまったのかも、とあたしは思い始める。
「幽霊とか、白昼夢だったんじゃないかとも思いました。もう一度彼女に会えることを願って、僕は滞在中に何度もその湖に行ってみたのですが、結局ここを去るまで彼女には会えなかったんです。でもその後も、しばらく彼女のことが頭から離れずに……それで、僕は、書き始めたんです」
「えっと、何をですか」
あたしが思わず口を挟むと、
「小説です」
と早袖さんは少し恥ずかしそうな顔で答えながらも遠慮がちに聞く。
「……“袖早なお”という作家を知ってますか?」
「えっ」
あたしは思わず大きな声を出してしまった。そして瞬間、彼の風景描写がなぜ文筆的なのかを理解する。
「も、もちろん!えっと、まだ若いのに、処女作でいろんな文学賞を総なめにして大注目されていた“天才”作家ですよね!?あの、もしかして、袖早なおさんって……」
「はい、僕のことです。まあ、今は何も書いていない……というか、書けないのですが」
と、早袖さんはうつむき気味に言い足す。スランプってやつだろうか? それにしても、十年前に一度だけ出会った彼女のことが忘れられなくて小説を書き始めるなんてロマンチックだ。確か、数年前に話題になった「袖早なお」の小説の題は『湖の彼女』だったような…。
「それで、もちろん今回ここで彼女に再会した時、驚かれたのでは?」
と、東城は相変わらず事情調査に徹していて、早袖さんはそれに対して静かに頷いた。
「はい。僕があれ以来小説を書けなくなり、スランプに陥っているのを見かねた周りの友人が、あの創作の原点であるペンションに行ってしばらく療養するのはどうだ、と提案してくれて。
十日ほど前にここにやってきて、すぐのことでした。このダイニングルームで彼女に会った瞬間、最初は信じられませんでした。その、やはり向こうは僕のことを覚えていなかったみたいですが……。でも彼女は幽霊でもなく、実在していて、今回は面と向かってお話もできて、それが単純に嬉しかったんです。ただ……」
そこで彼は言葉に詰まってしまったようだった。彼女との再会は手放しに喜べるものではなかったらしい。
と、東城が、彼の言葉の続きを繋ぐように言った。
「十年前から全く姿が変わっていない、ということですか?」
次回、 37. パワハラ鬼畜陰鬱吸血鬼
結局、東城という上司とあたしは分かり合えない運命なのであろう。
助手としてのやる気に満ちていたあたしに、東城はなぜか「休暇」を言い渡して———?




