石田三成の挙兵
徳川家康が会津征討で進軍中に石田三成が挙兵した。これを家康が想定していたかについて諸説ある。
第一に織り込み済みであり、これを機に反徳川の大名を一挙に倒して徳川の天下を確立しようとした。伝統的な通説である。
第二に三成の挙兵は想定していたが、毛利輝元や宇喜多秀家、三奉行も西軍になり、大阪城が占拠されることまでは想定していなかった。想定以上に西軍が大軍になって狼狽したとする。
第三に全く想定していなかったとする。家康の戦略は五大老各個撃破であった。最初は前田利長を家康暗殺容疑の冤罪で討伐しようとした。利長が母を人質にして屈服すると、次は上杉景勝に上洛を強要し、断ると謀反の冤罪で討伐しようとした。五大老を各個撃破して独裁権力を確立する方針であり、一度に複数の大名を相手にする博打を避けていた。
「徳川家康にとって上方での大規模蜂起が想定外だったことは、八月五日に江戸に戻った家康が月末まで江戸に留まった事実が何よりも雄弁に物語っている」(呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年、297頁)
家康のところには最初から全貌が伝わらず、順次情報が入っていった。最初は三成と大谷刑部吉継の反乱として伝わった。輝元や三奉行の離反は後から伝わった。家康は最上義光への書状で不利な情報を伏せずに、家康の認識をそのまま伝えていた(水野伍貴『関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争』東京堂出版、2021年、207頁)。不利益事実を隠さずに伝える姿勢は好感を持てる。
三成だけでは西軍が大軍になることはなかった。その理由も幾つかある。
第一に大谷吉継プロデュースの功績である。三成と吉継は刎頸の交わりである。吉継は、らい病(ハンセン病)を患っていた。茶会で三成と吉継が同席した際に吉継の茶碗を三成が飲み干したことがある。吉継は家康の会津征伐に従軍する予定であったが、三成に誘われた。吉継は慶長五年七月一一日に三成の挙兵に加わる決断をした。
第二に輝元や秀家が積極的であったとする。家康が利長、景勝と順次滅ぼしていくことに危機感を抱いて家康排除に立ち上がった。
三成と茶では秀吉と最初に出会った時の有名なエピソードがある。喉の乾いた秀吉に、まずは飲みやすい温めの茶を出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらった。この才覚に感心した秀吉は三成を家臣にした。三成は千利休との対立から茶の湯に厳しいと見られがちであるが、相手に快適さをもたらすという茶の湯の本質をつかんでいると言えるかもしれない。




