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林田藩  作者: 林田力
建部寿徳
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七将襲撃事件

徳川家康は、三成が朝鮮出兵の後始末で伏見を離れた間に禁止されていた大名との婚姻など自派の勢力拡大を推進する。

「おい、聞いたか?」

「何をですか?」

「あのお方がついに動き出したらしいぜ」

「本当ですか!?」

「ああ、間違いない」

「いったい今度はどんな悪巧みをするんでしょうかねぇ」

「わからんなぁ。だが、きっととんでもない悪事に違いない」

「そうでしょうなぁ……」

家康という男はとにかく腹黒いことを考える男であった。しかも、その考えがとても恐ろしいものであることが多い。そのため、三成は、いつも気が抜けない状態であった。


福島正則も徳川家と縁組みした。それが後ろめたくて正則は三成から逃げ回っていた。家康の振る舞いは石田三成らには、天下への野心をあらわにし、豊臣家の権力を簒奪する動きに見えた。ここに徳川家康と石田三成の対立が生じ、諸大名は徳川派に属すか石田派に属すか態度を迫られることになる。


本来の対立軸は徳川派と、それに抵抗する反徳川派であった。家康の専横に義憤を抱く人々と長い物には巻かれる人々の対立になる。前田利家は豊臣秀頼を擁して大阪城に入った。伏見の家康派と大阪の利家派に分かれて緊張が高まった。


ところが、官僚的支配を志向する石田三成への反感が大きく、石田派と反石田派という対立軸に陥りがちであった。これは前田利家の没後に顕著になる。利家が生きていたならば家康の好きなようにはならなかっただろう。この点の三成の無念は十分に理解できる。


朝鮮出兵の対応などで三成に不満を持っていた尾張清洲城主・福島正則、肥後熊本城主・加藤清正、三河吉田城主・池田輝政、丹後宮津城主・細川忠興、甲斐甲府城主・浅野幸長、伊予松山城主・加藤嘉明、豊前中津城主・黒田長政の七将は大阪城下の三成の屋敷を襲撃する。これに対して三成は襲撃を察知し、島清興らと佐竹義宣の屋敷に逃れた。


そこから伏見に逃れ、伏見城に籠城した。伏見城の守りは固く、戦意は十分であり、戦えば七将の軍勢の撃退も可能であった。襲撃に対して醜態をさらした訳ではなかった。多くの歴史作品では窮地に陥った三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだと描かれる。しかし、これは俗説である。


「三成は、かねて昵懇の佐竹義宣の助けをえて大坂をのがれて伏見に至り、伏見城内にある自己の屋敷に立て籠もった。そして三成を追って伏見に来った加藤らの武将たちの軍勢と、伏見城内にある三成と城濠を間にして睨みあいの状態となった」(笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件 歴史認識生成のメカニズムとその陥穽」国際日本文化研究センター紀要二二巻、二〇〇〇年、三五頁以下)


その後、家康が仲裁に入った。

「いささか不手際がありましたな」

家康が言った。

「申し訳ない」

三成は頭を下げた。

「しかし、あの程度のことで腹を立てるとは、七将もお人が悪い」

家康は苦笑した。

「まったくです」

三成は五奉行を罷免され、居城の佐和山城に隠居することになった。三成は政治的に敗北した。


織田有楽斎は徳川家康について、三河の田舎大名で天下人の器ではないと発言する。これは同時代の尾張人に共通の感覚かもしれない。加藤清正や福島正則が徳川家康を担いだことは、後の歴史から見ると豊臣家の滅亡につながったと批判される。しかし、それは後世の評価であって、石田三成が毛利輝元を総大将に担いだように、担ぎやすい御輿を担いだ感覚だったかもしれない。福島正則や加藤清正は関が原の合戦後に認識の修正を余儀なくされたが、最後まで分からなかったのが淀殿や豊臣秀頼かもしれない。


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