慶長の役
文禄の役の戦線は膠着した。日本軍も明軍も戦争に疲れ、講和交渉が始まった。秀吉は明との講和交渉で勘合貿易の復活を求めたが、明は拒否した。代わりに明は秀吉を日本国王に冊封した。これに秀吉は激怒したとされるが、これは秀吉にとって悪い話ではない。日本国王は朝廷を超えかねない権威である。豊臣家が日本国王家となることで、豊臣秀頼の権威が高まり、秀頼が幼くても豊臣家の不可侵性が高まるだろう。それにもかかわらず、慶長の役を始めたことは豊臣家の没落を決定付けた。
「一つだけ気になることがございまして……」
「何でござるか?」
「実は、朝鮮の情勢を調べていた時に奇妙な噂を聞きました。何でも、明軍が対馬に攻め寄せてくるとか……」
「ほう……」
「しかも、どうやら明軍は大軍らしいとのこと……」
「大軍を率いて攻め寄せるとは穏やかではありませんな……」
「はい。もし、それが事実ならば、我が国にとって極めて危険な状況となりかねませぬ。早急に手を打たなければ……」
「しかし、具体的にどうすればいいというのだ? まさか、明軍と戦うつもりか!?」
「いや、さすがにそこまでは言いませぬ。しかしながら、何らかの対応策を考える必要はあると思われます」
「仮にも相手は大国である。まともに戦っても勝てる見込みは少ないだろう。そこで、わざと負けるように仕向ければどうなると思う?」
「ふむ、そういうことか……」
「いかにも。向こうが油断している隙に奇襲を仕掛けるのだ。そして、不意を突かれた明軍の将軍は慌てて逃げ出すに違いない」
「なるほど……」
「そうなると、後は簡単だ。追撃して討ち取ればいいだけだ」
秀吉は慶長三年(一五九八年)の端午の節句で諸大名と対面した後に体調を崩した。秀吉の死期が迫っていることは確かである。
「わしが死んだ後、豊臣家の行く末を案じている者が大勢いる」
「だれでござる?」
「石田三成殿を筆頭にして、増田長盛ら奉行衆」
「……」
「毛利輝元、宇喜多秀家など大大名たち」
「……」
そのまま病は悪化し、床についたまま起き上がれなくなってしまった。八月一八日(九月一八日)に伏見城で亡くなった。
慶長の役の最中であり、朝鮮には加藤清正ら日本の大軍が出兵中であった。既に泥沼の戦いになっていたが、秀吉の死が知られれば朝鮮側が大攻勢をかけることが予想された。このため、朝鮮に出兵中の将兵を速やかに撤退させることが政権の課題であった。戦争でもビジネスでも投資でも撤退戦が最も難しい。
秀吉は幼い秀頼が成人するまでは徳川家康ら五大老が補佐し、合議制で政治を行うことを遺言した。とはいえ家康が筆頭大老として力を持った。家康は朝鮮からの撤兵という難題を石田三成に押し付けた。諸大名は順次、釜山から博多へ帰着した。
三成は朝鮮から撤退した福島正則ら武断派諸将を出迎えたが、ここでひと悶着があった。
「疲れをとるために湯に漬かって下され」
「それほどわしらは臭いのか」
諸将は逆に怒りを大きくした。三成に悪気はないとしても、相手の心を読まない自分勝手な配慮の押しつけが反発を招いた。
「おぬしらは我らが朝鮮で戦っていた時に何をしていたのだ」
清正は怒鳴りつけた。
「わしらが無能と思っているのであろう」
清正は吐きすてるように言った。
「朝鮮の地を踏んだ者なら誰しも思うことだろうが、あの地は地獄であったわ。糞尿まみれの土地を踏み荒らし、敵味方の血肉を浴びながら駆けずり回った。それでもなお足りずに、今度は死体を漁っている。こんなことをするために人を殺してきたわけではないというのに、まったく馬鹿らしい限りではないか」
清正の言葉に「わしらの苦労話を聞いてくれ」という声なき叫びを感じ取ったのだろうか、他の諸将も同調して騒ぎ始めた。
「そうじゃ、そうじゃ」
撤退が一段落すると三成は清正に貸米の返済を催促した。補給もままならない朝鮮で戦っていた清正には酷な要求であった。清正は状況を無視した三成の要求に激怒する。徳川家康は金がない大名に金を貸していた。三成よりも家康に人心が集まることは自然な成り行きであった。
しかし、三成には三成の考えがあった。秀吉子飼いの大名である清正を優遇するような対応をしたら外様大名に示しがつかないとの考えである。この公正さは現代に求められている。日本では人情味ある解決がもてはやされがちであるが、それは往々にして外部に負担と我慢を押し付けた身内優遇、既得権擁護になりやすい。それよりは機械的な合理主義の方がまだ公平である。
三成と清正では三成の方が官僚的とするイメージがある。しかし、ここでは清正の方が世間の非常識を押し通す公務員感覚の存在になる。二十世紀と異なり、二一世紀に三成の人気が高まった背景には、この点があるだろう。




