豊臣秀次
秀吉は豊臣秀次に関白職を譲り、豊臣家の後継者とした。秀吉は秀次に聚楽第を贈った。秀次は秀吉の養子であり、養子とは実の子供の代わりになる者である。実子がいない以上、秀次の出世は当然のことであった。彼の地位は、秀吉の後継者としての地位を保証されたに等しいものであった。
「わしには子がおらぬゆえ、誰かを豊臣家の跡継ぎに迎える必要がある」
「それがしですか?」
「そうだ」
「しかし、某は……」
「分かっておる。それでも、そちを跡継ぎにしても良いと思ったのだ」
「わしの跡継ぎになれば、関白になれる」
秀次には、秀吉を補佐できる能力が必要だった。
「確かに秀次は有能です。しかし、それだけで天下人になれるほど甘くはないのです」
「だから何だというのだ?」
「秀次の欠点を補うほどの人材が必要なのです」
「そんなものいくらでもおるであろう」
「残念ながらおりません」
「いないだと? 嘘をつくな!」
「本当なのです。秀次に勝てる者はいません。ただ一人を除いて……」
「それは誰なのだ?」
「私です」
「貴様だと!?︎」
「はい」
「戯言を言うでないわ」
また、秀次自身が権力を握る必要があった。秀次は秀吉の跡を継ぐためには、秀吉と同じぐらいの力が必要と考えた。つまり、秀吉以上の実力者になることを目指した。そのためには自分が権力者になる必要があった。
その後に秀吉と淀の間に秀頼が誕生し、雲行きが怪しくなった。秀吉が秀次を粛正するのではないか、秀次が謀反を起こすのではないかと噂が流れた。
「太閤殿下は、この国をどうするつもりなのか?」
「関白さまにお尋ねしたい」
「わしにも分からぬ。ただ……」
「死なねばならぬのか?」
「……」
「病か?」
「いや」
秀次は首を振った。
「寿命であろう」
「そんな馬鹿な!」
「医師どもも同じ意見じゃ」
「……」
「そして、わし自身」
「関白さま自身が!」
「うむ」
「なぜです?」
「さて、そこよ」
秀次は文禄四年(一五九五年)に高野山に追放され、七月一五日(八月二〇日)に自刃した。秀次の自刃は豊臣家滅亡の遠因である。豊臣家は秀吉死後に柱石となる人物を失い、徳川家康の天下取りを容易にした。秀次を死なせたことは秀吉の愚行になる。
最も古典的な見方は殺生関白である。秀次は暴君・暗君であり、殺されて当然とするものである。しかし、これは秀次を死に追い込んだ豊臣政権を正当化するために作られた話である。逆に秀頼を後継者にしたい秀吉が秀次を滅ぼしたかったと見られている。さらに秀吉側近として権力を握り続けたい石田三成ら奉行衆が讒言したとの説が加わる。
これに対して秀吉も三成ら奉行衆も秀次を死なせるつもりはなかったとする見解が出ている。秀吉も三成も秀次を失った場合の豊臣政権の打撃を理解していた。秀吉は自分が死んだ後、天下がどうなってしまうのか不安を抱いていた。そこで、自分の死後、豊臣政権をまとめることのできる人物を必要とした。それが秀次だった。
秀頼可愛さのために耄碌した秀吉が秀次を殺したというほど単純ではない。しかし、そこまで愚かではないからこそ秀次を死なせたことは失策である。秀吉は秀次を謹慎させ、謝罪を取り付けて幕引きするつもりであった。ここにはマウンティングしなければ気が済まない権力者の浅はかさがある。
秀次は相手の思う通りにならなかった。自発的に自刃した。抗議の死、憤死である。権力者の意を汲んで自分が我慢して丸く収めるというヒラメ公務員的なことはしない。秀次も自分の死が豊臣政権に打撃を与えることを理解していた。自刃という行為が復讐になる。それ故に憤死と言っても悲壮感よりも、夢見心地で死ねたであろう。
秀吉の失策は、秀次を自刃に追い詰めたことである。秀吉は死後の対応も誤った。秀吉は秀次の謀反を正当化するために多くの関係者を連座させた。連座して処刑された人々の関係者は悲しみ、憤る。あまりに理不尽である。理不尽であると呪ったとしても無理はない。豊臣政権から多くの人々の心が離れた。
福島正則は寛永元年(一六二四年)に亡くなった。その遺体は幕府の検死役が到着する前に家臣が火葬にした。夏の暑い日であったために腐敗を恐れたと説明されるが、自刃を隠すためではないかと疑われ、家禄は没収された。徳川家綱時代の殉死の禁止も殉死することが当然という周囲の圧力や事実上の強要を否定する点は美事になるが、勝手に死ぬことを許さない、死を管理するという権力の傲慢もある。




