表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
林田藩  作者: 林田力
建部寿徳
PR
30/142

岩崎城の戦い

先発と次発の恒興と長可は三河に向けて兵を進めていた。恒興は道すがらの百姓に「勝利したならば良くしてやろう」と言って道案内や情報を求めた。これに対して家康は「勝利を得れば、三年年貢を免除しよう」と言って道案内や情報を求めた。メリットが具体的な家康に情報が集まった。長可は村々に火を放って進軍したため、羽柴勢への反感が高まった。当時の農民は武装しており、決して無力ではない。村々はゲリラ的な徹底抗戦を続け、森勢の行軍を遅らせた。


途中に岩崎城があった。岩崎城は土塁や空堀を備えた中世城郭である。城主は丹羽氏次である。氏次は織田信長の家臣で、本能寺の変後は信雄に仕えた。しかし、信雄と対立したため、天正一一年(一五八三年)に家康の家臣となった。今回の戦いで氏次は小牧山に出陣しており、岩崎城は弟の丹羽氏重が守っていた。城兵は僅か二百人強であった。恒興は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい」と岩崎城を無視して進むつもりであった。


これに対して氏重は四月九日午前四時頃に岩崎城付近を通過する池田軍を発見し、攻撃する。氏重は少しでも足止めすることに意味があると戦いを挑んだ。攻撃されたため、恒興は岩崎城を落城させることに方針転換する。


恒興は岩崎城を三度攻撃し、その度に撃退された。そこに第二隊の森長可が横合いから加勢した。

「くっ……怯むな!押し返せぇー!!!」

「うぉおおおおおおおお!!!」

岩崎城は落城し、氏重以下、城兵は全て討ち死にした。岩崎城の戦いの足止めは家康にとって大きな意味のあるものであった。後に家康は「長久手の戦いの一番手柄は池田勢を足止めさせた岩崎城代丹羽氏重である」と評した。家臣の決死の足止めによって貴重な時間を稼ぐことは、関ヶ原の合戦の伏見城の戦いと重なる。


恒興は三河に進軍したかったが、攻城の激戦で消耗した部隊もあった。

「ここで一旦、守りを固めるべきです」

家臣は進言したが、恒興は無傷の部隊を先行させた。家康は大軍を小牧山に動員しており、三河には大した兵力を残しておらず、少数でも速やかに三河に侵攻することを考えた。先に出発した部隊は三河の矢作橋の近くまで到達したが、分散している状態で徳川勢の攻撃を受けることになる。しかも、後続の秀政と信吉は撤退しており、孤立してしまった。


恒興が岩崎城を攻めたことの是非は議論がある。中入りの目的が三河を攻め取ることならば岩崎城を無視して岡崎城に進むべきだったとなる。この場合は岩崎城という後輩に不安を抱え、敵中に孤立する可能性がある。これに対しては九鬼水軍が制海権を有しており、補給面の不安はなかった。逆に中入りの戦略目標を三河攻撃ではなく、家康を引きずり出して叩くことと位置付けるならば必ずしも急ぐ必要はない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ