引田の戦い
賤ケ岳の戦いと並行して四国では引田の戦いが起きた。讃岐国で秀吉配下の仙石権兵衛秀久が橋頭保を築きつつあった。
「四国の独立を守るためには、まずは秀吉子飼いの秀久からですぞ!」
長宗我部家の家臣達は口々にそう言った。
「御大将は如何お考えか?」
「よし! ワシに任せておけ!!」
元親は胸を張って答えた。
「ならば、某から申し上げることはござらぬな」
元親は出陣し、秀久と激突した。秀久は緒戦で勝利するが、それは元親の想定内であり、手痛く敗退した。兵力でも戦術でも元親は秀久を圧倒していた。元親は名将である。鉄砲を多数配備しており、遅れた田舎武士ではない。
「殿、この戦、勝ち目はございません」
「うむ……だがなぁ……」
「今からでも遅くはありませぬ。逃げましょう」
「そうはいかん!ここで俺が逃げたら誰が戦線を支えるのだ」
「しかし、このままだと討ち死にですぞ!」
「俺は死ぬ気はない! お前も逃げるなら勝手にしろ!」
「くっ……」
秀久と家臣が口論している間に本陣に長宗我部勢が押し寄せてきた。
「かかれぇー!!」
「者共、掛かれぃ!」
「勝てるぞぉ~!」
「皆殺しだぁ~!」
「死ねぇ~!」
本陣には槍兵が多い。馬廻り衆など精鋭部隊である。さらに、鉄砲隊もいる。数では負けているが士気は高い。
「怯むな! 押し返せ!」
「応!」
「おおおぉぉぉ!!」
「えい! えい!」
「せい! せい!」
「殺せ! 殺せ!」
「突撃じゃあ!」
「おおおぉぉぉ!」
秀久には手痛い敗北であった。若者の猪突に流されたことが敗因である。秀久自身も猪突によって武功を立てており、自分が偉くなったからと言って抑える側に回るのは不公平という思いがあった。しかし、その結果、名をなすこともなく散っていく若武者も出る。秀久は後に九州でも同じような失敗を繰り返し、三国一の臆病者と笑われることになる。学習しない人間ならば、つまらない。
一方で絶望的な状況でも玉砕思想にならない点は評価できる面もある。何とか落ち延びようとする。ここには後に三国一の臆病者と謗られながらも逃げた武将の哲学がある。単純に切り捨てられない。
秀吉は賤ケ岳の戦い後に摂津国を領していた池田恒興を美濃大垣一三万石に転封した。摂津国は秀吉の直轄地になる。
「大垣は交通の要衝です。大垣を押さえれば、美濃各地への補給路を絶つことができます」
羽柴秀長は説明する。
「美濃国は織田家にとって重要な土地であり、池田殿しか任せられる人はいない」
しかし、秀吉の本音は畿内の直轄地を拡大したいということであった。秀吉の転封による大名統制策は今後も続いていく。徳川家康の関東移封が有名である。
大阪を直轄地にした秀吉は天下人の威勢を示す城として大阪城を築城する。秀吉は各国から職人や作業員を動員して、大工事を敢行した。寿徳は摂津尼崎郡代として三万石の蔵入地の代官になり、尼崎港を管理した。自己は七百石を知行した。




