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林田藩  作者: 林田力
建部寿徳
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山崎の合戦

本能寺の変が起きた時、秀吉は備中高松城を水攻めしていた。毛利家は高松城救援に大軍を送ったが、手が出せなかった。吉川元春は秀吉の計略に嵌められたと自覚し、玉砕を覚悟する。


秀吉は本能寺の変を知ると、黒田官兵衛に相談した。

「実はな……」

「そんなことが……」

「官兵衛よ。これからどうする?」

「もちろん弔い合戦です」


秀吉は即座に毛利と講和を締結し、中国大返しを行った。秀吉は情報を封鎖して、毛利家が本能寺の変を知る前に和議に持ち込もうとした。和議締結後にだまされたことを知った毛利は怒り、吉川広家が追撃しようとしたが、小早川隆景が秀吉に恩を売ろうとして制止した。隆景や安国寺恵瓊は薄々気づいていたが、和議を優先したとする説もある。


しかし、秀吉と毛利の間は、それで終わらなかった。国境画定交渉が残っていた。毛利側はだまされた立場であり、領地の割譲を少なくしようとした。秀吉は柴田勝家や徳川家康と対立している時は有耶無耶にしつつも、天下人として力をつけており、毛利に臣従を求めようとした。完全な決着は四国征伐で伊予を毛利の領国にできるとなった時であった。御恩というメリットを提示しなければ、まとまらないものである。


秀吉は六月六日に出発し、八日に姫路城に戻った。池田恒興は秀吉を兵庫で出迎えた。信長の死に互いに涙をこらえられずにいたが、力を合わせて光秀を討つことを決めた。両家の関係を深くするために恒興の娘を三好信吉(羽柴秀次)に嫁がせ、次男の輝政を秀吉の養子にすると約束した。


池田恒興は織田信長の乳兄弟であり、信長の最も信頼する家臣であった。林田藩の初代藩主は建部政長の母は恒興の息子の池田輝政の養女である。恒興は後に長久手の戦いで討ち死にするために二線級の武将とされがちであるが、徳川家康が強過ぎると見るべきだろう。次代の池田輝政は江戸時代に一族合わせて百万石を誇った。


恒興は頑丈な脇差を持って出陣していた。これは信長が弟の信行を殺害した際の経験に基づくものである。信長は三人の刺客を用意したが、討ち損じて信行は廊下に逃げたところ、恒興が刺殺した。この時に恒興が使った脇差は細くて弱々しくて殺害に苦労した。そこから「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」が持論になった。


秀吉が尼崎へ着陣すると、恒興、中川清秀、高山右近らで軍議を行った。恒興も清秀も右近も先陣に名乗りを上げたが、秀吉が仲裁をして、右近が一番、清秀が二番となった。恒興は右近や清秀を統括する立場であったため、先陣争いから外れた。


さらに織田信孝と丹羽長秀が合流した。秀吉と恒興は信孝を出迎えて涙を流した。信長の息子の信孝は弔い合戦の旗印であるが、信孝が秀吉に合流したという点が重要である。実質的な総大将が秀吉になった。この勢いのまま秀吉は山崎の合戦を主導した。ここから関白就任、天下統一に至る過程は豊臣秀吉の絶頂期である。秀吉が最も輝いていた時期である。


山崎の合戦は理想を掲げた明智光秀と手段を選ばない羽柴秀吉の対決である。山崎の合戦は今後数百年の民のあり方を規定する戦いになった。秀吉が勝利したことは日本の民衆にとって不幸である。光秀が危惧したように、お上に依存する国民体質が出来上がった。


山崎は光秀の政権構想のモデルとなった自治の町である。光秀は自己の理想を貫くために自治の町を戦場にすることを避ける。手段を選ばない卑怯者ではない。光秀が軍を引いたために秀吉は無傷で町に進駐する。秀吉は町人に対して平和的に進駐したかのように振舞うが、光秀が軍を引かなければ町を戦場にするつもりであった。秀吉の偽善が腹立たしい。


「これで天下が定まった」

山崎の合戦に勝利した秀吉は高笑いした。



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