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【完結】月下の虎は甘く冷たい指先を食む  作者: 文野さと
3章 王都にて

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63 夜を駆ける

「よし!」

 レイフェリアは粥を食べ終わった。

 粥は食べたことのない味だったが、たいへん美味で、穀物に細かく刻んだ肉や野菜がたっぷり入った滋養豊かなものだった。冷めにくい器に入った濃い茶もあったので、それも有り難くいただいた。ここは言わば敵陣であるが、食べ物や料理人には罪はないのだ。

「悔しいけど美味しかった」

 久しぶりに食物を入れてもらった体が喜んでいる。血の巡りも良くなり力が戻ってくる。

 仕上げに水差しから水をたっぷり注いで飲む。先ほど奥にある不浄にも行ったので、体の中の薬物は、これでかなり排出できただろう。

「あいつはどうしたんだろう」

 ファハルは隣室に行くと言って出て行ったきり、帰ってくる様子がない。先ほど近くで複数の足音がしたようだから、もしかしたら予想外の出来事が起きているのかもしれなかった。

 レイフェリアはそろそろと寝台から立ち上がった。

「これならいけそうだわ」

 万全ではないが、ふらつきはほぼ収まっている。ファハルが戻って来ない内に脱出しなければならない。

 ──でも、この場所が屋敷のどこかもわからない。

 この館がどれほど広いかわからないが、レイフェリアが知っているのは正面玄関から庭に抜ける、ごく表の部分だけである。庭園から見上げた時は、暗かったので屋敷の規模まではよくわからなかったのだが、南方領主の屋敷の規模から見ても、同じ四方侯の屋敷なのだから相当広いとは想像できた。

 ──ああ、この鍵は私では壊せそうにない。

 レイフェリアはこの部屋のたった一つだけの扉に触れてみたが、当然ながら厳重に鍵がかけられている。この部屋の周辺には人がいる気配はないが、どこかに見張りがいるだろうし、窓もないから、ここが唯一外に向いている出口である。

 レイフェリアは立ち止まってしばらく考えた。

 ──そう言えばファハルは、私の記憶を消したと言っていた。

 彼が上着から出した瓶には濃い紅色の液体が入っていた。あの液体には人の記憶に作用する成分が入っていると考えられる。

 レイフェリアを眠らせた薬といい、人々を操った音の操作といい、どうもここには人を惑わせる技術が存在するようだ。

「そういえば」

 ふと、レイフェリアは思い当たった。

 以前、叔父の部屋で彼に会ったとき、帯に紋章を刻んだ円盤が見えた。つる草の絡まるようなあの意匠は、今思えば蛇だったとわかる。蛇は知恵を象徴する動物。特に薬医学、そして魔術を(つかさど)ると言われているのだ。

 つまり、東方領主家は薬使いの家柄なのだ。

 その形状があまりにも象徴化されすぎているので、一般にはあまり知られてはいないが、四方侯家の紋章は動物を意匠としている。

 レイフェリアの北方領主家は鳥の(くちばし)、南方領主家は三日月型の爪、西方領主家は霊長類を示す五本指。

 それはもはや伝説の時代、古い祖先から受け継いだ知恵や特性から、象徴となるものを表しているのだ。

 そう考えたら獣に変異する南方領主家は、色濃くその名残を残しているということになる。長らく血の純正を保ってきたのだ。あれほどでなくてもレイフェリアにも跳躍力がある。見かけより体重も軽い。もしかしたら四方侯家は人知れず、その血を脈々と受け継いでいるのかもしれない。関係する者以外にはほとんど知られないままで。

「もっと調べておけばよかったのだわ」

 今更ながら自分たちの軽率さが悔やまれる。

 ──ともかく、ここから出なければ。何としても!

 まずティガールを助け出さなければならない。

 ファハルの言ったことが本当なら、彼はまだ表側の庭園の檻に閉じ込められているのだ。そして、他の客たちはどうなったのだろうか? そしてオセロットやヒューマはなにをしているのか?

「……!?」

 背後で扉の開く音がした。

 ──まずい! もうあいつが戻ってきたのかしら?

 しかし、扉が開いて滑り込んできたのは、意外にもオセロットだった。この屋敷の衛兵の装束を身に着けている。

「レイフェリア様!」

「オセロット!?」

 驚いたレイフェリアが駆け寄る。

「ティガール様は? 無事なの?」

「私にはわかりません。しかし、そちらはヒューマが何とかするでしょう。ともかく今の隙にここからお逃げください」

「わかった!」

 レイフェリアの決断は早かった。逃げる機会は今を置いてない。

 オセロットの持っていた短剣で、長いドレスの裾を切り取ると、すぐに部屋を飛び出す。いくつかの部屋を抜けると長い階段があった。ここは塔の上だったのだ。何階層か駆け下りた時、下方に人の気配がした。

「もう嗅ぎ付けられたか」

 オセロットが当身を当てた衛士が気が付いたか、応援の衛士が来たに違いない。

「くそ、どうしたら」

「大丈夫よ。私はここから出るわ」

 レイフェリアは塔の壁に穿ってある明かり取りの窓を指した。ちょうど人一人が通り抜けられる大きさだ。幸い木戸があるだけで格子は嵌っていない。

「硝子を破ればなんとかなるわ。私の能力は知っているでしょう? 屋根づたいに跳べる」

「外は雨です。それにこの闇ですが」

 オセロットは心配そうに言った。

「ええ、わかっている。でも今は行くしかない! そうでしょう?」

「わかりました。ではこれを!」

 すぐに納得したオセロットは短剣をレイフェリアに手渡す。これで身を守れということだろう。すぐさまレイフェリアは窓枠に取り付くと、ドレスの残骸を腕に巻きつけ、短剣の柄で硝子を割った。雨音が音をかき消してくれるので、遠慮なく破片を外に落とす。

「行けそうだわ」

「わかりました。私のことは気にせずお行きください! どうぞお気をつけて!」

「ええ、後で会いましょう!」

 そういうとレイフェリアは暗闇に身を躍らせた。


 空は墨を流したように暗かった。建物に雨が降り注ぐ音がその空間の大きさを示している。

 ──こんな造りの屋敷だったのね。

 一番近い屋根の上に下り立ったレイフェリアは改めて周囲を見渡した。

 自分のいた部屋も丸い形だったが、東方領主の屋敷はどの建屋も円形をしており、レイフェリアのいた塔を取り囲むようにいくつもの建物がある。所々に高い塔があり、その周囲は中庭と回廊になっているようだ。何もなければ風変わりで美しい建造物だと思ったことだろう。

 さっきの部屋が暖かすぎたので、雨で湿った大気の中を飛ぶのは気持ちが良かったが、すぐに体が濡れはじめた。灯りの漏れている窓や廊下もあるが、屋根の上は暗く、雨に濡れて足場が悪い。この中を飛び渡るのは、かなり難しい芸当だった。薬の影響も完全に抜け切ったとは言えない。

 レイフェリアはいつもより慎重になって、距離も高さも抑えて屋根から屋根に飛んだ。

 目指すはティガールのいる庭である。方角がわからないが、都の大通りから来たことは知っているから、少しでも明るい方向へと跳んだ。

 ──あ! あれは!

 何度目かの跳躍でレイフェリアは、外郭に近い塔の中にファハルの姿を見つけた。

 ──戻ってこないと思ったら、こんなところにいたのね。あんなにしつこくしていたのに、何か拙いことでもあったのかしら。もし向こうにとって拙いことなら、もしかしたらこちらに有利に働くかもしれない。確かめなくては!

 レイフェリアは慎重に狙いをつけて、三階層の塔の中程にある窓の庇に降り立った。

 雨はいよいよ激しい。そっと中を窺う。

「あれは……」

 中はそれほど広くない部屋だった。

 ファハルが寝台に横たわる女性の上に屈み込んでいる。

 最初、何かいかがわしいことをしているのかと目を背けようとしたが、女性がまだ少女と言っていいような年齢で、しかも非常に苦しそうにもがいているのを見て、レイフェリアは様子を確かめることにした。

 少女は着飾っていて、服に見覚えがあるので今夜の客の一人だろう。よく見ると、他にも黒服の男たちがいておろおろした様子で見守っている。やはり何かよくないことが起きているのだ。

「声の聞こえるところに行かなくては」

 幸い、窓の近くには衝立てがある。それに中の人々の目は苦しむ少女に集中しているので、今なら忍び込めるだろう。そっと窓を押すと簡単に開いた。ここは三階だ。鍵をかける必要もないのだろう。


「薬は吐かせた。この娘は体が小さいから効きすぎたのだろう。繰り返し見せられる悪夢に耐えられなくて発作を起こしたのだ」

 ファハルが額の汗をぬぐって後ろの男に言った。

「さすがはファハル様。ようございました。いくら何でも、ここから死人を出すのは拙うございますから」

そう言った男には見覚えがあった。叔父の家での昼食会にファハルの代理として出席したあの男だ。やはりファハルの腹心だったのだ。おそらく、王都の様々な屋敷に出入りして情報を集めたり、今夜招く客を選別したりしていたのだろう。

「それはそうだ。今夜の客たちには人間が(けだもの)に変化する様子を見せつけて、脳裏に刻みつけ、それを王都中に吹聴してもらわねばならんからな。忌々しいあの男を四方侯の座から引きずり下ろすために」

「では、意識のないうちに娘を下の部屋におろしましょう。この娘の父親もまだ眠っておりますが、直に目を覚ますでしょう。今しかありません」

「待て、その前に記憶を(いじ)っておこう。この屋敷で発作を起こしたことは忘れてもらわねばならん。獣の記憶は多少曖昧になるだろうが、それは他の者どもがいるから問題ない」

「何しろ有力な人物ばかりですからね。では、例の薬を」

「うむ。今度は十分に希釈せよ」

 ファハルはそう言って、懐からあの紅色の液体の入った瓶を取り出した。

 ──やっぱりあの薬は記憶をなくさせるものなんだ! あの子が忘れてしまえば、今夜のことを証言する人がいなくなる!

 ファハルの部下は水の入った容器をファハルに差し出し、彼はそこに二、三滴の液体を垂らした。蓋は特殊な構造になっていて、霧状に中身を噴霧する構造になっているようだ。

 何度も攪拌(かくはん)させてからしっかりと蓋が閉められる。鳥のくちばしのように、横に突き出した部分が娘の顔に近づけられた。

 ──いけない!

 レイフェリアは衝立ての陰から飛び出した。

「やめるのよ! その子に手出しはさせない!」






説明不足なところはありませんか?

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