62 脱出
注意:毒物で苦しむ描写があります。
闇に沈む庭園。
気配を隠して潜んでいたヒューマは、近くに人の気配がないことを確かめて、そっと檻に近づいた。
虎はしきりに地面に頭をつけて彼の方を見ようともしない。
「あ、主様! 私がわかりますか?」
呼びかけに虎がやっと反応し、振り向いた。
「よかった! 私です。元に戻れないんですか?」
ヒューマの問いに虎がそっぽを向く。どうやら、音の呪縛からは解けたものの、獣化を自分で解くには至らないようだ。
今夜は月の見えない新月で、獣の能力を操るには不向きな夜なのである。それを無理やり獣にされてしまった主人は、少なくとも夜が明けるまではこのままなのだろう。
「そうですか、この檻には扉はなさそうだし、この重さではひっくり返すこともできない……ところで主様は、そこでなにをなさっていたんですか?」
さっき虎が蹲っていたところには、穴が掘られていた。檻は小道の上に落ちてきたので、真ん中には石畳の小道が通っているが、その幅は狭く、檻がはみ出た部分はただの地面である。虎はその部分を掘って脱出しようとしていたのである。
「なるほど! 檻の下を潜って逃げようという算段ですね! よし!」
ヒューマは外側から掘ろうとしたが、石が多くて土は固く、何か道具があった方がいいと思い直した。
「幸いここは庭だ。どこかに庭仕事用の道具があるはず! 主様、少し待っていてください!」
ヒューマは庭園から離れた壁際の物置から木製の円匙を探し出して戻ってきた。
「うまい具合にこの付近には誰もいません。主様の姿を恐れてのことでしょうが、護衛も皆、屋敷の周囲を守っているようです。外に潜ませたウンピョウ達を呼びに行きたいが、まずは一刻も早くここから出ることが先決です」
檻の外で地面を掘りながらヒューマは話を続ける。土は踏み固められていてなかなか掘り進められなかった。獣は泥だらけになりながら地面に頭を埋めている。おそらく爪も鼻も傷ついていることだろう。
「オセロットさんは、屋敷の中にいます。彼のことですから、きっとなにか探っているでしょう。もしかしたらレイ様の連れて行かれた先を追っているかも。そりゃっ!」
ヒューマは気合とともに、地面に食い込んでいた石を放り投げた。既におびただしい土が辺りに飛び散り、小山のようになっている。
「それに他のお客のことも気になります。彼らは明らかに異常でした。多分、東方領主家は、薬や音を使って人心を操ろうとしているものかと思われます。そうだとするとレイ様が危ない! ああ、もう少しだ!」
ヒューマももう、泥にまみれていない部分がない程の汚れようだが、掘り始めて四半時ほど経つと光明が見えてきた。穴の底に小さなトンネルが開通したのである。
「よし、あと少し! ん?」
その時、ぽつぽつとヒューマの肩を叩くものがあった。ティガールの予知した雨がついに降ってきたのである。
「しめた! 土が柔らかくなるぞ」
ほんのわずかの間に雨は強くなり、灯されていた松明や蝋燭が次々に消えていく。建物から漏れる僅かな明かりだけが頼りだった、土は泥濘となって二人を更に汚したが、必死になって掘り進める彼らは、そんなことには構いもしなかった。
「よし!この感触ではもう少しだ! 主様、俺がやります! どいてください!」
ヒューマは自分で掘った穴の中に身を躍らせると、円匙を大きく使って一気に二人を隔てる壁を突き崩した。
「はっ! せいやっ! あと少し!」
虎は穴から少し下がって青年の動きを待っている。ヒューマは腕も折れよとばかりに土に向かった。
「でやああああああ!」
出し抜けに大きく土が崩れ、体が前につんのめる。ようやく獣が通れるくらいの穴がぽっかりと開いたのだ。
「うわっ!」
ヒューマを突き飛ばすように、虎が踊り出る。美しい毛皮には泥がべっとりとへばりついて正真正銘の化け物のような姿だった。牙だけが弱い光に白々と光った。
「主様! このまま行ってください! 俺もすぐに追いつきます!」
ヒューマが口の中に入った泥を吐き出しながら叫ぶ。
「ゴゥ!」
虎は一声吠えると青年を飛び越え、闇の中に姿を消した。
──これはいったいなんなのだ。
オセロットは柱の陰に潜んで、うめき声をあげる客たちの様子に戦慄していた。
ぼんやりした表情の客たちは、塔の下の部屋に並べられた寝椅子に一様に寝かされたあと、黒い服を着た薬師のような男達に、薬液のような飲み物を飲まされた。するとすぐに彼らは眠ってしまい、しばらくしてうなされ出したのだ。
皆一様に「化け物!」「助けて! 喰われる!」などと叫んでいる。まるで終わりのない悪夢を見ているかのように。
──うわ言の内容から見て、彼らはティガール様が獣に変移するところを見せつけられたのだろう。変異の原因はやはり「音」か? しかし、この屋敷に獣が乱入した様子はない。つまりティガール様は庭に捕らえられているのだ。おそらくヒューマがなんとかしようとしているのだろう。ではレイ……レイフェリア様は?
嫌な予感がオセロットを襲った。
ティガールを庭に捕らえておく必要があるということは、レイフェリアと引き離す目的があるということだ。彼の唯一の弱みが彼女だということを東方領主は気付いたに違いない。とすれば──。
──レイフェリア様もどこかに捕らえられているということか?
オセロットはレイフェリアがただの令嬢でないことを知っている。普通ならば大人しく捕らえられることはないだろう。しかし、目の前のあの客達の様子を見れば、この屋敷の主がどんな卑劣な手段を使ってくるか、わかったものではない。
レイフェリアの身に危機が迫っているのだ。
──こうしてはおれない。急いでレイフェリア様を探さなくては! だが、どこに?
オセロットがそう思った時。
「どうしたっ!」
客達の様子を見ていた薬師の一人が慌てふためいている。
柱の近くで横になっていた、まだうら若い女性が急に体をよじって苦しみ出したのだ。彼女はまだ子供から抜け出したばかりの年頃の令嬢で、客達の中では一番若い部類だろう。
「拙い! 薬が体に合わなかったようだ!」
すぐに黒服の薬師達が駆け寄ってくる。
「すぐに解毒せよ! 今夜この屋敷から死人を出しては拙い! 吐かせるのだ!」
「やっています! しかし、これはもう……」
哀れな娘は痙攣を起こしたように、四肢を捻じ曲げて苦しんでいる。口も目も限界まで開かれて、可憐な姿が嘘のように身悶えていた。それは見るに耐えない光景だった。
「いかん! ファハル様を呼んでくるのだ! これは我らの手には負えん!」
「はっ! すぐに」
バタバタと薬師の一人が部屋を出て行く。
オセロットはこの好機を逃さなかった。
──よし! あいつは東方領主の元へ向かう。おそらくそこにレイフェリア様もいるはずだ!
彼は身を翻し、音もなく後を追った。
そこは予想通り、この屋敷の中心にある場所だった。
この屋敷は円形の建物が渡り廊下で連なる変わった構造だった。ところどころに塔が建っていて、小さな窓がついている。中心に建つ塔が一番高く、優美な形をしていた。この不思議な屋敷の核となる部分だろう。
──やはり、あの塔の中か?
塔の周囲は内庭のようになっていて、そこだけ回廊越しに空が見える。入り口は一つだった。
その扉の前にも二人の護衛が立っていて、駆け込んだ薬師が何やら耳打ちをしている。護衛はすぐに扉の鍵を開けて薬師を中に通し、自分もその後を追った。
「しめた! これでここの護衛は一人だ!」
オセロットはすぐさま残った護衛の背後に回り、当て身を食らわせた。声もなく護衛が崩れ落ちる。すぐに猿轡を噛ませ、近くの部屋に押し込んで、鍵と着ているお仕着せを剥ぎ取る。これで何とかごまかすしかない。
塔の上から薬師と東方領主が駆け下りてきた時には、何食わぬ顔をしてオセロットは一人で扉を守っていた。先ほどから降り出した雨が本降りとなって、うまい具合に顔をごまかしてくれている。
「お前! 私が帰るまでこの中に誰も入れるな! 誰も出すな! いいな、すぐに応援をよこす!」
「は!」
自分の鍵で扉を施錠した東方領主が薬師と護衛を引き連れて、慌ただしく回廊の外に出て行く。姿が見えなくなるまで見送ってオセロットは塔を見上げた。
この上にレイフェリアが囚われている。
オセロットはそう確信した。
鍵を開け、重い扉を開けると中は意外に明るく、美しいホールになっている。その奥にらせん階段が見えた。
「よし!」
オセロットは一気に階段を駆け上がった。




